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小説『みちかける』

短編 約8000字

 姉のすがたをした別人の幽霊と暮らして七年になる。それはミチの姉、カケルが死んでから七年が経ったということだ。見た目だけは当時高校二年生だった姉そのままであるブレザー姿の幽霊は、中身が別人であることを隠しているつもりのようだった。ミチは止まってしまった姉の年齢をとっくに越え、大学三年生の冬休みを迎えた。

「いいかげんどこか遊びにいけばいいじゃない。冬休みでしょ」

 ベッドで寝ころびながらスマートフォンをいじるミチに、カケルは姉っぽく言う。

「休みだから、どこにも行かないの」

 もう、とカケルが細い腕を組む。ミチは素知らぬ顔でベッドの上であおむけからうつぶせに体制を変えた。その半袖半ズボンのペラペラな部屋着から伸びる手足は骨ばっている。空調の効いた部屋でもじんわりとした汗の気配が体をまとっていた。

「せっかくのキャンパスライフだよ。プールにでも行っておいでよ」

「死んでる人が言うと、重みが違うね」

「プールが嫌ならクリスマス会でもしたらどう」

「子供じゃないんだから。暑いし部屋から出るのは全部いや。ここから動くのも無理。お姉ちゃんがアイス買ってきてよ」

「ミチのなまけもの。意地悪」

 ミチの部屋から出ることができないカケルは拗ねる。胸まであるまっすぐな黒髪を揺らしながらベッドの端に座って、唇をとがらせていた。姉はミチとちがって色白で、穏やかでまじめそうだが華のある、みんなの副生徒会長のような人だった。姉のすがたをした姉を名乗る別人も同じようにふるまっているが、今となってはどちらが元の姉だったのか定かではない。対してミチは肌の黄みが強めで、姉にはないそばかすがある。くせの強い茶色い髪は肩に当たらないくらいの長さであちこちに跳ねていた。ぱっと見の印象はほとんど正反対な姉妹だったが、顔のパーツ一つ一つを見ていくとよく似ていた。特にやや太めの下がった眉毛は二つとも全く同じ形をしている。

「あついな」

 ミチはエアコンの温度を下げる。幽霊がいるのだから部屋の温度も下がればよかったが、カケルはそういう役には一切立たなかった。南向きの部屋にはレースカーテン越しにも強い日が差し込んでくる。窓を閉めていても年中セミの鳴き声がするのには相変わらずイライラした。

「冬が恋しいよね。冬なのにね」

 カケルが言う。

「十二月なのにね」

 ミチが無視するので、カケルはさらに続けた。穏やかな表情で、含みがこもっていた。設定温度の下げられたエアコンが、ごおおと音を立てながら冷風を吐き出し始める。あの冬がその冬でなくなったのは十一年前だ。季節の呼び名こそ昔のままだが、十一年前の夏が始まり、それから秋を迎えることはなかった。終わらない夏は今日も続く。

「スマホばっかり見て。そうやって一人でいるからウエチくんが心配するんだよ。あの子また来るよ、すぐに」

 アプリゲームを延々やるミチに、カケルは話しかけ続けた。今やっているのは、なぜかいつも死にそうな場所にいる王様を、パズルを消してなぜか助けることができるゲームだ。一昨日始めてステージ49まで来た。

「ミチが友達つくったらウエチくんも安心して来なくなると思うけどなあ。それとも会いたくてそうしてるの?」

「そんなわけない。かなり来ないでほしい。お姉ちゃんからも言ってよ。彼氏でしょ」

「元だし」

 恋人の片割れが『元』を強く主張した。ウエチは生前に姉と付き合っていた同級生で、現在二十四歳の男だが、七年経った今でも元恋人の妹であるミチの心配をしてくるのだった。ここにいるカケルにとっては赤の他人なので、当然思い入れはない。

「そうだ。お姉ちゃんのことは気にしないでウエチくんと付き合えばいいんじゃない? こんなに来るんだからきっと好きなのよ」

 カケルの一人称はつねに『お姉ちゃん』だ。生きていたときの姉も偶然か、同じだった。

「嫌だし、好きになることはないし、あの人も私のこと好きじゃないの見てたらわかるでしょ。ウエチさんは変なんだって。深く考えてそうで何も考えてないタイプだよ。そういう人って一番迷惑。お姉ちゃんはどこがよかったの、あのような人の」

