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小説『ふつうのかみさま』

プロローグ


「あと何回会えるんだろう」
 駅までの帰り道に長谷川新はそう言っていた。あまり、らしくはなかった。

「顔合わせるだけなら300回くらい?」
 倫は答えた。本当のことは誰も知らない。
「デートは?」
「デートは100回?」
「適当に答えてんなあ」
「だって」
 その先に続く言葉はない。長谷川は自分が始めた会話を後悔するような顔をして、それからしばらくは、二人で黙って歩いていた。
 倫は余計なことしか考えないようにしていたのかもしれない。必要のない『もしも』をいくつもこねくりまわして、もうとっくに疲れてしまっていた。
 神様がいれば、と思った自分がらしくなさすぎていやになった。


1

 月曜日、いつも通りの朝だ。後ろを歩く人の落ち葉の踏む音がうるさいので、倫は追い抜かしてもらうためにゆっくり歩いた。知らない背中を確認した後もそれはだんだんとペースを下げていく。家の鍵を閉めたかどうかが思い出せない。
 いつもなら家を出て数歩のところで気になってしまい、ドアノブをがちゃがちゃいじりたおしてからまた歩き出すのに、今朝はしていなかった。昨日、大して意味のないことを考えるのに気持ちも睡眠時間も使いすぎたせいだ。最後に時計を見たのは深夜二時を過ぎたあたりで、眠れないことに焦って何度も確認したから覚えていた。考えていたことはもうそっちのけになっているのに、眠れないことへのむかむかした気持ちが倫の夜を食い散らかしてしまった。

 迷いがちにゆたゆたと動いていた倫の黒パンプスはついに音を立てなくなる。ここまで歩いて引き返したら、会社には遅刻するかもしれない。でももし鍵を閉めていなかったとしたら、その間に泥棒が入ったりしたら。それでも今まで鍵のかかっていないことがあったかと考えると、そんな日は一日たりともなかったのだ。今日だけ本当に閉め忘れている可能性は決してゼロではない。けどもう、どちらでも結末は変わらないような気もしてしまう。頭の中が『どうしよう』しかなくなった。何を悩んでいるのかすら分からなくなった。もうすぐ十月にもなるのに、じわじわとわき汗をかき始めて気持ち悪い。胃が地面に近づいていくような不安の中に落ちて、漬かりこんでしまった。

 通勤中のスーツの男性も、制服のスカートを揺らしながら歩く女子高生も、立ち止まる倫をよけて追い抜いて行く。自動車の音と風が耳の横を通る。信号が赤になると、今度は足音だけになった。スクーターの音がひときわ目立って聴こえた。そうしてその音はだんだん大きくなって、倫のすぐ横で止まった。行き過ぎたこの心配性を心配する顔で声をかけてくれたその人は、倫にとっては神様のようなものだった。

「真中さんやんな? ずっと立ち止まって、どうされました?」

 聞きなれないイントネーションだった。人間とは別の、宇宙人とか人外の言語かのように、倫の弱っていた頭は錯覚した。
 それも一瞬のことで、倫はすぐに隣の302号室に住む上野緋都を思い出した。初めてこのなまりを肉声で聞いたのは彼と最初に話をした日、倫が仙台に越してきた日のことだ。上野とは生活する時間帯があまり合わないようで、それ以来あいさつもほとんどしたことがない。

「あれ? お隣の上野ですけど、ご存知でない?」
「あ、存じています、おはようございます」

 黒ぶちめがねの上にヘルメットをかぶって、その上にはゴーグルがある。耳のところがかさばって窮屈そうだった。倫の視線は自然とゴーグルの方へ向く。目が四つあるのかと思った。かごの中には何もなかったが、スクーターの形から新聞配達員なのが分かった。

「うん! おはようさん。具合、悪いんですか? 突っ立ってたから気になってもうて」
「大したことではありませんので」
「ホンマにぃ? ホンマのホンマに?」
 誰かに懺悔したい気持ちになって、倫は白状した。

「部屋の鍵を閉めたか、心配になってしまい」
「あらそうなん。今日はがちゃがちゃしなかったんや?」
「え。すみません。うるさかったですか」
「ううん、心配よな。分かる」
 ドアノブをいじり倒しているのがばれているのはなかなか恥ずかしかった。上野は「でも」と言って、視線は合っているはずなのに倫ではないどこかを見つめているような瞳を、一瞬した。

「閉まっとるで、大丈夫」
 その言葉を倫はきっちりそのまま受けとる。そうですか、と返事をしていた。
 それから上野にお礼を言った。たまった悪い空気のかたまりを吐き出せた倫は、きちんと頭を下げようとしたつもりが首だけカクンと落ちるようなおじぎになった。顔を上げるともう彼は背中を向けていたけど、こういう自分がいやだと改めて思う。もう五年も昔になる就職活動のときも、ちゃんとおじぎはできていなかった。倫はきびきび動けないのを猫背のせいにしているので、性格も一緒に直したいとそのときから思っていた。あれからなにも変わっていない。

 人に話すとよく「まじめ」と言われる。倫はただ慎重に生きているつもりでいたから、そう言われるのは嫌いだった。けれど毎朝、もしものことがあったらと早めに家を出すぎて職場にも早くついてしまうし、もしものことがあった今日も電車の時間は問題なしだ。まじめであるという自覚はだんだんついてきて、それが受け入れ難かった。
 せっけんが好きで、倫はこの会社に就職した。それなのにせっけんのなにがどうして好きなのかは説明できなかった。せっけんを買いそろえてしまうわけでもなく、それは感覚的なもので、言葉にできなかった。その、言葉に表せないことを大切にしたいと思っていたが、自分というものを考えなくてはならない志望動機欄からの逃げだったのかもしれなかった。ここまでは気がついていた。

