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映画を早送りで観ないタイプのZ世代 - 稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』、蓮實重彥『映画 魅惑のエクリチュール』を支えとして

最近、映画監督の坂本礼さんの最新作に、こんなコメントを寄せた。

映画は時間。わたしたちはスクリーンの前で、各々の人生のうちの103分を、平等な時間をすごす。
雅之と涼子が失踪した娘を探してきた5年。莉奈が失った9年。いくつもの、止まった時間と動きだした時間の交錯を経て、時のうねりが合流する。わたしたちは、うねりの中にいる。

https://futarisizuka.com
映画「二人静か」公式サイト

試写室で、絨毯敷きの床に寝そべって観る坂本監督のとなりで彼の映画を観た時間は、なんだか忘れられない。
映画は時間。平等な時間をすごす。それが、あたりまえだと思っていた。
稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』を読むまでは。

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2022年)

なぜ映画を早送りで観るのか?

現代は映像作品が供給過多になったうえ、可処分時間の減少/多忙によるコストパフォーマンス(タイムパフォーマンス)を重視する傾向が強くなったため、映画を倍速視聴・10秒飛ばしする若者(註1)が増えた。
また、「台詞ですべてを説明する」などのわかりやすさを追求したり、視聴者に不快感を与えないよう物語を展開したりしないと売れないため、作品自体も説明過多になっている傾向がある。
それによってまた、「台詞のないシーンは飛ばしていい」「自分の心を乱されたくない」といった思考が生まれ、ファスト映画やネタバレサイトを観て映画を視聴したり、そもそも映画を観ない若者が増えている。

……『映画を早送りで観る人たち』には、そういったことが書かれている。
いやあ、新書300ページを300字未満でまとめてしまえる暴力性が怖い!
でも、たぶん上記の説明を読んでいて「ちょっと、まだ読んでない本の内容を要約しないでよ!」と思った人は少ないのではないか。だってこの本は説明文だから。つまり、「映画を倍速で見るなんてけしからん!」と思っている人の中にも、「論説文の要約を読んで理解した気になる」ことを許容している人は多い(たぶん)。

鑑賞と消費のちがい

これはおそらく、『映画を早送りで観る人たち』に書かれている「鑑賞と消費のちがい」によって説明ができるだろう。

(ゆめめ氏の発言)「例えば、アカデミー賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』(2019年)みたいな作品なら、鑑賞モードで観ようという気持ちになります。でも、ちょっと話題だからキャッチアップしたいみたいな作品は情報収集モード。『なんでこのお店が流行ってるんだろう?』と同じ種類の好奇心ですね。作品というより、ひとつの情報として見ているというほうが、言葉のイメージとしては近いかな」

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2022年)66ページ

芸術——鑑賞物——鑑賞モード
娯楽——消費物——情報収集モード

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ——コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2022年)68ページ

ここで話題にされている「映画を早送りで観る若者」は、映画も情報を得られればいい「コンテンツ」だと認識しているから、早送りで観るわけだ。
そこで必要なのは「映画を観る」という鑑賞体験ではなく、「映画を観た」と他人に話すことのできる情報である。その意味で、説明文の全文を読まずに要約文だけ読んで要旨をつかむことと、映画のすべてを見ずにファスト映画だけ見てあらすじなどの情報を入れることは、「映画を早送りで観る人」にとって同質なものなのだろう。
もちろん、読者が能動的に読む文章と、観客が受動的に鑑賞する映像には大きな隔たりがあるが、「新書一冊読むのだるいな……サマリーサイト見とくか……」をしたことがある人は、感覚自体は掴めたのではないだろうか。

映画を観るとはどういうことか?