「あのような人は、当時は色々いいと思ってたけどね。今はもう、私も全然よ」

 今はもう、と言うもののカケルは七年間からずっと同じ制服姿だ。薄水色のワイシャツに深緑のリボン、ほぼ黒に見える紺のスカートはひざ下丈で、ブレザーのボタンは全部閉まっている。汚れ一つないまっ白なソックスだけがまぶしい。

「ふーん」

 ある程度分かりきった返答に、ミチは適当に返事をした。ステージ49の、同じような仕組みで範囲が広くなっていくだけのパズルの色をそろえて消していると、スマートフォンの画面が突如として暗くなり震えだす。例のウエチからの着信だ。

「うわ」

「きた、きた」

 ベッドから起き上がり嫌そうに口を開けたままにするミチと、にやりとするカケル。その間も着信は止まらない。

「嫌なら祈ればいいのに。神様お願い、二度と来ないでーって」

 カケルが副生徒会長的な笑顔で言った。ミチはそれには返事せず、しぶしぶ電話に出る。

『あ、もしもし。忙しかった? 今大丈夫?』

 聞き慣れた、落ち着いたトーンの声がスマートフォンから聞こえる。ウエチの声は分類すると「いい声」の中に入るのがミチにとっては癪だった。

「ああー。忙しいですけど」

『忙しい? 今ミチちゃんの家向かってたところなんだけど、今日なんか予定あった?』

「ないですけど…… 来るとき先に連絡くださいって前も言いましたよね」

『ごめんごめん。また忘れちゃって。今してるところ』

 声だけは少し低めの心地いい爽やかさで、とげとげしい気持ちをそのままぶつけることができない。ほぼミチの家まで着いてから連絡をしてくるのが最近のウエチの常套手段だ。前までは突然インターホンを鳴らしに来ていたので、まだましになったほうではあった。常套手段といっても確信犯ではなく、本当に直前まで忘れているほうだとミチは思っている。あぐらをかいて背中を丸めながら電話対応しているミチのことを、カケルが楽しそうに眺めていた。

『前に言ってた古墳見に行こうよ』

「言ってた」のはウエチだけで、ミチはそれを聞いていただけだ。渋っても意味がないのはとっくに学習していたが、それでもやんわりと抵抗する。

「暑いから、あっちまで行くのつらいです」

『暑くない日なんてもう来ないんだから。―――あ、ついちゃった』

 玄関の扉の外に人の気配を感じる。ウエチが到着してしまった。ミチがうわあ、と思った瞬間にインターホンが鳴らされた。電話越しに同じ音が聞こえてから、ウエチによって手元の通話は終了された。

「ウエチキター!」「静かに!」

 カケルがふざけてインターネットスラングを発する。ミチが音を立てないように寸分動かず止まっていると、ピン・ポーン、ピン・ポーンと連続してインターホンが鳴りだす。三回目でいったん止まる。

「仕方ない」

 ミチはベッドの沈みでいきおいをつけ、そこから飛び跳ねてフローリングに立ち上がった。「野生児ミチ!」カケルがミチの小パフォーマンスに拍手を贈る。玄関の扉を開けると、

「無駄な居留守やめてよ」

 とウエチが笑った。一重の元から眠そうな目がさらにぎゅっと細くなる。黙っていると犯罪者顔に見える男なので、表情があると安心感が生まれる。ウエチの後ろに雲一つない青空が見えていた。同時に外の気温が部屋に侵入してきて、むわっとした空気砲のようだ。

 ミチはなんとなく、ウエチを白身魚のような男だと思っている。前にカケルに話した時には「なんとなくわかる」という返事をもらった。古着系の灰色のTシャツとリュックが大学生っぽさを醸し出しているが、彼は高校を卒業してから劇団に所属しているので大学生だったことはない。七三の割合に分けられた前髪はミチから見て右側が七だ。すみませーんと適当に謝って、視線はウエチの持つビニール袋に向けられる。

「あ、これ、サツマイモ。好きだったよね」

 ミチの両目と口が弱く開かれた。普段露出しない部分の白目に空気が当たってしみた。旬を失ったサツマイモは価格高騰していて、今ではスーパーでも気軽に買える値段ではなくなっていた。寒いくらいに涼しくした部屋で焼き芋を食べるのがミチのごくまれにできる贅沢だ。ウエチが中身を見せるようにビニール袋を開いてみせる。愛しい四つの紫色がそこに居た。