 だから倫は制作部には入れなかった。だから倫はこの会社に入って、この会社でなくても同じような雑務を仕事にしていた。自分の人生はこのまま終わるのだろうとなんとなく受け入れてもいた。事務部の仕事はたとえばまず、フロアの掃除から始まる。
 五年経つのに名前も知らない観葉植物のほこりをはらっていた。誰かがペットみたいに名前をつけているのを知っていたけど、倫は呼ばない。

「もしかして寝坊した?」

 週明けだから、枯葉が数枚落ちていた。長谷川新とは昨日も一緒にいたが、そんなことはない感じを出す。

「してな、いですよ」
「いつもの時間にいなかったから」

 どの部署とも区切りのないワンフロアなので、行きたかった制作部が見えると倫はたまにみじめな気分になる。でもそのおかげでいいこともある。長谷川は制作部の先輩で、二年前から付き合っていて、このことは会社のだれにも秘密だった。

「鍵を閉め忘れた気がしたんです」

 長谷川でなければ、このことを倫は話さなかっただろう。上野に話したことが、自分でも不思議だった。それを今さらになって気が付いたこともだ。

「戻ってたってことか」
「いや、……そうです」

 これ以上はもう言いたくない。長谷川は倫のことを十分知っているから、付き合いが続いて、少しずつ倫は自分のことを話したがらなくなった。倫も、長谷川の話にあまり興味がなくなった。それでも好きだった。

「それは意外」
「意外て」

 気になる話ができそうになったときに、長谷川はすーっと他の社員のほうへ行ってしまった。倫とだけ長く話すことはできないからだ。長谷川の背中を見送ることはしない。倫は考え事をしながら一人掃除を続けた。

 あのときもし上野に会っていなければ戻っていたのか、自分でも分からない。彼の言葉をうのみにして会社へ向かうことができたのは、もっと分からなかった。ただ大丈夫と誰かに言ってほしかっただけなのかもと思ってみたが、それだけは絶対に違うと打ち消した。そういう言葉をかけられたなら倫は腹を立てる。たとえば今、みんないつかは死ぬのだから大丈夫と言われたってなんの解決にもならないから。誰が何を言ったってどうしようもなくて、変わらない事実がある。なぐさめが無意味になる日が来る。

 上野がどうして「閉まっとるで」と言いきれたのかは知らないが、これで帰ってもしも閉まっていなかったなら倫は上野に腹を立てるだろうなと思った。でも倫の部屋の行く末を近々来るその日と比べてみるとと、ずいぶん小規模だな、と笑えてきた。

 その日、帰宅するときに鍵を使った。朝の不安がどこにもないことにそのとき気がつく。


2

 それから上野と会うこともなく、倫の毎日は元のいつも通りだ。卓上カレンダーのページを破く前に、十月はいつの間にか終わっていて、十一月が始まっていた。

 ドアノブはちゃんと家を出てすぐにがちゃがちゃするようにした。倫は寝る前にお風呂や洗面台の水道がしっかり閉じているか確認しないと眠れないので、これも日課だ。

 自分でコントロールできる範囲の心配ごとがなくなってから電気を消してベッドにもぐりこんだ。コントロールできないほうの心配ごとはもうしばらく前からお手上げしていた。その後すぐにスマートフォンが鳴る。勝手な都合でうるさくするあの機械はうっとうしくて、でも縋らずにはいられないから嫌いだった。あんなに便利な機械も突然無意味になる日がくるというのが怖かった。考えていないつもりでも、すみっこに必ず大きな不安がつきまとって邪魔だ。

 枕もとの時計とは別にアラームを好きな歌に設定して、ベッドを出ないと止められないところに置いてから寝る。こうしないと倫は朝起きられない。いつもそういう風にしているから、今もせっかく入った布団から起き上がらなくてはいけなかった。1いらいらポイントが溜まる。

 真っ暗な中でそこだけ、うるさいくらいまぶしい画面の明るさを一番下まで下げた。これは2ポイント。

『今週末はどっか行きたいところある?

 長谷川だった。これはいらいらじゃなく別の色々なポイントが100くらい溜まった。景品と交換できたらいいのに、倫は溜めることしかできない。せっかく寝るつもりでいた気持ちはすっかり冴えてしまったので、いつもと同じ

『とくになし! おまかせします』の返信をしたあとスマホはおやすみモードにしたけど、倫はおやすみできないモードになっていた。

 連絡があってもなくても、ここのところ眠れないのはいつもと変わらない。原因は分かる。でも一つじゃない。もう何も考えたくないのに、止め方が分からなかった。こうなってしまってから、今日で何日目だろう。

「新しいくつ、買えばいいのに。雨降ったら浸みるじゃん」
「今日雨降んのかあ」

 何回目か分からないデートはいつも通りの土曜日で、天気はくもり。夕方から雨が降るらしいから外出日和とはいえない。倫は服を決めるのに天気予報のアプリを必ず前の日の夜に見る。長谷川もそれを知っている。

「夕方から60パーセントって」
「マジかよ。降るなと念じるか、くつ、見に行くか」
「うーん」
「どっち」
「念じながら行きます」
「どっちもと言え」

 会社以外で長谷川といるとき、手をつなぐのは当たり前になった。長谷川の手の形や温度、ずっとつないでいると湿っていくのも当たり前になった。倫はもう手をつながなければ歩くことができない。もう当たり前になってしまったことを崩すことができない。