感覚は掴めた! けど、やっぱりわたしは「映画は120分きっちり飛ばさずよそ見せず見てほしいです!」と思ってしまう。それは、冒頭でも言ったように「映画は時間」だから。
以前、坂本監督がおっしゃっていた言葉を使うなら「映画は体験」だから、だろうか。映画を見たっていうと、みんな物語の話ばかりするけれど、映画というのはイコールでストーリーではないでしょ? 映像を見たんでしょ? その話をしたらいいじゃん? っていう、アレ。
蓮實重彥の論説集『映画 魅惑のエクリチュール』にドンピシャの文があったので引用。

瞳を向ければだれにでも映画が見えてしまうという現実は、見ることをたやすく「フィルム体験」たらしめまいという悪意をみなぎらせている。だからこそ、多くの人が映画を見ながら、じつは映画の物語を復習するばかりで、愚鈍の残酷さへと自分を譲り渡すことを避けているのだ。彼らは、映画について語りたがらず、すでに知っている映画の物語の主要な挿話を反復しているにすぎない。

蓮實重彥『映画 魅惑のエクリチュール』(筑摩書房、1990年)356ページ

フィルム体験とはなにか、を気軽に書けるほど映画に詳しくないのだけど、書名の「エクリチュール」という単語を拾えば、こうした物語と体験の乖離については、小説にも同じことが言えると展開できるだろう。「同じ物語内容(あるいは模倣・パスティーシュ)をどういう文体(エクリチュール)で書くのか?」だ。

蓮實重彥『映画 魅惑のエクリチュール』(筑摩書房、1990年)

映画を「観る」ことはできるのか? というのは、前々回のnoteにも書いた。

120分映画館でじっと座って「すべてを見ていた」として、それで鑑賞したと言えるかどうかはわからない。これは同じ小説を読んだとして、その「文章を体験する」ことができるひととできない人がいることに似ている。
二倍速だとかファスト映画だとかと関係なく、単純に「映像を見る」行為と「映画を観る」行為には隔たりがあり、そこを超えることのできる人はどのくらいいるのだろう? あるいは、小説を本当に「読む」ことができる人は、どのくらいいる?

みずから織りこまれてゆくという快楽

そもそも、ほんとうに「映画を観る」「小説を読む」って、どうやったらいいの!? と途方に暮れていたら、わたしの「テクストを読む」感覚に一番近い文章を『映画 魅惑のエクリチュール』で発見した。

明らかに見られる対象としてあるフィルムは、それが記号として生きられるとき、瞳を無効にした触覚的な環境となり、空間と時間を廃棄する。「テクスト」になること、それは織られてゆく模様を距離を介して視界におさめることではなく、みずから織りこまれてゆくことにほかならず、そこに織られてはときほぐされてゆく運動をもはや誰のものでもない皮膚でまさぐることができるだけだ。

蓮實重彥『映画 魅惑のエクリチュール』(筑摩書房、1990年)394ページ

感覚としてはわかるけれど、言語化が難しいことをバチッと書いていただいている……ありがてえ……。これは体験の一番奥まったところに位置する鑑賞のあり方という感じ。
そもそも「二倍速で観る若者はいかがなものか」という話をしていたのに、時間的な体験についてすら否定されてしまった。そこにはもちろん物語化された「説話論的な持続」はなく、現前(present)というテクストが存在する。その織り目、テクスチャーの中に身を投じて、転び、膝を擦りむいて、敗北するしかない。
敗北するとわかっていても、投身するしかないのだ、エクリチュールの魅惑に溺れた人間は。

……ってことでいいんですか蓮實さん! 正直ちゃんと読めてる気はしないけど、なんかそういうノリで読みました! もう眠いので終わります!
そうした、織りこまれ解され織りこまれる運動の中にあって、ようやくわたしたちは「映画を観た」と言えて、(無理くりファスト映画につなげるなら)ファスト映画/二倍速映画視聴は運動の否定であり、それは体験とも鑑賞ともちがうものである。
——みんな、映画観ようぜ! おわり。


註1 もちろん「映画を早送りで観る」行為をする人は若者に限らないし、若者全員が「映画を早送りで観る」わけではないが、ここでは稲田さんに則って主語でかく「若者」にしている。現代人、くらいに読み替えてもいいかもしれない。

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