「ありがとうございます!」

 ミチは嬉々として受け取り、猫背になって手元のサツマイモたちを見つめた。

「毎度単純ねー。前はメロンパンだったっけ」

 後ろから覗きこみながらカケルが言った。食には興味をもつミチへ毎回手土産を持ってくる。これこそがウエチの真の常套手段だった。

「でも、それとこれとは別ですが」

「じゃあいらない?」

「ですよね。そうなりますよね」

 いつものくだりをミチは背中をさらに丸くしながら答えた。鼻から細く深く息を吐いてから、覚悟を吸い込んだ。

「準備できるまで待っててください……」

 オッケイ、と「イ」まではっきり発音してウエチは苦笑に見える微笑みをし、出っ歯ぎみの前歯をのぞかせた。扉を閉めて、再び部屋にはミチとカケルだけになった。薄くなりすぎて布寄りの部屋着を脱ぎ捨て、外用のTシャツに袖を通しジーパンに足を通す。洗面台の前に仁王立ち、鏡を見ながらSPF50+の日焼け止めを顔、首、腕、手の順に塗った。半透明でジェル状の日焼け止めはわずかにそばかすを薄くするくらいの肌補正力がある。最後に靴下をはいて、玄関にて緑色のニューバランスに足をねじ込んでいるとカケルが「いってらっしゃい」と声をかける。「いってきます」とミチは答えた。扉の外にはウエチが待っている。


「高一の夏ごろだったかな。カケルちゃんと行ったのは」

 そこまで涼しくもない歩道の木陰を歩いていると、ウエチが言った。いつも、姉と行ったことのある場所にミチを連れていく。

「へえ」

 ミチは興味がないのを隠すこともしない。古墳までは家から二十分程度の道のりだ。時々自転車がやってきて、道幅をゆずるために二人は一列になったり二列になったりした。会話もその都度一時停止して、横に並びなおしてから続きをする。ミチは相槌をしたり返せそうなときは多少話を広げたりするが、ほとんどが2ターンくらいで終わってしまうのだった。いつもミチを連れ出すくせにウエチは話下手で、一分くらい黙ってから唐突に話し始めたりする。一列になった時にウエチのうなじが湿っているのが見えた。ミチも背中に汗じみができている感覚があった。

「青くさい」

 遠見塚古墳は、バイパス沿いのミスタードーナツを曲がってまっすぐ進むと突然現れる芝生の茂った前方後円墳だ。両脇は団地で固められていて、かたくなな保護の意思を感じる。すごく昔に姉と段ボールをもって古墳の段差を滑り降りる遊びをした記憶があったが、その時は墓だとは思ってもいなかった。

「草の匂いだね」

「ここに来て何することがあったんですか」

 示し合わせたわけでもなく二人は、一番上っぽさのある後円部までのぼる。前方後円墳は鍵穴のような形をしているが、丸の部分が後円部で下の部分が前方部らしい。テストのとき、ミチは丸のほうが前方に感じるけど逆、という覚え方をしていた。

「何してたんだろうね。座って話したりとか」

 さえぎるものがないので直射日光をもろに浴びる。後円部の真ん中に到達してウエチがしゃがんだので、ミチは体育座りをした。

「あついねー」

「あついですね」

「結構歩いたね」

「結構歩きましたね」

 ウエチの言葉にオウム返しを続ける。高いところで蝉が鳴いていた。

「冬恋しいね」

「冬」

 と繰り返しかけてミチは言葉を止める。膝を抱える形にしていた両手に力がこもった。

「恋しいですか」

「なくなるとね」

 ウエチはかかとをつけてしゃがめない。右手のひらを地面に置いてバランスをとっていたが、芝生に座りこむ覚悟を決めてあぐらをかいた。長ズボンで隠れていた白い靴下がまるまる見えた。