「あとどうする? 行きたいとこある?」
「……んー。ないですね、念じてるし」

 長谷川が眉毛をハの字にして笑う。タバコの灰色の混ざった歯ぐきが見えた。最初のころ、倫がタバコを嫌だと言ってからとたんに吸う量を減らすようになったのを思い出した。やめてはいないものの、今でも長谷川はあまりタバコを吸わないでいる。そういうところが好きだった。あとはスーツが似合うところと、倫より料理ができるところ。

「じゃあ俺んちで夕飯の共同作業ということで」
「私は見る係で」
「手伝いなさいよ」

 こうやって、ふざけながら怒られる感じが倫は好きだ。どうすれば長谷川がこう言うのかも倫は分かっているから、わざと流れをもっていく。なんだかいつも繰り返してばかりだった。

 結局、長谷川は新しいくつを買わなかった。一番近いスーパーで夕食の買い出しをして、雨が降る予報の時間には長谷川の家についていた。

「なぜテレビを見ている。じゃがいも!」
「私はじゃがいもではない」

 長谷川は台所からじゃがいもを倫に見えるようにつきだしていたので、むけということだ。

「いうことをききなさいよ」
「じゃがいもは洗いものやるから長谷川さんはつくる係でいいじゃないですか」
「倫はじゃがいもになってしまったのか……」
「ごろごろ」

 左上に六時五十一分と白い字でテレビは時間を示し続ける。まだ地方局の番組しか放送していない。チャンネルをぶちぶち変えてそれを確認して、倫はやっとあきらめる。ニュースキャスターの左右で角度の違うアイライナーを眺めていた。台所から軽やかな音がきこえてくる。いつかまでは料理を作ってもらうたびに写真を撮っていたし、倫も手伝っていたように思う。してもらうのが当たり前になっている自分の態度におどろいたのはけっこう最近のことだった。

『次です』

 キャスターの横に画像が映し出される。自分に見ているという意思はなかったが、見えていた。静止画で、ただの光のかたまりのようなものだ。これだっていつかまでは新鮮だったのに、と倫は思った。

『発見されている隕石ですが、速度は変わらず落下を続けています。地球に到達するまでに燃え尽きる確率は依然として――』

 倫は座椅子にもたれかかるとうとうとし始める。大きいじゃがいもが仙台駅のペデストリアンデッキに墜落して、いもからほこほこ湯気がたっている夢を見た。いいにおいがした。

 目が覚めるとテーブルの上には完成した長谷川のカレーがあって、長谷川もいた。

「どれくらいねてた」
「分かんないけど二十分くらい?」

 言いながら「はい」と長谷川はスプーンを手渡した。テレビはもうぜんぜん別のバラエティーをやっていた。

「いもが落ちてくる夢みた」
「なんだそれ。まー、もし本当にいもだったらハッピーエンドだよな」
「私たちがバッドエンドみたいな言い方」
「選ばれし登場人物のようなもんだ、俺たちは」

 そう言って少し笑う、長谷川の低い声が倫は好きだった。


3

前は平日でもむりして宿泊したことがあったなあと思いながら帰り道を歩いていた。雨はもう止んでいるけど、道路もビルも湿って、水っぽい空気に包まれていた。午前中に選んだ薄手のアウターでは寒い。袖口から飛び出した指先がぴりぴりと冷えだしていった。
 倫はだれかが隣にいるとすぐ目をさましてしまうたちで、ちゃんと眠れない。それは好きな人なはずの長谷川でもそうだったし、小さいころ一緒に寝た、家族である弟でもそうだった。眠れなくても一緒にいられるだけで良かったのに、今ではもう耐えがたかった。帰らなくてもいい居場所だったのに、帰ることにした。

「ばあ」
 最寄り駅から家までの途中にあるコンビニから出たときに、めがねに光を反射させて漫画みたいに上野があらわれた。驚いて無意識に、きゃあ、とかかわいらしいものではなく「ど」と低い声がでた。

「お久しぶりですやんなあー。ど」
 上野はヘルメットをかぶっていないのでゴーグルもなく、スクーターで来たわけでもなさそうだった。

「一カ月ぶりくらい? ですかね。その節はありがとうございました。……ど」
「お礼なんてええよ! なんか元気なさそうやってん、おるの見えたから来てしまいました。それよりそれ、酒買うてんの」

倫よりすこし上にある、寝ぐせなのかパーマなのか分からないぼんやりした頭が揺れて手元のビニール袋に視線がうつる。「ど」ごっこは終わったみたいだった。倫は一緒に視線を動かすことはなく、どこか日本人っぽくない顔立ちをした上野をただ見ていた。

「寝酒をしてみようと思いました」
 たいして話したことがあるわけでもないのに最初からなれなれしい上野には気が楽だった。一から仲を深めていかなくてもいいことが久しぶりに思えた。彼の方言が倫にそう思わせているのかもしれなかった。だとしたらやっぱり上野が使うのは魔法の言葉だ。

「今日、デートだったんとちゃうのん。これけっこう度数強いやつやん」
「デートでした」
「せやんなあ、でもここんとこずっと眠れんでおるもんなー悩んでんやろなー思てん。まあこの世界で悩まんでおられるほうがすごいけどな」
「なぜ、それを。そういえば、なぜ、この間も」
 倫はわざとらしく解説を求めるようにした。上野の前ではふざけやすい。

