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Family dramas are only entertaining when they are on television.

誕生日は、恒例、日本にいる弟からの電話(早朝)で起こされたのだけど。律儀にお電話くれる弟に感謝。私とこの人は年が近いもので仲良し姉弟ではあったのだけど、渡米→大学院中退からその後のもろもろを勝手に勧めたりして、家族のこと、かーちゃんのことを考えろやと怒った弟とは10年くらい断絶していたのだけど。私の夫アルゴとの入籍を期に、妹の仲介もあり、おかげさまでまた仲良しである。ちなみに私(長女)、弟、妹。

弟からの電話も嬉しいが、その娘っ子(姪)と甥と話すのもうれしい。断絶中にすくすくと育ったこの姪と甥。かわいい盛りにそばにいないどころか、成長の過程を知らなかったものでついつい甘やかしてしまう。というわけで、今回は、家族ドラマ。どこのご家庭にもそれぞれに、色々なドラマが存在する。今日はそんなお話。(そして長い。いつにもまして長い)

夫アルゴもママのきょうだいであるおじ、おばに溺愛されて育っている。彼にはお父さんがいなかったけれど、ママのお母さん(祖母)が亡くなって、きょうだいが住んでいた家が全焼して、何もなくなってしまったところに生まれてきたのが夫アルゴだったので、彼は生まれ落ちた瞬間から特別だった。

なんてことを教えてくれたおじ(ママ兄)が先日、62歳で亡くなった。自分たちの年齢を考えると、見送る人たちが増えるのはわかる。それにしたって、今年は別のおじの死去から始まり、このおじである。

このママ兄は、我々の住む街より更に奥地に住んでいるのだが、付き合い始めて初めて出会ったおじであった(もちろん、初めて会ったおばは近所のおばである)。おじは何度か心臓の大きな発作を起こしていて、先月から危篤とは言われていた。心機能が低下しすぎて、血がうまく循環せず、意識はあり、話せるものの、足が壊死しだし、記憶も曖昧になることが多くなっていた。

このおじと連れ合いであるおばは、初めてあったときからずっと良くしてくれていた。夫が特別な甥っ子であることはもちろん、彼らもInterracial Marriage Couple(異人種間の結婚カップル)であったので、同じ状況である私達の諸々を理解していてくれるということもあれば、おばは教師であるので、同じ職になった夫アルゴを応援もしてくれていた。

んが。この連れ合いのおばと、ママのきょうだいたちには長きに渡る確執がある。愛憎どころか、憎しかないのである。

言っておくが、夫アルゴのおじおばはみんな、私に優しい。夫アルゴなんて「あの人ら、俺よりあんたのことを愛してるよな!」などと言うレベルで優しい。すごく大事にしてもらっているし、実の親、きょうだいから絶縁されている時もこの人たちがいてくれたから寂しいっちゃぁ寂しいけど、悲壮感を漂わすほどではなかった。

同じ血が流れているからって、必ずしも同じ考え方をしなきゃいけない、受け止めなくてはならない、というわけではないし。形とか見せ方とか違っていても、そりゃ家族だもの、愛しているのだ。それがどうしても噛み合わないというのなら、時間をおいたり、距離をおいたりするのも仕方がないし。もしかしたら死んでも和解できないのかもしれないけど、それはそれで仕方ないのだ。ムキになれば拗れるかもしれない。偽りの気持ちで和解しても、それには意味がない。

特に大人になり、自分で家庭なるものを築いてみると、血縁以外で守りたい、守るべきものができてくる。そんなんが結婚であり、親きょうだいの血縁か、伴侶と子供といった血縁か、それで選択を迫られる場面があれば、それは自分の力量と判断でやっていくしかないのだ。だから弟と仲直りできた私は幸せなのだ。

ママのきょうだいには、祖父母、いとこ、親戚がいなかった。両親も早くに亡くなった。近所のおばは7歳で両親を失っている。だから、彼らにとってきょうだいの絆というのは絶対的なものであり、不可侵なものなのだ。それは心情としてはわかる。80年代、90年代の荒れに荒れていた大都会で上は22歳、下は3歳の10人が必死に支え合い、生きてきたのだ。だから、気持ちはすごくわかる。

私の亡父も同じような状況で、自身を含めた6人のきょうだいと母(ばぁちゃん)を父親代わりに育て上げた。彼が16歳の頃から。だから父が母と結婚した時、ばぁちゃんと下の3人のおじ、おばは私の母に対して、憎いという感情が勝ってしまったのだと思う。お兄ちゃん、お父さん代わりの自慢の兄を盗られた、そんな気持ちになってしまったのだと思う。

若かった母は、すごく頑張ったけれど。頑張りすぎて私みたいに捻じくれた娘が出来上がるほどには行儀作法に厳しく、教育熱心な母になってしまった。結果、母はそれで心がおかしくなってしまったのだ、と大人になってから思う。いじめられ、いびられ、それでも義理の家族をたてねばならぬ、という意識と行動。憎い、嫌い、そんな理不尽でどうしようもない、ネガティブエナジーを毎日、全力でぶつけられたらそりゃ誰だって歪む。しょうがねぇ。