「昔、カケルちゃんが言ってたな。小学生のときのミチちゃんの話」

「私の」

「うん。カケルちゃんが雪で滑って捻挫したときに」

「ああ…… 今でも忘れられないです。さっきまで笑ってふざけあってたはずなのに、転んでからは見たこともない苦しそうな顔になって」

 痛すぎて言葉も話せなくなり、突然意思疎通のできなくなってしまった姉にミチは恐ろしくなったのだった。

「さっきまでの姉がもう戻ってこないのかと思っちゃって」

「かわいいね。そうだったんだ」

「この話じゃないんですか?」

「そのあとのことだね。ミチちゃんが言ったっていう。『冬がなくなったのは自分のせいだ』って」

 体育座りのもも裏とふくらはぎが汗ではりついていた。日差しで脳天からじりじり焦げていくような感覚がする。

「『雪なんか降らなきゃいいのにって願ったから』」

 ミチが頭の中で唱えた台詞とウエチの声が同時に重なって聞こえた。そしたら冬がなくなっちゃった。そう姉に言った。

「そんなわけないのにね。かわいいよねって。カケルちゃん言ってた」

 姉妹ってなんかいいよね、とウエチはにこやかに、姉妹のほほえましいエピソードとして語り終える。ミチには笑えなかった。

「ごめん。まだ、つらいよね。昔の話されるの」

「ううん」

 あまりにもミチが静かにしているのでウエチは薄ら笑顔できき、様子をうかがった。ミチは過去を悲しんでいるわけではなかった。たとえ七年前に父と母と姉が死んでいたとしても。

「そっか」

 ウエチがうつむく。真顔だと機嫌が悪そうに見える彼の顔は、口を開けていると苦笑いに見えるので不思議だ。生え際ちかくににじむ汗がひとつの粒になりかけている。

「辛抱強くならなきゃいけない」

 脈絡のないウエチの言葉にミチが「え」と小さな声で聞き返しかける。

「はじめは、ぼくからちょっとだけ離れて、こんなふうに、草のなかにすわるんだ」

 ミチは意味もわからずその横顔を見た。ウエチの瞳は遠くを見ていて、隣にいるのはミチではないように感じられた。例のいい声がまっすぐの方向に発せされ、いつもより澄んできれいに聞こえる。見た目はウエチだが、知らない、別人の表情をしていた。

「ぼくは横目でちらっときみを見るだけだし、きみもなにも言わない。ことばは誤解のもとだから」

「でも、毎日少しずつ近くに座るようにするんだ」

 ウエチがここではない別の場所にいることがミチには分かった。突然こんなことをしだす気色の悪さがほんの一瞬だけよぎったが、それ以上に彼の本来のすがたに圧倒されていた。まさしく水を得た魚だ。

「なんの台詞ですか」

 空気だけでウエチが終わりを伝えた。ミチにはそれがはっきり分かったので、話しかけた。

「星の王子さま。のキツネ。王子さまと友達になりたいシーンの台詞。次にやるやつだから稽古し始めてるんだけどさ。なんか似てるなと思って。草のなかとか」

 前歯を見せながらウエチが苦笑っぽい微笑で言った。完全にいつものウエチで、素の話し方のぎこちなさが逆にミチを安心させる。

「じゃあキツネ役なんですね」

「そう、キツネ役」

「キツネが友達になりたいのに指示してるんですか? こういう風にして友達になってくださいって」

「そうだね、それは。まあ、前後もあるから」

「ふーん」

 ミチは適当な返事をしながら、全くの無関心でもなかった。対して気にもせず、別の強い意志をもったウエチは言う。

「ミスド行かない?」

「え、ああ。はい」

「よっしゃ。すぐ行こう。今すぐ。涼みに」

 ミチが同意すると、勢いをつけてウエチが立ち上がる。なかなか見ない俊敏な動きだった。蹴り上げた地面から草と土のにおいがする。彼は無類の甘党なのだ。


「今度はさ、ドンキ行こうよ」

 同じ道を同じように歩きはじめて、ウエチは言った。

「ドン・キホーテ?」

「そう、六丁の目の。大きいドンキ。行ったことあるでしょ?」

「ありまけど。今は荒井駅が最寄りです」

「そっか、東西線ができたのか」

「そんなのもうだいぶ前ですよ」

「そっかそっか」

 ハハ、と顎をうしろに引いてウエチが短く笑う。もともと表情豊かではない男だが、感情表現もあっさりしている。先ほどのミニ劇を見た後だと、知っているほうのウエチを見ても不思議な感覚が残った。

「ずいぶんネタ切れですね」

「そんなことないって。まだいっぱいあるよ」

 ウエチが連れ出すのはいつも、ミチが家族で行ったことがある場所か、彼がカケルと行ったことがある場所のどちらかだ。

「別にいいんですよ、もう」

「俺が行きたいところについてきてもらってるだけだよ」

 ミチの本音に、ウエチはうわべのやさしさを返す。


「おかえりなさい」

 何もついていないテレビの方を向きローテーブル前に正座していたカケルは言った。冷房を消していったので部屋の中はもうっとした暑さだ。彼女はミチがいない間どうなっているのだろうとたまに思う。ミチが家から出た瞬間にカケルの存在もポンと消えているのかもしれないし、ぼーっとしているのかもしれないし、どこかに出かけているのかもしれない。