「まあー俺実は視力めっちゃ良いねんな。丸見えやねん」
「のぞき?」
「のぞきちゃうで! 俺ん部屋穴とか空いてないんで、その目やめて、信じて」

明るいのはほかに街灯くらいしかない道で、コンビニの光は夜を照らしていた。暗闇の中のスマートフォンの光と似ていたけど、ぜんぜん違うものだった。
 気の利いた返しも思いつかない倫は軽く笑っただけで、上野と同じところにある部屋へ向かって歩き出す。ちゃんと同じ歩幅で、一緒に歩きだしてくれたことにほっとした。それから右側にいた上野は、倫の左側へよそよそと移動する。車道側を歩いてくれているというのにすぐに気がついた。いつも長谷川がそうしてくれていたから。

「猫すき?」
「けっこう?」
 ふふん、という顔をしながら口でも「ふふん」と言った上野は得意げにした。
「うち猫ちゃんおるんよ。名前がな、ねんっちゅーねん」
「はい?」
「ほほは!」
 なにがおかしいのか分からなかったけど、変な笑い方につられて倫も少し笑えた。

「大阪生まれの猫ちゃんやねん、せやから、ナントカやねん~の、ねんって名前にしてんねん!」
 相づちをうつまえに上野は目を大きく開いてべらべらしゃべりだすので、倫は話し半分に、黒地に黄色がまぶしいマウンテンパーカーがあたたかそうだなあと思いながら聞いていた。

「やから、俺は生粋の仙台人やねんけど一生懸命関西弁覚えたんよ! あとねんには寝るって意味も入っててな、よう寝るんよホンマに! ほいでなあ、これは後で気づいてんけどねんって、念じるのねんっちゅう意味もあるやん。初めて会ったときから思っててん! 真中さん似とるーって!」
「うん? はい」
 上野がばらまいた話は全部まるで星くらいにまばゆくて、倫は拾いきれない。街灯もぽつりぽつりとしかなくなった中で、上野も一つの星みたいに輝いている気がした。

「私に何が似てますか」
「名前、真中倫さんやろ? ねんとりん、ええ感じやん。絶対気、合うで。うちのねんちゃんと……仲良うなりやがれ」
 脅迫のように真顔で言われて、倫は笑った。赤ちゃんがおかあさんに背中をトントンされてげっぷをするみたいなやさしさで、倫のつかえが押し出されたみたいだった。

「ちょお、見たってや! ねんちゃんいっつも玄関で待っとってくれんねん!」
 302号室の扉を開けると、本当にねんはそこに座っていた。きれいな灰色の毛並みでしっぽがゆっくり揺れている。倫はねんから部屋に目をやって、自分と同じ間取りのはずなのになにもかもが違う気がして、別の世界線に飛ばされたような不思議な感覚におそわれた。

「自己紹介な」
「え? あ……真中倫です。よろしくお願いします」
 ねんは鳴くわけでもなく、うす緑色の瞳でただじっと倫を見つめていた。
「握手」

上野がねんを抱えて、倫に近づけた。手を差し出すとねんは倫の人差し指に鼻をくっつけたあと、少し舐めた。子供のころぶりに触った猫の舌は、こんなにざらざらしていたんだったと思い出した。本当に友達になったような気分だった。

「ねん、仲良うなってやってもいいって」
「え」
「良かったな」
「ねんさん……」

倫は慣れない手つきでねんの耳と耳の間をなでた。上野の言う通りのことを思っているような顔に見えなくもなかった。

「えらい、悩んどるようすやったけどさ」
「だって……あれはどうすることもできないじゃないですか」
「そらそやけど、それ以外にさあ。余計に考えることあんの、しんどうそうや」
「ああ……ですね。ですけど、まだ、決められないから」

倫の言葉は302号室の玄関に落ちた。今まで溜めてきたポイントもここに落としていってしまえたらいいのにと思った。

「そんだけさあ、悩んでるっちゅうことはもう答え出てるのと同じことやで」
 ねんが首についた銀色の鈴を鳴らしながら床に降りて、部屋の奥のほうに行ってしまった。
「それをいつするかってだけや、もう」
 ちりちりと光る星のような言葉が倫のもやを照らしはじめて、その正体を見え隠れさせている。いっぱいのポイントカードに引火して、ちょっとずつ燃え始めていくみたいだった。

「お酒ぬるくなるで」
 倫が答えないでいると、上野は
「まずなるで」
 と真剣な話をするままの顔で言うので面白くなった。
「今日は、やめときます」
「おお。のぞいたるからな。嘘ついたらわかるで! ほんなら、おやすみ?」
「穴探してふさいでおきます。ていうか、関西の人ではなかったんですね。おやすみなさい」
 半開きの扉のすきまからそう言った。すっかり閉じるちょっと前に、
「今か!」
 と上野が言い、扉が閉まった。だから倫は、はじめて聞く魔法の言葉になんか思ったのかもしれない。


4

一人になると、とたんに心細くなった。電気をつけるとぱっと視界が明るくなって、見えたのはいつもと変わらない部屋だった。
 本当は、分かっていることもある。長谷川は年上で、倫の行きたかった制作部で、あこがれの形を手にした気持ちでいた。それで倫は自分のやりたかった仕事に就けなかったことを我慢できた。というか、できるようになってしまった。それからまだまだ考える。

