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Fragrant Olive

甘い、甘ったるい、優しい匂い。金平糖を小さく砕いたような、いたいけな橙色の小さな花。私の中の秋。

自分には郷愁などと言う感情は無く、母親によく言われていたように『執着がないと言えば聞こえはいいが、思い入れを持って物事や人に接していない。要はどうでもいいんだ。だからどんなに大事なものでもホイホイ他人にやってしまうし、それを悲しいとは思わない。人としての何かが欠けている』そんな人間なのだとずっと思っていた。

だから、あぁ、これが郷愁というやつなのか、と思った瞬間、心底、驚いた。今すぐにでも、どうしても、金木犀の香りが嗅ぎたくて、私はどこまでも高い秋空をぼんやりとみていた。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

庭の掃除をしていた。

自分の家には樹木なぞ一本もないというのに、隣家ににょきにょきと生えている大きな欅風の木から散る枯れ葉が、さして広くもない庭の芝生をすっぽりと隠していた。

黄色と赤。オレンジ色の素敵な絨毯。くるり、くるりと秋風で輪舞を舞う葉。うっとりとそれらを見つめ、少しばかり冷たい、カラりとした秋の風に身をゆだね、これから盛大にやってくる極寒豪雪の季節に備えて目にも鮮やかな秋の色に浸る。秋だから、ただそんな理由だけで、センチメンタリズムの波に体を揺蕩えていたい。

……なんてわけはない。

ブォーブォーと盛大な音を立てるブロワー。アメリカってすごい、アメリカ人ってすごい。どこまでも合理的。野外用掃除機とでもいうのか。大型のドライヤーみたいなものでゴウゥゴゥと風をおこし、落ち葉を集めるのだ。

『竹ボウキや熊手などを使い庭掃除する人なんてアンタくらいだ』と夫と隣人に言われ、その言葉にイラついたので数年前に私はブロワーを買った。ホウキや熊手で掃除するってとこに情緒ってもんがあるんでしょうに。ブロワーとか、なんだよ、アメリカ人はどんだけ怠惰なんよ、と鼻で笑っていた私だったが、ブロワー、おそるべし。それまで4時間かかっていた掃除が半分の時間で終われるのである。私はあっさりと情緒を捨てた。

いかついマシンを片手に落ち葉の山を作る。一つ、二つ、三つ、四つ。足元には3匹の小型犬がじゃれつく。犬たちは枯れ葉がパリパリ、ぺりぺり、と音を立てるのが好きらしく、積もった枯れ葉の上に突進しては、尻尾が落ちてしまいそうなほどにプリプリと激しく尻尾を振って遊んでいる。大量の落ち葉。普通の住宅街に住んでいるが、落ち葉の中は、マダニの良いベッドになるため、私はこうして庭掃除をしている。

「君たちのぉ、ためになんだぞぉ」

恩着せがましく犬たちに日本語で言う。ライム病は、野生のマダニ科マダニ属のダニによって媒介される人獣共通の細菌による感染症。犬たちはダニ避けの薬を飲ませているけど、それでも過去に2回、近所を散歩していてマダニに刺され、挙句、ライム病陽性になってしまったため、かなりの費用をかけて治療に通ったことがある。ライム病は人間にもかかるし、人間が罹患したら死んでしまうこともあるから、自分のためにでもあるけど。とにかく庭掃除をせねばならない。

それにあと数週間もすれば降雪が始まる。初めの方の雪は、積り切らずに地表を濡らして溶けてしまう。そうすると雪の水分と翌日の霜とで落ち葉はぐっしょりと濡れ、拾いにくくなる上に、臭い始める。謎の小さな虫もわく。なので今、やらねばならぬのだ。

30ガロン、112リットル容量の大きな茶色い専門の紙袋を広げ、作り上げた落ち葉の山を巨大な紙袋の中へと入れていく。

「ちょろちょろしてると、君たちも袋にいれるぞぅぅ」

落ち葉の山を両腕を使いがしがしと掴み上げる私に犬たちがじゃれつくので作業が邪魔される。犬たちは私も一緒に遊んでいるのだと勘違いして、嬉しそうにジャンプする。そもそも自分の家の樹木でもないというのに数時間かけて落ち葉拾いなんてものすごく馬鹿げている。30ガロンサイズのアホみたいに大きな落ち葉専用ゴミ袋。これにいれなければ、ごみの日に収集してもらえない。小さな庭だが、すべての落ち葉を拾うと10袋くらいがパンパンになる上に、今日の掃除はこの秋に入って2回目。あともう1回は落ち葉拾い作業をせねばなるまい。

「忌々しい。あっちの家に落ち葉、吹き付けるか?ブロワーで、こう、ごうっと、ぶわっと。オメーん家のゴミだろうに」

対隣人へブツブツと呪いの言葉にも似た愚痴をつぶやきながら、落ち葉を袋へと移し続ける。左右の家は木製のフェンス、前の家はワイヤー製のフェンスで仕切られているから、そんなこともできない。

そんな最中。どこからともなく突然に。突然ソレは来た。

人間は匂いを切っ掛けに記憶がよみがえることがあるという。扁桃体なんていう感情を操る場所が感情や記憶を操る場所と近いから。人間の嗅覚システムは記憶や感情への通り道のようなものを形成してるなんて説がある。

