見出し画像

自然(=カラダ)と不自然(=頭)の同居問題

最近めっきりYouTube。本もそうですが、もっと気楽に、偉人たちの頭の中を覗ける知れるというのは、すごいことだな。

気の向くままに指一本でその世界の扉を開けることが出来るんだから。

最近感銘を受けたのは養老孟子、三木茂夫、岡田斗司夫。

自然にふれろ!内臓から感じろ!

最初のお二人は東大の解剖学者です。
頭脳明晰。現代の頭が良いというのは、概念化のスピードが速いということだと思っているんですが。PCなら高性能のCPUを搭載してるような人。入力された情報をパパパパっと瞬時に演算し構造化できちゃう。そこを踏み台にしてまた取得した情報使ってパパパパっと組み上げて、一般人にも分かり易い形で差し出してくださる。

面白いのが、こんなに頭脳優位のお二人がおっしゃってることが、「自然にふれろ!」「内臓で感じろ!」なんですね。(しびれます…!)

やはり、解剖学者ということで、死体に向き合うというのはイコール、絶対的な自然と向き合うということだからなのでしょう。

自然とは
均一じゃない、理屈じゃない、0と1で表現できない世界。

(コンピューターは0と1で動く)

でも、社会という集団生活の場では秩序を保つ為、コントロールし易くするの為に、その逆の概念(0か1か)が大きく占めている。
人間がそこを求めるのは、分かる。その恩恵は確かに、ある。

カラダ(感覚)< 頭(概念)になると、おかしなことがまかり通る

サピエンス全史で知った「認知革命」ってまさしくそれで。
認知の力によって私たちは進化してきたんだもの。
人間というのは、200万年間もの間、食物連鎖では中の下、1日のほとんどをダラダラ過ごす生物界の雑魚キャラ(←岡田斗司夫のこの表現が気に入っている、笑)だったのに!

思考を駆使した虚構は人間の最大の武器だった。
しかし、そこばかりに重きを置いて今はおかしなことがまかり通っている。「おかしい」と確かにカラダは感じ取っているのに、あたかも正義のような顔をした概念の下に「なんでもあり」な世界になっている。人間は頭を使い過ぎ、カラダの感覚を軽視し過ぎちゃった。

紙の上の方程式を解きながら私たちは、自分の感覚を少しずつ殺してきたんだろう。少しの違和感は飲み込んで「こういうものだ」を叩き込んできたというかね。分かるなぁ。「なんで食塩の量を水の量で割ったら濃度が出るの?!」「小を大で割るって何が起こってるの?!」「全然実感ないんですけど!!」って小5の私は気にくわないと思ってましたよ、笑。でもそこ飲み込まないと学校という場では前に進めないのだ。

学校での学習が必ずしも悪いことだとは思ってない。物事には必ず光と影があるんだから。でもバランスをとる事は出来るんじゃないか?そこにこそ頭を使うべきなんじゃないか?と思う。

そんな私でも、田舎でまわりには自然はたくさんあったし、一見無駄でしかないような自分の内側に潜る時間もたっぷりあった。両親がアウトドア好きだったこともあって、カラダが自然と切り離されることはなかったから、私は感覚を守れたんだなと思う。

カラダ(感覚)への降伏

カラダへの降伏を決定的にしたのは、やはり妊娠とお産だろう。2人目までを病院で産んでみて「あ、ちがうな」と思った。医療はありがたいが、何というか、カラダに委ねる割合が違うなと感じた。100か0かじゃなく「もうちょいカラダいけるぞ」という感覚とか、陣痛というものに「痛く辛いもの」というラベル貼って頭で処理すると、「取りこぼしそうな何かがありそうだぞ?」とか。もう絶対的な自然が自分のなかにある。いくら頭でごちゃごちゃ言ったって、どうしようもない。だって「ある」んだから。

子どもという存在もそう。自然そのもの。もう降参の毎日。だけど、しきらんから頭脳で対応しようとして自滅する。分かっちゃいるけど、そこも私の中にある人間の性なんでしょう(悲)

サピエンス全史、ちゃんと読もう。
やっぱりこのくらいの規模感で歴史みないと、現代とか人間ってものを評価できないなと思った。それでもやっぱり、未来から過去をみたら「人間ってどうしようもねーなー」ってなるんだろうけど。雑魚なりに健気に頑張っていると思うと、フラットに生きれるような気がする。

自然と不自然の境界線

農業も自然を破壊するところから始まっている。境界線は有機的かどうか?持続可能かどうか?ってとこなんだろか。自然は「巡る」「滞らない」が基本だ。
弱肉強食と福祉。野性や本能で生きると弱肉強食が筋なんだろう。けど、人間は認知の力で大きな集団をつくり自分たちを守ってきた。福祉には余力(お金)が必要。自然界には余分はないから、福祉を守ろうと思ったら不自然はセットにならざるを得ない。
いやもう、そもそも人間の中に、自然(カラダ)と不自然(頭)が同居しているんだから、それこそ矛盾は当たり前。そのバランスをいかに取るか。その羅針盤はきっと感覚(カラダ)だ。

矛盾を抱えながら人間はどう生きるべきか

1人の人間として出来ることがあるとするならば、せめて自分のカラダの感覚でキャッチしたものを、実現可能な限り社会に行動として落としていくことなんじゃないか。私が病院でなく、自宅出産を選んだのもその一つ。

あと、思考こそ自分のふりかえりに使うべきだね。客観視したり、傾向を捉えたり。頭の得意分野を最大限に活用できると思うなー

五味太郎が「丈夫な頭と、賢いカラダを持て」と言っていたのが、今すごく腹落ちしている。カラダを精度の高いアンテナにして、何度も何度も頭の中の概念をぶっ壊しては作りかえる、という作業。矛盾は確かに「ある」のだから、その都度、カラダの感覚を頼りにつじつまを合わせてゆくだけ、なんだな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?