あとどれくらいの時間があるのか。倫は、今だけはそれを無視することにした。お互い今の年齢で別れるということ、結婚するためにはまた一から恋愛をはじめなくてはならないこと、長谷川と結婚したいと思っているのかということ、毎週会うことがいやになってしまっていること、それを言いだせないこと、いつの頃からか別れるか別れないかでずっと悩んでいたこと、それにもう耐えられそうにないこと、だから別れを告げるということ、それから、長谷川が一人になってしまうこと。切り離されるときの苦しさを倫は知っていた。でもこれはやさしさじゃない。
 歯磨きまでちゃんとした。宣言通り、アルコールには手を伸ばさなかった。お風呂は明日入ることにした。涙が出た。止まらないと思ったけど、ちゃんと止まった。そうして目をつぶったら、ちゃんと倫はおやすみできた。

その日曜日は、いつもと違った。長谷川と恋人同士でいるのはこの日が最後になった。そのあとの月曜日のことはあまり覚えていなかった。それから倫のいつもは、今までのいつもとは別のものになって、それがいつもになった。

火曜日がきた。仕事帰りにスーパーに寄るのは久しぶりだった。弁当ではなく料理が食べたかった。一人で鍋にしてしまおうと決め込んで、白菜と豚肉とポン酢をかごに放り込む。白滝は迷って、買うことにした。途中で大切なとうふのことを忘れていたのに気がついて手に取ったまではいいが、見覚えを感じて立ち止まる。冷蔵庫にまだあったような気がする。「きぬ」と達筆で書かれたパッケージと見つめ合っていたら手が冷たくなってきたのでいったん売り場に戻す。倫は首のところを掻いた。横から手が割り込んできて「もめん」のほうを取っていった。少しよける。

このとき自分が完全に長谷川のことを忘れていることに気がついてしまった。気がついてしまうともうだめだった。彼はどんな気持ちでいるのだろう。倫はいつも同情が行き過ぎて別のものを作りあげてしまう。麻婆豆腐のとうふを型崩れしないで作れる長谷川を思い出した。倫はみくびっていた。長谷川は何も気づいていないわけではなかったし、全部気づいていたわけでもなかった。倫は考えすぎた。でも止めることができなかった。とうふのコーナーから動けなくなって、となりのとなりにある納豆と目を合わせたままでいた。早く家に帰ろうと思った。落ち込む場所はとうふコーナーではない。「きぬ」を手に取ろうとして、
「二丁もあるんよ! 食べきれるんか! とうふそんなに好きなんか!」
 といつのまにすぐ横にいた上野が大きな声で言った。気配は一切なかったので倫はびっくりして少し跳ねた。声は出たけど、倫の代わりに上野がかぶせて「ど!」と言ったので自分の声は聞こえなかった。

「びっくりしました」
「びっくしさせたもん。ものすごいオーラ出てたで。そんな迷ってたんかとうふ」
 倫はまたなんと返せばいいか分からなくて、微妙な返事をした。
「ちなみにポン酢もストックあるはずやで」
「怖いんですけど」
 上野はいつも急に倫の前にあらわれる。ストーカーとしか考えられないようなことを平気で知っているのに、恐怖を感じたことはまだなかった。実は倫が精神的に参っていて自分にしか見えない幻覚であるというのが上野の正体第一候補だ。

「おひとりさま鍋、悲しなー」
 かごにツナ缶に似たペットフードをいくつか入れている上野はそう言ったあとに
「あ、電話や」
 とわざとらしく言い、「もしもしい?」とスマートフォンを耳にあてた。
「え、そうなん。今ちょうど真中さんおるで。おん。言っとくわ!」
 えせ関西弁の上野は電話を切るそぶりをして倫を見る。
「今ねんちゃんから電話来た」
「ねんさんから」
「倫ちゃんと一緒に飯食いたいのだが。と申しておるで」
「ねんさんはそういう風にしゃべるんですね」
「うん。ねんは男前ガールやねん」
 倫はなんじゃそりゃと思ったのを言わないようにした。
「ええやろ三人やし、一緒の時間を大切にしようや! 彼ピおらんなら怒られることもないしな」
「彼ピ」
「ねんも彼ピ最近おらんからはずむで、ガールズトーク」
 上野ワールドに飲み込まれた倫はずっと笑いをこらえて口を結んでいたがついに観念する。とうふは買わなかった。ポン酢もやめた。

「目視! な。あったやろ」
 冷蔵庫を開けて二丁のとうふを目視したあと、台所の戸棚に置いてあったポン酢を確認した。その間ねんは倫の両足のすきまにいて、じっと正面を向いていた。自分の部屋に自分以外がいるのは不思議だった。
「目視。ありますね」
「当たり前や」
 上野はリモコンを手にとり勝手にテレビをつけた。もはや聞かずにはいられなかった。

「さすがにどういうことですか」
「どうもせん。俺はふつうやねん。せやけど」
 テレビではまた隕石の話をしていた。専門家たちが集まって真剣な顔をしているが、耳には入ってこない。
「かみさまやねん、ふつうの」
「ふつうのかみさま」
 上野は手に取った「きぬ」のフィルムに包丁の先をゆっくり突き刺す。ぷつりと水が溢れていって、彼の丸っこい爪の上や手の甲に流れた。人間の手だった。

「見えてしまうんよ。誰がどこでなにしてるか。でも、何もできんの。で、ふつうに仕事せなお金ないし生きていけんし腹は減るしご飯も食べるし歳も取る」
 倫は何と返せばいいか分からない。いつものような、冗談に見合う返事が思いつかないのとはわけが違うことは分かった。