「ただいま」

 四時半を過ぎたところだった。まだ陽は落ちない。ミチは真っ先に靴下を脱ぐ。

「疲れてるねえ」

「まあ。結構歩いたから」

 リモコンで冷房のスイッチを入れてから、またパジャマに着替える。

「お姉ちゃん。冬恋しい?」

「当たり前じゃない」

 姉は冬が好きではなかった。ウエチの言っていた姉との話には少し続きがある。自分が願ったせいで冬が消えたとしつこく訴えるミチに姉は、

「ミチのせいなら、お礼言わないとね。ちょうどお姉ちゃん冬嫌いだったの。スキーに連れていかれるから」

 と答えた。昔、父親がスキーを教えていたからと言って毎年ミチと姉は雪山に連れていかれていた。雪山という表現なのは、スキーよりも雪で遊ぶほうが自分たちにとってはメインだったからだ。姉は雪山に行くのを楽しんでいるものと思っていたのでミチは驚いた。

「楽しそうにしてないとお父さん怒るから嫌い」

 ないしょね、と姉は人差し指をくちびるにのせた。授業参観など親の義務に近い行事にはやたら来たがる父が子供たちを連れて行くのはゲームセンターと雪山だけだった。ほかの全部の場所は母と姉とミチの三人で行った。その母も姉も、家族の思い出の中にはいない父も、七年前の事故で死んでしまった。修学旅行から帰ってきた姉を車で迎えに行った復路だったらしい。ミチが中学二年生のときで、連絡が来たのは放課後だった。教室の窓から見える夕焼けの始まりの情景が記憶の中に残っているのだ。

 ミチは母の母である祖母に引き取られることになった。今まで遊びに行くところだった祖母の家に、住むところとして玄関に一歩入ったとき。姉だけでも、と思った。姉だけでもいいから返してと、ミチは強く願ってしまった。

 それからカケルはミチの部屋にだけあらわれた。姉だと思って話していくうちに、姉のかたちをした別の誰かであることに気が付いていった。カケルは姉のふりをするが、姉の通りではなかった。ミチが大学生になって一人暮らしを始めた時もカケルは部屋についてきた。生きている人の中でついてきたのはウエチだった。四日にいっぺん、ウエチは来た。今でも変わらずウエチは来る。四日後にはまたウエチが来るはずだ。彼の中でそれだけは決まりごとなのだ。


「いつも私がいないあいだは何してるの」

 ローテーブルに頬杖をつくカケルにミチは聞いた。

「テレビ見ながらお茶飲んでたよ」

「リモコンも触れないし飲めないでしょ。飲む意味もないし」

「ジョークよ、幽霊ジョーク」

 カケルはふふふ、とパーにした手を口元にあてる。こうやってはぐらかすであろうことはミチももう分かっていた。

「きっと消えちゃうんだね」

「それはどうかなあ」

 彼女自身もわからないのかもしれない、とミチは思う。

「あなたはお姉ちゃんでは、ないよね」

「お姉ちゃんだよ」

 カケルの微笑みは一切形を崩さなかった。

「お姉ちゃんではないよ。お姉ちゃんは冬恋しいなんて言ったことない」

「お姉ちゃんだよ。冬があるなら、そんなことわざわざ言わないもの」

「お姉ちゃんは冬が好きじゃなかった」

「それはその時そうだったの、今のお姉ちゃんは違うの。ミチがお姉ちゃんを呼んだんだよ。お姉ちゃんだけでも返してくださいって、祈ったんでしょ。私はお姉ちゃんなのよ」

 ずいぶんひねくれた性格の元他人の現・姉だ。ミチはほんの数秒黙り、エアコンの風の音が耳まで届いたくらいのときに

「そっか」

 と返事をした。やっと部屋が涼しくなり始めて暑さから気がそれると、今度は蝉の声がやかましく思えてきた。恋しい冬が戻ってくることはもうないだろう。

「ウエチくんは変わらないといいね」

「多少は気をつけるよ」

 ミチはドン・キホーテに行くであろう四日後、やつが来る前に着替えくらいは済ませておくつもりだ。

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