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9条信者の「神国ニッポン」論

ウクライナ危機を受け、相田和弘という人が、「軍事国家から侵略を受けたら」という私見を披瀝している。

僕自身は、「相手を殺してまで生き延びたい」とは思わない人間である。

マガジン9

 武器を取って相手を殺すことが(おそらく何人も!)、そもそも自分にできるような気がしないし(自分を殺そうとしている人間を殺すというのは、そう簡単なことではないと思う)、たとえ殺すことができたとしても、それが自分の幸福につながるようにも思えない。

マガジン9

この人の映画は1本も見たことがないが、護憲論者として有名なので、名前は知っている。

いかにも9条信者の考え方だ、と思う。

最近の朝日新聞にも登場し、同じような意見を言っているようだ。


相手が殺そうとして襲ってきても、相手を殺そうと思わない。

非暴力主義。

立派な考え方だと思う。

しかし、立派すぎる。それが問題だ。

私は真似できないし、多くの人にも真似できないだろう。

その倫理性を否定しない。しかし、多くの人に真似できないことを憲法に入れてはいけない、というのが、私のような立憲的改憲論者の見解だ。(井上達夫氏が理論化している)

私が「9条信者」というのは、揶揄ではなく、本当に宗教のようだと思うからだ。


性欲は汚い。だから、私はセックスをしたくない。

それは、1つの立派な考えではなかろうか。

実際、人類の多くの暴力、抑圧、差別が、「性欲」に由来するように思われる。性欲がなければ、さぞ平和になるだろう。

だから実際、一生セックスをしない生き方を選ぶ人が、昔から多かった。そうした聖職者たちに、人びとは昔も今も敬意を持つだろう。

しかし、それは「例外的な倫理」である。

性欲を否定する、非性欲主義のコミューンは、何度も世界に生まれたようだ。例えば、イギリスから新大陸のアメリカに渡った清教徒の中には、そういうコミューンを作ったものがいた。

しかし、そうしたコミューンは、1世代を超えて生き延びないから、すぐに世界から消えた。

みんなが同じ例外的倫理を持てば、単に人は滅びるだけだ。

「戦力」という暴力も、この「性欲」と同じようなものだと言える。

戦力についても、性欲と同じく、それを例外的倫理で否定するのではなく、その存在を認めて、法的に統制することを人類は選んできた。


戦前の日本は「神国ニッポン」論で、日本人は超越的な倫理観を持っている、だから英米よりも精神的に優越している、というイデオロギーを注入した。

9条教は、私には「神国ニッポン」論と同じだと思える。

日本人は9条の倫理性で世界から超越している、「9条があるから世界から尊敬されるべき」というのは、日本は天皇の神性で世界から超越している、というのと変わらない。


そういう超倫理性、普通の人間を超える倫理性に訴えると、結局だれも責任が取れない無責任体制になる、というのが、敗戦後の反省であり、戦後の出発的だったはずだ。

すべての権限が天皇の超越性に淵源するため、だれも逆らえず、結局は、だれも責任を取れなくなった。

同じことが9条の「超倫理性」にある。

だれも逆らえないほど「高邁な理想」なために、現実にある「自衛隊」の存在を、その理想に逆らう「違憲」の存在にしてしまった。

現実にはその自衛隊に日本の防衛を委ねているので、「自衛隊」を憲法で統制できない深刻な無責任体制が発生している。

これは戦前、天皇の統帥権の超越性のために、軍隊が憲法で統制できなくなったのと根本的には同じ状況だ。

なぜ9条信者は戦前に戻ろうとするのだろうか。


なお、今の徴兵の考え方では、良心的兵役拒否が認められるので、相田さんのような人たちにも役割が与えられる(「人を殺さない」が、兵士と同等以上に危険な、代わりの役務が与えられる)。

だから、非暴力主義者も、徴兵制や立憲的改憲に反対する理由はないと思うのだが。



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