「やから俺はふつうのひと」
 ねんがケヒ、と変な音を出した。上野は濡れた手のまましゃがみこんだ。
「ねんちゃん昨日吐いてん。病院つれてったんやけど毛玉詰まりやすくなってもうてるんやって」
「大丈夫なんですか」
 今この言葉を使っても意味がないことに、倫は言ってしまってから気がついて後悔する。
「もしねんがおらんくなったら、俺の関西弁、いらなくなるんやなと思って」
 上野の台詞と似たようなことを、隕石が好きなおじさんがテレビの中で言っていた。

「いっこ大事なもん忘れたなあ、しんどいな」
「聞いてもいいですか」
 さっきと同じ声のトーンで言うので、大事なことのような気がした。返事は今度こそ失敗しないように気をつけたのに。
「昆布」
 まったく使えない神様だ。


5

水曜日、観葉植物がいなくなった。枯れてしまったから。名前をつけて呼んでいた同僚は少し寂しそうにしていた。

木曜日、新しい観葉植物が来た。また名前の知らない種類の、緑色のやつだった。同僚は新しいのにもご丁寧にあいさつをしていた。命名はこれからするらしい。

新人観葉植物の歓迎会が終わったので、いつもの掃除を始める。倫はデスクを拭いているとき、これが嫌いなわけじゃないことに気づく。ちょっと好きになりかけていることにもだった。倫はいやなことでも環境に順応していって、受け入れることができる。制作部に勤めたかったけど事務部になって、でも案外一日座っていられるしと思った。欲しい色のコートが売り切れでどうしようか考えていると、ぜんぜん気にもなっていなかった色のほうが良く見えて買っていたりする。そういうことが多い。
 長谷川を抜きにすると、倫は制作部となんのつながりもなかった。同じ会社で、同じ場所で仕事をしていてもだった。隣のクラスに友達ができないのと同じだと考えたらごくふつうのことに思えた。

「友達いないっけ」
 角のすれた長財布だけを持って階段を降りていた倫は、のぼってきた長谷川の顔を真正面からみることになる。顔も話もほどほどに久しぶりで、でもすぐにその感覚はこの間までに戻っていくようだった。

「多くはないものの」
「いらっしゃると」
「おりますよ」
「階段?」
「友達!」
 長谷川が持つカップからは、ふたがついているのにコーヒーの香りが倫のところまであふれて届いていた。それにまぎれるようにタバコのにおいがあった。まだ昼休みは始まったばかりなのに、階段を上にのぼる長谷川。

「そんなに見てもあげないよ」
「そういう目で見てないです」
 使いどころがずれたような倫の台詞に長谷川は少し笑った。どういう目で見ていたのか彼は分かっていたようだった。
「タバコ吸ったらおなかいっぱいになったんだわ」
「このままでは死んでしまいますよ」
「どのままでもみな死ぬ」

倫は勝手に長谷川がどんな風でいるのか想像していたけれど、話してみるとそれはやっぱり想像でしかなかったのだと思った。倫が知っていた長谷川はもう古くなって、型落ち製品だ。あの日までの長谷川と今ここにいる長谷川は同じで、ぜんぜん違うものになっていた。

「最近できた友達と約束したから今日はいつもの子たち断りました」
「いいね。食って肥えるがいい。死ぬまでな」
「うん」
 見慣れてしまった眉の下げ方と、目じりのしわと、口角の上がり方をして長谷川は「では」と言った。倫も同じ言葉を返した。離れてから初めてちゃんとした会話は乱雑で、とても丁寧だった。

日が差している時間にビルを出たときの解放感はくせになる。冷たい風も気持ちが良かった。待ち合わせの公園まで歩きはじめてから、本当に見えているのなら上野は倫がどこにいるのか分かるのかもしれないと思った。別の場所に行ってみようかとたくらんで、やめた。お昼は上野の配達先にある弁当屋で買ってきてくれると約束したので、倫は財布一つだけもってベンチに座るOLの像になる。このくたびれた財布をいつか買い換えようと思い続けて、いつかがやっと今になったのだ。
 上野が来たのはすぐに分かった。スクーターを押しながら、ヘルメットゴーグルとめがねをかけていたからだ。

「お待たせ」
 と言う上野は倫を見ているのに見ていないあの瞳の色で、ずいぶんと不自然に見えた。ヘルメットを外すと髪の毛はぺしゃんこで、ひたいから汗がにじんでいる。
「これ、おべんとお」
 どう見ても、上野が変だ。
「具合悪いんですか」
「悪いかもしれへん」
「無理して来なくても」
「ちゃうねん」
「なにが」
 今彼を人差し指で押したらぼろぼろ崩れ落ちてしまいそうなもろさを倫は感じた。
「もう間にあわん」
「ちゃんとしゃべって」
 上野の目がやっと倫と合った。昼休みが一時間しかなくて、残り時間が減っていくのとか、今はどうでもよかった。

「ねんが、毛玉出せんで詰まっとる、息」
「なんで、こっちに来たんですか」
「もう間に会わん。距離見ても、タクシーも道路も、見えんねん、分かるねん、俺やから。無理や、間にあわん」
 顔色は悪いのに、その言葉には少しのぶれもなかった。あっけらかんとして、空っぽみたいに上野は言った。倫が一文字も発する前に、彼は何を言おうとしたのか分かったみたいだった。