そんな実母をみてきたせいか、ママ親族の気持ちもわかるのだが、亡くなったおじの連れ合いに対する彼女らの態度や言動(憎)を聞くにつけて、いやまぁそうだけどさぁ、と思いながらも「うへぁ」となってしまうのだ。かつて自分の母、きょうだいが父親の親族からされた嫌なことを思い出して。

私自身の例に限っていえば、私はお通夜の席で父の弟に「お前が、お前らが兄貴を殺した」いって殴られた。がちで。しかもグーで。『と、父さんにも殴られたことないのに……』とアムロ・レイのセリフを思い出したが、そんなことを考えている場合ではなかった。その前、父がもういよいよ、というときに祖母に「こんな時にアメリカ留学なんかしてるあんたに父のそばにいる権利はない。お父さんはあんたより◯◯ちゃん(いとこ。父妹の子)がいるほうが嬉しい」と言われ、病室を追い出された。ひでぇばぁさんだ!その時は泣きに泣いた。私ですらこんなんだもの、母なんてどれだけのことを言われ、され続けてきたのかなんて考えたくもない。そんなトラウマがあるもので、大事にしてもらってはいるけどママサイドの彼女への対応をみていると、どうしても「うへぁ」となってしまうのだ。

同時に。おじ、おばたちから見れば、尻に敷かれているというか、なんでも奥さんの言うことを聞く兄(おじ)の姿が不憫であったりするのであろうが。でも、そんなん、おじが選んだこと、決めたことなんだから仕方なくね?と思う。おばたちは気の強い人たちだが、この連れ合いのおばさんもまたおっそろしく気が強い。だから、連れ合いのおばさんの反応などを見ていても、また、「うへぁ」になることも多い。愛憎どころか、そこには憎憎しかないのである。

憎しみは憎しみしか産まないというけれど。産まないどころか、増長した憎しみになるからおっかない。

長いこと夫アルゴと一緒にいて、なんとなく、ママ側の家族がおじの連れ合いを好きでないのは、Interracial Marriage Coupleだからなのかな、と思ったりもしていた。人種が違うから。でも、それが原因とも思えない。人種の違い、考え方の違いは、やはり性格の不一致と、感情表現がどっちも強烈と通り越して、激烈だからなんだろうな、と思う。

私なんぞも異人ゆえ、例えば、食べ物の違いとか、価値観の違いとか。育ってきた環境の違いとか。夫から見ても、その親族からみても、理解不能なことはいっぱいあるわけで。でも、夫アルゴがなにかしでかした時、私が責められることはなかった。だが、おじの連れ合いは責め立てられる。お互いが、拒否反応しかない、そんな感じ。ママ親族とおじの連れ合いとの確執には、我々がセットになる前からのことであるので、こじれすぎていて、我々ごときがどうこうできるようなものではない。だから適度な距離をもっていたい。我々は現在、良くしてくれた陽気なおじさんが亡くなった、という事実だけが悲しく、しんどいのである。

だからもう、どっちサイドからもごちゃごちゃ互いの悪口の応酬で、その間に立たされるのはほんっとに勘弁していただきたいのだが、これが先月からずーーーっと続いているのだ。

おじサイド→我々→ママ親戚サイド。危篤の連絡、入院先の状況、手術の連絡、手術後の経過。ずーーとこの伝言ゲーム。心臓が20%しか機能してなくて、明日まで持つかわからない、というのが先月の報。我々はすぐさま、車にのり、2時間かけておじに会いにいった。そんな状況を、ママサイド親戚は、大げさにいってるんでは?家にいるんでしょ?と言ったらしく、気の(おっそろしく)強いおじの連れ合いは、死にそうな夫(おじ)を眼の前に、なんでそんな嘘をいわなきゃいけないのよ!とまいっていた。そらまいるわ。

おじが息を引き取ったのは、サンクスギビング前日。何につけてもタイミングの悪いおじであったが、まさかのタイミング。死の報告すら伝言ゲーム。勘弁して。しかも、同日、どっちのサイドからもサンクスギビングディナーに来てと招待され、「こんな時にアホか!」とどちらのサイドにも激高した夫アルゴに「人にはそれぞれ、悲しみ方というのがあって、連れ合い、兄(弟)を亡くした今だからこそ、家族で集まることに意味を見出そうとしているのかもしれないから、ヤイヤイ怒らずにいて」と口ではいいつつ、ほんとそれな……サンクスギビングゆーとる場合か?と私も内心思っていた。どっちに行ってもカドが立つし、実際、そんな気分でもなかったので、それで近所に住む友人宅へとお呼ばれした、というのがサンクスギビング事情なのだ。

