デイヴィッド・リス「珈琲相場師」
「一口飲んでみて。そうしたらすっかり教えてあげる。この悪魔の小便はね、あたしたち二人を大金持ちにしてくれるの」
デイヴィッド・リス 著ほか. 珈琲相場師, 早川書房, 2004.6, (ハヤカワ・ミステリ文庫)
概要
舞台は17世紀のアムステルダム。コーヒーが嗜好品として人気を博する直前の時代。ブレイク前夜。
主役はユダヤ人の相場師。
コーヒーの先物取引で一攫千金を狙って騙し合い。
ポイント
悪い人か癖が強い人かセクシーな美女しかいない。
コーヒーの歴史が好きな人にはお馴染みのあるあるが散りばめられている。
著者は金融を研究していたユダヤ教徒。相場師の人物像や挙動に説得力がある。
世界観の構築がすごい。経済、人種、宗教などの複雑な要素を見事に織り上げた名人芸。
全583ページ。まあまあヘビー。
コーヒーにオリエンタルなイメージを持っていないと世界観が分かりにくい。臼井隆一郎さんの本(1)を後から読んで、こういうイメージだったのか と腹落ちした。
新品は入手不可、古本はかなり出回っている。
内容について
主人公は相場師のミゲル・リエンゾ、砂糖相場で大損をし、弟の家に厄介になりながら再起のチャンスを狙っていた彼に裕福な未亡人がまったく新しい商品での儲け話を持ちかけてきます。
まったく新しい商品とはコーヒーでした。カフェインがもたらす覚醒感に魅了されたミゲルは、再起をかけて動き始めます。すべての人を敵とし、時にはかりそめに手を組みながらも相手への警戒は怠らない化かし合いです。やがて相場が動き、勝負を決する日がやってきます。
砂糖で失敗したミゲルは不本意な立場にありお金もありません。属しているユダヤ教徒のコミュニティは抑圧的に描かれています。ミゲルは閉塞感に満ちた生活から抜け出そうと異国の新しい産物に勝負を賭けるわけですが、人生を賭けた大勝負ですから、小説的にはその対象は魅力的であってほしいところです(現実はさておき)。
コーヒーとその周辺の描写にはオリエンタルなムードが漂っています。東洋風のアングラな居酒屋やトルコ人の秘密めいたコーヒーハウス、明晰さをもたらす神秘的な妙薬としてのコーヒー。正直これが日本人にはピンときません(私が不勉強なだけかも)。コーヒーの伝播はアフリカ→アラビア→ヨーロッパなので(2)、欧米人はコーヒーとオリエンタリズムが結びついているのかもしれませんが、日本でコーヒーの販売が始まったのは明治期で、欧米からもたらされた文化です(売られていたのはインド産)(3)。アラビアにまつわるコーヒーの記憶は歌に出てくるアラブの偉いお坊さんだけで、魅力的で怪しげな別世界のイメージには結びつきません。恥ずかしながらユダヤ人についての認識も貧弱です。キリスト教の祖となった宗教による独特の戒律を持ち、金融に強いと噂される、差別されがちな白人、思い浮かぶのはアンネの日記とシンドラーのリスト。これで精一杯です。すごく上手く書いてあるののに、文化的な背景が違いすぎて、常に少し首をかしげながら進まざるを得ない、非常にもったいない作品です。
ただ、コーヒーへの興味が強ければ、そのとっつきにくさを越えられるかもしれません。オランダの人々が当時どのようにコーヒーと接していたか、事細かに描写されています。コーヒーを発見したカルディの伝説などおなじみの蘊蓄も散りばめられています。最初から最後まで美味しさの表現が皆無なのも興味深いです。そういえばコーヒーは薬扱いだった時代です。医師に何か処方されて酸味だの苦みだの考えたことはありません。
ミゲルの他にも、閉塞的な環境から抜け出そうともがく人物がもう一人出てきます。顛末は書きません。
厚くて重くて悪い人がたくさん出てくるわりにはそれほど嫌な本ではなく、ただ「あー面白かった」と言えるかどうかの向き不向きが激しい、人を選ぶ本ですが力作です。はまれば最高です。
臼井隆一郎 , コ-ヒ-が廻り世界史が廻る: 近代市民社会の黒い血液 , 中央公論社 , 1992.10 (中公新書 1095)
臼井(1992)
UCCコーヒー博物館・監修, 神戸とコーヒー 港からはじまる物語 , 神戸新聞総合出版センター , 2017.10 , p13