「俺やからな。ふつうの、かみさまやから。ねんの死ぬとこなんて見たない。せやったら真中さんとおりたい」
 体中の力を吸い取られたみたいにぐったりして、上野はベンチに腰掛けようとする。倫は一瞬でたくさんのことを考えた。ねんがいなくなったときの上野のこと、会えないでここで弁当を食べること、今一人でいるねんのこと。

ビニール袋を上野からひったくってスクーターのかごに投げた。ヘルメットをそのぺしゃんこになった頭にもう一度押し込む。思い切り力を込めて彼の手を引いて、反動でスクーターの後部にぶつけるようにした。「痛」と言う上野を無視してサドルにまたがる。ハンドルをにぎってみた。何年ぶりだとかは考えなかった。
「怖い、なんか言うて」
 上野は何も言わない倫に怯えはじめる。
「座って」
「やって、間に合わんのやで、俺には見えるねん、見えるから言ってるんよ。このあと自分ら仕事やろ、どうすんねん。遅刻してねんが死んどるん見て戻るんかって。それにな、それにどうせ、みんな一緒に」
「あきらめる理由にはなりません」

『どうせ、みんな一緒に』の後になにが続くかはもはやこの世界の誰にでも分かることだった。上野は素直に、黙って後部の荷物置きに体重を落とした。重みで沈んだのを感じた瞬間、倫はもう発進していた。

彼の言う通り、道路はひどく混みあっていた。全員が辞めるわけにはいかないけど、もう仕事をしたり学校に行ったりしている理由なんてないようなものだ。みんな思い思いに、やりたいことをしたくて、行きたいところに行きたい。
 倫はぎゅるぎゅると車の隙間を抜けていく。色んな人の色んな気持ちの間を通り抜けていく。後ろにいる上野はしっかり倫の腰に手を回して縮こまっている。
「死んでまう」
「どうせ死ぬんだから今は誰も死にません」
 倫の声は上野には聞こえないだろう。分かっているけど倫は言った。
「その関西弁もです」
 えせ関西弁は上野そのもので、ねんと彼二人の証だ。


6

「自分、信じたんや? 俺の言うこと」
 信じるか信じないかでいえば、倫はもうとっくに信じていたのだろう。どちらでもいいことだった。改めて考えだしてみると、今まで上野がそのことでどんな思いをしてきたか同情しかけそうになって、やめた。ただ隣に住んでいる自分が丸見えだったのかと思ったら突然恥ずかしくなった。

「運転うまいんやな。ハンドル握ると性格変わるんちゃう」
「大学生の時それでひと悶着あって乗るのやめました」
「むっちゃ怖かったで」
「すみません」
「あー。お尻痛いわ」
「すみません」
「許した。また後ろ乗らしてや、次はねんも一緒にな」
 ねんのいない302号室で上野は昼のことを思い出して、おかしそうにした。聞いていないけどただつけているテレビでは、ねんの代わりにはなれない。

倫は初めて昼休みを無断で延長して、ねんを迎えに行った。かみさまの予言は外れた。それから病院まで上野とねんを見送ってから、毎朝の出勤ルートをまたたどって、二回目の出社をした。その間はものすごくドキドキした。「猫が危篤でした」と言えばフロアは急にやさしい空気になって、倫は拍子抜けして床に座り込んでしまった。自分はこういうときのために今までまじめに働いていたのだったと思い出した。

「ありがとうでは、足りんな」
「気に……せんで?」
「下手くそやなあ」
 使ってみようとすると意外に難しくて、上野の努力を知ることになった。そのとき聞こえてきた関西弁で倫はテレビに目をやる。世界遺産を紹介するテレビ番組が終わったところだった。「こんばんは」と座っているニュースキャスターがあいさつをした。もうほとんどの局で同じ内容しか取り扱わなくなって、あまりテレビを眺めることはなくなっていたが、やっぱりつけるたびに隕石の話をしているので本当に隕石が好きなのだなあと思う。上野はテレビの光をそのまま眼球に映してじっと見つめていた。いつかのねんのようだった。上野にはどこまで見えているのだろう。

暦は秋でも、仙台ではもう冬と同じ寒さになった月曜日に、長谷川の異動が決まった。ずいぶん異例のことだった。新入観葉植物の名前も決まった。めかぶさんは入り口にいるのでみんなけっこうその名前を口にした。倫もあいさつするようになった。いつも通りだったものはだんだんくずれて、その形すらいつもになっていく。

「長谷川さん工場に行っちゃうんですよねえ。こんなときなのに、やですね」
「ううん。本当はそっち行きたかったの、俺。こんなときだから頼んでみた」
「うそー、何もないじゃないですかあっち」
「俺にとってはいろいろあるんだな」
「ふーん」
 めかぶさんの名付け親が長谷川と話しているのが聞こえていた。倫は長谷川がそう思っていたのを初めて知ったし、自分がいることが彼の足かせになっていたのかもしれなかった。考えすぎかもしれないけど、離れたことで長谷川にとってもいいことがあったならいいと思った。そう思うことにした。

どうせ終わる毎日だからと型落ちした倫なら言ったかもしれない。でも今の倫は、この会社で、制作部で、やりたいことがある。それはまだ言葉にできないけど、ちゃんと見つけていく。焦らなくたっていい。新しい財布も買いに行く。こんなときだろうが、こんなときすら倫にとってはいつも通りだ。

「せっけんは必要かな」
 長谷川は倫に話しかけた。送迎会という名の飲み会が終わって、店の外に出たときだった。
「愚問っす」
「言うねえ」
 すっかり夜にもなると、コートを着ても首元が寒い。今はせっけんよりもマフラーが必要と言いたいのはこらえた。今このときに、せっけんを作っている意味はあるのかということだ。長谷川だって不安を抱えている。倫と変わらない。