おじは2週間前に壊死した足を切断する手術を行った。手術することで生きるチャンスが増えるから。だから、そうしたい、とおじは決意し、手術を乗り切った。落ち着いたらもう片方の切断手術も、というプランがあったのだが、疲れてしまったのだと思う。先週末は、おじが会いたいと臨んでいた姉と妹(おばたち)が大都会からやってきて、時をすごした。最後に遠方に住んでいる子どもたちと孫たちがこちらに到着、再会してそれを待っていたかのように意識を失ったという。その間に、どうしてもタバコが吸いたいとわがままを言って、友達がもちこんだタバコを病室で吸って大目玉をくらったらしい。何かとアホなことをしでかす愉快なおじさんだったのだ。

夫アルゴも、私も。先月、家に行って会うのが最後だ、と思いを決めて会った。おじはテンパる連れ合いやきょうだいたちに大して「どいつもこいつも大げさなんだよ。わかる?俺は大丈夫だっての。これまでもやばいってことは何回かあったけど、また孫が生まれてくるし、死んでる場合じゃねぇんだよなぁ」なんてボヤいていた。水も食べ物も口にできなくなってから5日が経っていたので、夫アルゴは冗談をいいながら、茶化しながらなんとか経口飲料を飲ませ、おじを笑わせた。それが最後。訃報を聞いて、夫アルゴが号泣し、落ち込んでいた。夫アルゴが訃報を知らせた近所のおばもやってきて、二人は抱き合いながらわんわん泣いていた。そんな二人を慰めるために、私は泣けないでいた。

サンクスギビングの翌日。庭の掃除をしながら、不意にそういえば、この家を買って初めての秋。たまたまやってきたおじが、一人で庭掃除に勤しむ私に「おい!アルゴはどうした?妹(近所のおば)はどうした?まったくしょうがねぇなぁ、あいつら。はるばる訪ねてきたってのに、しかもあいつらには言ってたのに、案の定、いねぇし。ほんっとにしょうがねぇなぁ」なんて言いながら何故か一緒に掃除をしてくれたことを思い出した。

庭中にあった落ち葉を二人で拾い集めながら、私の知らないママの話、自分たちが子供だったときの話、いつかキャンピングカーで嫁と二人でアメリカ横断の旅をしたい、という話。そんなことを話ながら、「おじさんの人生、おもしろすぎるから、旅に行く前に本に書きなよ!」なんてそんなことを言ったら、それもそうだなぁ、なんて笑っていた。

その時の会話は私とおじだけのもので。その時、私はおじから、彼が持つきょうだいへの想い、妻への想い、子どもたちへの想いを聞いているから、だから『どいつもこいつもアホかぁおじさんはなぁ、みんなのことが好きなんだよぉぉ喧嘩すんなよぉぉ、あほぉぉぉ』と一人で叫びながら、わんわん泣いて、鼻水を垂らしながら庭掃除をした。

先日、誕生日を迎え、また一つ年をとり、人生も折り返し地点的なところに来た。くそみたいな家族ドラマ。そんなのあるのはわかっているし、それが人間のサガなのかもしれない。私は、夫アルゴのことも、ママの親戚たちも、自分の弟、妹、その家族たちも。ものすごく面倒で意地悪な実母のことも。みんな、大事だし、愛しているから。だから、せめて自分自身の持つ人間関係、家族関係においては、憎・憎の連鎖なんて作り出したくはない。例えば、弟の死に際や有事のとき、彼の奥さんの選択を受け入れるし、サポートする。全力で。そんなことを諸々、終わりなく考えている今日このごろ。

お葬式は金曜日。せめてその日くらいは皆が同じ気持ちでおじを見送って欲しいものだ。

END



なんておもてるけどねぇ!火種があんの!火種が!ここできれいに終わらないからこそのりんご家名物家族くそドラマなんですわね。な、な、な、葬式の翌日、おばたちは全員、テキサスにいくのだ。1週間も。夫アルゴのいとこの結婚式で。いや、結婚式は1年以上前に決まっていたことだし、お葬式なんて予定するものでもないけど。でもさぁ。ええええ。NYからテキサスってめっちゃ遠いのよ。北海道から沖縄いくより遠いのよ。でもさぁ、ねぇ……葬式の翌日に結婚式って何それ、漫画かよ。しかも、友人とかじゃなく、どっちも親族。

ここでタイトル。Family dramas are only entertaining when they are on television- ファミリー ドラマは、テレビに出ているときだけ面白いものです。

そしてもいっちょ、英語のQuoteいれるなら、Remember: You can love them, but you cannot fix them.  覚えておいてください:あなたは彼らを愛することができますが、それらを修正することはできません.

あは。

Ture End


そして、まさしくRemember: You can love them, but you cannot fix them. 実母と夫アルゴの初対面の話。自分で言うのもなんだが、これは私のNoteにおける最高傑作なので読んでいただきたいものです。

どうにもこうにも、秋の庭掃除は私にとって鬼門らしい。こちら、実母を思った去年の庭掃除の話。ちなみにこのときは、ブロワー(落ち葉を集めるマシン)は無く、おじとは手作業で掃除した。


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