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玉ねぎを炒めて30分 ~6ギアで生きてきて~

最近、手作りインドカレーに挑戦している。
スパイスを使って、市販のルーを使わずに完成させる。
まだ、2回目だけれど、どれだけ食べても飽きない美味しさだ。
まだまだ奥は深そうなので、引き続き作っていきたいと思っている。

作る工程で、“玉ねぎを飴色になるまで炒める”というシーンがある。
これが、実はこれまでの人生で試みたことのない行為なのだ。
カレー好きな人が、自慢げに〇時間煮込みました!と投稿する様子とか、飴色になっている縮み果てた玉ねぎの写真を自慢げに載せているのを見たことはあったけれど、(暇な人・・・)くらいにしか思っていなかった。本当にごめんなさい。

たった2回だけど自分で玉ねぎを長時間炒めてみて、この修行が出来る人を心から尊敬するようになった。限られた人生の中の30分(下手したらそれ以上)という貴重な時間を、玉ねぎを炒めるためだけに使えるなんて!!そんな無駄な(に見える)ことに丁寧に向き合える人って、なんてなんて愛情深い人なんだ!!と思うまでになった。

だって、実は、わたしは2回とも “あと、もうちょっとで飴色になるよ!” というところでギブアップして次の工程に進んでしまったのだから、、、

ところで、自転車のギアってあるじゃない?
あれ、いくつで走るのが正解なんだろう。

しばらく電動自転車に慣れきっていたので、久しぶりに6段ギア付きの普通の自転車に乗ったら、軽く混乱した。いくつに設定したらいいのか全く納得できないままカチャカチャと騒がしく進んでいた。
1とか2だと、スッカスカで漕ぐ分には楽だけど、コントかな?ってくらい進まない。
6だと、進みは早いけどペダルは重くて、めちゃくちゃ疲れる。
3が中間なんだろうけど、1~6まであるのに、3を選んでいること自体が許せない。

わたしは、混乱しながらも、最終的に6ギアを選んで漕いでいた。
(話が複雑になるから、1でめちゃ頑張る、6で疲れないように漕ぐ、という選択肢は除いてね)

そうしている内に、
すぐに「人生」とか「生き方」に例えたくなる癖が発動する。

わたしは、『すごく楽だけどあまり進まない人生』より、『疲れるけど早く進む人生』の方がいいし、そうやって生きてきたんだ。6ギア人生か。

てなことに気づく。

注意したいのは、これには実は2つの視点があるということ。
確かに、同じ時間で測れば、6の方が遠くへ行ける。
でも、スタートとゴールが同じなら、進んだ距離は1も6も同じなのだ。

楽であること・疲れること、早いこと・遅いこと、多いこと・少ないこと。
本当はどれを望んでいるかは、自分の選択をみれば良く分かる。
良い悪いを問うのは、言うまでもなくナンセンス。

わたしは、日頃から、いつ人生が終わるか分からないと思っている節があるので、つい欲張りになる。疲れてでもいいから、早く、多く、経験したい。

一方で、スタート(生)とゴール(死)は誰でも同じであるなら、楽に、ゆったりと、景色を楽しんで進めばいい、とも思える。
“今”という瞬間は、どちらにも平等に存在するのだから。

玉ねぎの話に戻る。
玉ねぎを飴色になるまで炒めることは、わたしのような人種から見ると、
「疲れるし、進まない」ことなのだ。
もちろん、より美味しいカレーになるという期待を抱いているので、嫌ではない。
でも、正直言って「待てない」(笑)。
あと3分かもしれないのに、待てずに次へ進んでしまう。

(はぁ・・・)と、これまでの色々を思い起こす。
(いつも、詰めが甘いんだよな・・・)
(でも、それなりの結果が出てきたし・・・)
(カレーも十分美味しいし・・・)

そんなことを考えながらも、わたしは今後のカレー作りに多大なる期待をしている。
もちろん、玉ねぎを炒めるシーンに。
次はきっと、レシピの写真と同じくらいまで飴色に炒められる自分をイメージする。
30秒ごとに変化する玉ねぎの色に感動し、決して火を強めず丁寧に炒めながら、疲れるけど進まないあの感じを、深く体に刻み込む。

1ギアと6ギアのデメリットしかない行為なのに、ゴールは明確で、今を生きるオプションまで付いている。絶好の修行だ。
世の中、好きとか楽しいとか、単純には語れないことの方が多い。
現実は、複雑で矛盾だらけだから面白い。

望みの色になったら、どんな気持ちになるのだろう?
カレーの味に違いは感じられるのかな?
先延ばしにしていたまだ見ぬ世界が、
玉ねぎを飴色になるまで炒めた先に、ある気がするのです!


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