「洗わないと、汚れはとれません。とれない汚れもあるけど、洗ってみないと分かりません」
「だよなー。せっけん、世界救うといいなー」
「隕石もすべるかもしれないですしね」
「銭湯に落ちたらいいけどな」
 二人とも、鼻のあたまを赤くしていた。長谷川に会うことはもう二度とないのかもしれない。冬がきて、春がきて、夏がきて、たぶんもう秋はこない。


エピローグ

火曜日、帰宅すると冷め切った部屋にとつぜん一人が寂しくなって、久々にテレビをつけた。まだアニメもバラエティも放送していることに安心する。でも境目の時間になるとやっぱり始まるのは『あれ』だ。

『地球のカウントダウンが始まっています。正確な日数はまだ特定することができないということですが、あと一年以内ということで間違いないそうですね。どう思われますか』
『会社も学校も行かなくていいんじゃないのと言う方々は大勢いますね。他国ではそうしているところもありますが、もしそうなってしまえば飲食店に行きたくても営業していないだとかそういう事態になりかねません。僕たちも最後まで情報を伝え続けなければならないですしね。とはいえやっぱりまだ心のどこかで、落下するまえに燃え尽きてくれとか、奇跡が起こらないかなあと思ってしまいますね』
『ええ、そうですよね。きっと誰もがそう思っているのではないでしょうか。ここで街灯インタビューの映像があります。町のみなさんの意見ですね。ご覧ください』
 消そうか迷っていると、ごん、と音がしてからすぐに部屋のチャイムが鳴った。隕石が落ちたのかと思った。来そうなのは誰かだいたい分かっていたが、それは来てほしいと思っているのと同じことかもしれない。

「ねんちゃん帰ってきたでえ」
 専用のゲージを抱えながら上野が303号室にやってきた。さっきのはこれをぶつけた音のようだ。
「おかえり」
「おん! ただいま!」
 ねんに向かって言ったつもりが、上野がいちばん元気に返事をする。やっとゲージから解放されたねんは倫の部屋にピョイと降りて、暖房のかかっている方にさーっと行ってしまった。

「二人ともずうずうしくなりましたね」
「ひましてなかった? ごめんやで」
「あ、いや。嬉しいんやで」
「はは、そうなんや。変な言葉、おもろい」
 一人だった部屋は急に三人になって、知らないスイッチの明かりがついたみたいだった。

「これ。見てたん」
 上野はテレビに気がついて首だけ動かした。
「つけてただけなんで変えていいですよ」
「や。ちゃうくて。世界、続けたい?」
「なんですかそれ。ゲームみたいに」
 続けたいならそうしてあげるよと、かみさまは言ってはくれないだろう。

「これが最後になるだろうっていうものがいくつか、そろそろ始まりましたね」
「うん。俺もや」
「終わるけど、終わるからってなんか色々あきらめるのはちがうと、思うようになりました」
「うん。俺もや」
「人工知能ですか」
「ばれた? でもさ、終わらんかったら?」
 上野は勝手にテーブルの上のみかんに手をのばしてむきはじめる。冷蔵庫にじゃがいもがごろごろあるのを突然思い出して、今日はカレーにして全部ぶちこもうかと考え始めた。倫もみかんに手を伸ばす。

「いや、でも、終わるじゃないですか」
「知っとるか? 俺が誰だか」
「上野さん」
「そうやな、上野さんや。上野さん、かみさまやん」
「そうらしいですね」
 上野はみかんの白い筋は剥がさずに一粒ずつ口にはこんだ。

「ホンマに落ちてきてるんよ。けっこうデカいやつ。ビビるくらい」
「ホンマに」
「そ、ホンマに。やけど、一年くらいやん、もう」
 地球のカウントダウンは始まっています。アナウンサーもそう言っていた。全人類の寿命がおとずれるのはそう遠くない。

「それが見えてるわけよ。せやから諦めててん。終わりやーて」
「終わりやー」
 倫は上野の真似をしながら最後の一粒を口にふくんだ。こうして話しているつもりでも、本当に自分が死んでしまう日を受けいれることができているのかは分からなかった。
「でも、理由にはならんな」
 みかんを食べ終えて、手持ちぶさたになった上野はついにテレビを消した。そっぽを向いていたねんを持ち上げ、ひざの上に乗せる。

「もし終わらなかったらの話ですけど」
「そこ話戻すんかい」
 上野はねんの右腕を持ってなんでやねんの形に振った。ねんは迷惑そうな顔をすることもない。
「もし終わらなかったら、いや、終わるとしてもですね。生きて会えてよかったと思います。上野さんと、ねんさんに」
「ふつうやけど」
 めがねの奥の目をちょっと細くして、上野はそばかすのある鼻を掻いた。

「ふつうやけど、めっちゃうれしいこと言うんやなあ」
 ねんに視線をやった上野はまた口を開いて、
「ふつうって、すごいんや」
 と言った。それから倫の言葉も自分が言った言葉もかみしめるように口を結ぶ。ねんと上野はしばらくじっと目を合わせていた。ねぐせパーマが暖房の風に揺れる。次に上野が前を向いたとき、瞳の色は倫を通り越して、ずっと遠くを見つめていた。

「なあ。やってみんと、分からんやんな」

ここにかみさまがいるのだから、秋はもう一度きたっておかしくない。


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