西田幾多郎の戦争責任
思想や学芸にもトレンドがあって、今年は西田幾多郎と森鴎外の年だという。
それを象徴するように、岩波新書で5月に小坂国継『西田幾多郎の哲学』が出て、7月には中島国彦『森鷗外 学芸の散歩者』が出る。
森鴎外は今年没後100年という区切りだが、西田幾多郎のトレンドは、徐々に盛り上がってきたもののようだ。
それを示すような、哲学者の清水高志さんのツイートが目に止まった。
西田はここ十年でもものすごく関連書が出て完全復活した感がある
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岩波の『西田幾多郎の哲学』はまだ読んでいない。著者の小坂国継氏にちょっと疑問がある。
私はかねて西田幾多郎の戦争責任に関心があるが、小坂氏は『京都学派の哲学』(藤田正勝編)の中で、私には納得ができない弁護論を展開していた。
(西田の)態度は、およそ超国家主義とか国粋主義とかいったものとは無縁のものである。したがって、この点では、戦後の西田哲学批判はまったく根拠のないものであったといわなければならない。西田の主張を意図的に曲解しようとするものでないかぎり、誰も彼を戦争協力者と見なすことはできないであろう。彼の思想は真の意味での世界主義であって、ウルトラ・ナショナリズムとは対極にある。(小坂国継「京都学派と『近代の超克』」問題」)
戦後の西田哲学批判は「まったく根拠がない」? 「誰も彼を戦争協力者と見なすことはできない」? それは言い過ぎではないか。
こういうのをひいきの引き倒しというのではないか。西田が少しでも「右翼」「戦犯」とみなされては困る業界事情があるのかと勘繰りたくなる。
前に夏目漱石の「神格化」について触れたが、漱石のように、いったん学者の研究対象になると、研究者たちは対象の「まずい属性」を隠そうとする。漱石が子供時代いじめっ子だったという同時代の証言は「疑わしい伝承」とみなされ、記録されず、隠蔽され、やがて完全な「偉人像」が確立され、その偉人像が産業化されて、研究者たちはメシが食えるようになる。
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ともかく、以下のような西田自身の言葉を読んで、「およそ超国家主義とか国粋主義とかいったものとは無縁」と言えるだろうか。
国家は国体を有し、国体を有するものが国家であるのである。単に特殊的な民族的生命の上に国家の名を冠すべきではない。個性的に歴史的形成的なるもののみ、世界に対して、真の国家として独立権を要求し得るのである。
我国の国体に於ては、皇室が世界の始であり終である。皇室が過去未来を包み、絶対現在の自己限定として、すべてが皇室を中心として生々発展すると云ふのが、我国体の精華であるのである。
私は、我国の精華としてその唯一性は、歴史的世界形成的として、その宗教性、神聖性にあると思ふ。而して、今日世界自覚の時代に於て、それは国家の範を示すものであり、かかる国家概念は国家学の新たな出立点となるものである。(以上、いずれも西田幾多郎「哲学論文集第四補遺」より)
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私は「善の研究を読もう」という記事で、西田の国家観が意外にリベラルなのに感激した、と書いた。
1911年に出版された「善の研究」では、国家の「人格」「個性」をお互いに尊重しなければならない、という、多様性を尊重するリベラルな国家観を西田は書いていた。
しかし、1944年に書かれた上の引用では、日本は「真の国家」であり、その国家としての「人格」「個性」は特別であり、「国家の範」となるものだと主張する。
こうした西田の国体論は、主流右翼の神がかった思想とは違う。当時の「現人神」信仰の単純右翼思想を批判している、という面があることはわかる。(だから右翼から批判されたと言われる)
神がかった右翼思想とは、例えば、1935年に永田鉄山軍務局長を暗殺した「皇道派」相沢三郎の次のような思想だ。
「天皇は、この宇宙をつかさどる現人神である。人生の目的は陛下の思し召しにより(この宇宙を)発展させることであるが、ただしこの事実は全世界において理解されておらず、今の世は、共産主義、資本主義、無政府主義などによって、行き詰まりが生じている」云々(『禅と戦争』p110)
西田は、こういう思想は退ける。しかし、結局は、「日本には世界に範を示す使命がある」という侵略戦争正当化論であり、右翼や政府に対して「このくらい哲学的に意味づけないと、単なる侵略だと思われちゃうぞ」とアドバイスしていると読める。
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1911(明治44)年と1944(昭和19)年の間に何があったのか。
西田と同世代の幸徳秋水が処刑された大逆事件(1911)から始まって、西田が所属した京都大学でも河上肇の辞職(1928)、滝川事件(1933)、そして学士院の美濃部達吉が排撃された天皇機関説事件(1935)と、学者・文化人への弾圧・統制が強まりつづけた。
一方、その間、西田は出世しつづける。1916年、正五位。1927年、帝国学士院会員。1940年、文化勲章。
私は、大逆事件以降のこの時代の文化人は、「本当の思いを言えなかった」ことを前提にすべきだし、「言えなかったこと」「本当は言いたかったこと」にこそ想像力を働かせるべきだと思っている。
だから、上の西田幾多郎の言葉を単純には批判したくない。
しかし、一方で、同じ京都学派の田辺元が戦中に沈黙を貫いたのと比べると、西田にはやはり「協力」姿勢があった。
それを、現在の位置から倫理的に裁断できるのか、という問題はある。それは大きな問題だ。とはいえ、あったことを「なかった」とは言えない。
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鴎外も、漱石も、大逆事件には沈黙した。そして間もなく死んだので、昭和の戦争まで経験しなくて済んだ。
そして西田幾多郎も、戦後まで生き延びなかった(敗戦直前の1945年6月に死んだ)。ある意味で、いいときに死んだ、と言える。
私は徳富蘇峰を研究対象の1つにしているのだが、彼は戦後まで生き延びたので、公職追放され、「戦犯」呼ばわりされた。(しかし彼は、弟の徳富蘆花と共に、大逆事件死刑囚の助命嘆願書を書いた)
同じく関心がある作家、「兵隊作家」の火野葦平も、戦後は「戦犯」扱いされ、最後は自殺した。
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こうした問題を考えていくと、個々の作家や思想家の問題ではなく、日本とは何か、国家とは何か、という問題になる。
西田幾多郎についてはもう少し勉強して書きたいが、いずれにせよ、トレンドとは距離を置いて、「偉人伝」に書いていないことを知りたい。