湿った落ち葉のにおい。それが切っ掛けだったのかもしれない。

不意に沸き上がった記憶。私は両手に抱えた落ち葉を抱きしめるようにして、立ち尽くし、突き抜けるように高く遠い空を見上げた。

『何をしているの?』
『おはなのジュースよ。ジュースをつくっているの』
赤いタータンチェック柄のプラスティックのカップに小さな花びらを集めていた。ちまちまと地面に落ちた橙色の花。
『おかあさんはなにをしているの?』
『お庭のお掃除よ』
猫の額ほどの小さな庭だった。けれどその庭は3歳の私にとってはとても広い路の世界。母親は竹ぼうきを手に落ち葉を掃いていた。こんもりと小さな枯れ葉の山。
『あなたがそこいらをお掃除してくれるから助かるわ』
『ちがうのよ。おそうじじゃないの。おはなのジュースをつくってるの』
優しく笑った母親に、幼い私は口をとがらせて答えた。
『あらそうなの。できたジュースはどうするの?』
『ひやしておとうさんにあげるの』
『のめるのかしら、お花のジュース?』
『のめるよ。だってこんなにいいにおい』
『そうね、おいしそうなにおい。きっと甘くておいしいわ。お父さんもよろこぶね。お母さんももらっていい?』ふふふと微笑む母の笑顔。
『ちょっとだけならいいよ。はい、どうぞ』
私が差し出したカップを見て、ふふふとまた微笑む母親。
『へんなおかあさん。わらってばっかり』そう言った私に母親が答える。
『うれしいのよ、あなたがこんなにもかわいらしくて。やさしくて』


「お母さん……」

思わず口から零れた言葉。私と母の関係は決して良好とはいえない。どこか他人行儀で、いつだってよそよそしい。馬鹿だ、ブスだと私に言い続けていた母。90点ではだめ、100点でなきゃ意味がない、そんな風に押し付け続けてきた母。人としての何かが欠けているなんて台詞を幼い娘に平気でぶつける母親。愛されていると思えたことはなかった。

あんな女性 ヒトにはならない、そんな風に思っている人。好きでもないが、嫌いでもない。そんな風に思っている人。それなのに、今、私は落ち葉を抱きしめ、立ち尽くし、どうしようもないほどに彼女を恋しく思っている。

あぁ、あれは昔の家にあった3本の金木犀。秋になるとふんわりと優しい香りで庭を包んだ金木犀。橙色のものが2本。白いものが1本。

『お嫁に来た時もこの花が満開でいい匂いがしていたの。そして、あなたがが生まれてくるころも沢山の金木犀の花が咲いて、家中がいい匂いに満たされていたの。お父さんが一番好きなのは菜の花。だからあなたの名前に菜の字を使ったけれど、私が好きなのは金木犀。この香り。だって、あなたの香りみたいな気がするよ』そう言った母親。

記憶のどこかに紛れ込んでいた幼い頃の私と母親。二人だけの会話の記憶。それはものすごく些細な記憶。それなのに、私はどうしようもなく母親と、幼い頃に暮らした小さな、小さな家が懐かしく、懐かしむ気持ちが私の心をぎゅぅっとつねった。

ここの秋には金木犀の香りがない。

ここの秋にはあのけなげに咲く小さな橙色の花がない。

ここの秋には、母がいない。

あぁ、これが郷愁ってやつなのか。そう自覚した私は、ずるずると地面に座り込んだ。なんでなのかはわからない。はらはらと涙が落ちて止まらなかった。最後に母に会ったのはいつだろう。もう思い出すこともできない。

あぁ、そうか、私は彼女を愛している。あぁ、そうか、彼女は私を愛している。母に会いたい。なんてことだ。20年以上も離れていて、私は、今、生まれて初めて、どうしようもなく母親を恋しいと思っている。

母親と金木犀の香りが恋しくて、でも記憶の思い出みたいにその香りを頭の中で思い出すことができなくて、私は涙を流し続けた。あの懐かしい秋の景色、幸せな秋の香り。落ち葉の中でぐずぐずと泣き続ける私を、犬たちは不思議そうに見ながら、そっと近づくと、流れ落ちる涙をぺろぺろと舐めた。

ここはどうしようもなく秋だというのに、でも秋じゃない。

金木犀の香りがないことがどうしようも悲しくて、ひんやりとする秋の風を体に受けながら、落ち葉の山に蹲り、私はただ、ぐずぐずと泣き続けた。


(終)

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だいふくだるまさんとYucaさんが企画してらっしゃる#秋を奏でる芸術祭へ参加させていただきました。素敵な企画、ありがとうございます。

創作風のNote. というわけで、私が思う秋は、金木犀です。こちらは雪も降り、すでに秋は終了していますが駆け込み。Fragrant Oliveというのが金木犀の英訳らしいのですが、渡米してから見たことがないのです。で、翻訳したまま検索してみたけれど、どうも金木犀とは違う。でもオリーブの仲間なんだそうです、金木犀。もみじや桜、藤の花なんかわ割とよく見かけますがなぜかない金木犀。日本ではルームフレグランスなどお馴染みの香りなのにこちらには全然ないのです。






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