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井上達夫の哲学的プーチン論 『ウクライナ戦争と向き合う』書評

ウクライナ戦争で、日本はどっちに、どの程度つくべきか、といった政治論や、どっちが勝つかという軍事論は、すでにメディアで散々やられ、本にもなってたくさん出ている。

しかし、哲学者が「どちらが哲学的に正しいか」「それに対して我々がどう行動するのが正しいか」を論じるのは稀だ。しかもそれが日本の代表的哲学者である井上達夫(東京大学名誉教授)であるならば、自動的に読むべき本になる。

井上達夫『ウクライナ戦争と向き合う ― プーチンという「悪夢」の実相と教訓 』(法と哲学新書) 信山社
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本書での議論は、10年前に出た『世界正義論』(筑摩書房)を踏まえている。「戦争はそもそもすべて悪」という考え(絶対平和主義)は、その本の中ですでに否定されている。

『世界正義論』の中で井上は、目的が自衛権の発動であり、手段がその目的の範囲に限定される「消極的正戦論」を、正当化できる唯一の戦争の立場としている。その点を知っておいた方がいいだろう。


井上達夫のウクライナ戦争についてのコメントは、かつてこのnoteでも取り上げた。


本書で展開されているのは、その時と同様の議論である。

・「どっちもどっち」的な対露宥和論を拒絶して、プーチンの悪(と愚)を非難している

・ウクライナ国民が自ら戦う姿勢を示したことが国際世論の支持を決定づけた点を強調している

・ひるがえって「アメリカ頼り」で改憲論議も進んでいない日本の現状を、改めて批判している

こうした点が、井上の議論の骨子と言えるだろう。


本書の緻密な論理に十分感心しつつも、ここでは、読後に覚えた違和感について記しておきたい。

井上は、ノーム・チョムスキーがロシアに対して弁護的な発言をしたことにショックを受けたという。

そして、アメリカの「悪」を誰よりも批判してきたチョムスキーが、アメリカの「悪」によって、ロシアの「悪」を見逃そうとする、その論理の陥穽を緻密に批判する。

いわゆる「どっちもどっち」論に対する、井上倫理学らしい批判で、本書の読みどころの1つだろう。

しかし、その「どっちもどっち」論(井上のいう「二悪二正論」)の哲学的棄却は正当だとしても、それで論議が尽くされていない不満が残る。

その不満をうまく論理化はできないが、以下のようなことである。


人権や国家主権の考え方が行き渡った戦後世界では、ある人が別の人より本質的に優れていると言うのがはばかられるのと同様、ある国が別の国より優れていると言いにくい。例の拒否権の問題はあるにせよ、理念的には大国も小国も国連では1票だ、と。

しかし、世界の人々は、そんな風に国を見ていない。「どうせ支配されるならロシアに支配されるよりアメリカに支配された方がいい」と思っている。日本だってかつてアメリカに占領されたのである。「ロシアの占領ではなく、アメリカの占領だったからよかった」と誰もが考えているはずだ。

こうした定性的な国家やイデオロギー評価を度外視して「二悪二正論」批判は成り立つのだろうか?

プーチンが、「日本に核を落としたアメリカには、ロシアの核を非難する資格はない」と言っても、日本人の心にすら響かないのは、1つの悪で別の悪を消そうとしている彼の論理的過誤によるのではなく、原爆を落とされたファシズム日本よりも落としたアメリカの方が正しいと日本人も思っているからである(落とさないで済めばそれに越したことはなかったにせよ)。

それは、井上やチョムスキーの「冷戦」評価に対しても同様である。井上もチョムスキーも、冷戦期の米国の隠れた覇権的行動に対して、最も鋭い批判者だと思う。そして、その批判は正しい。

しかし、おかしいと思うのは、そのアメリカや西側の「悪」が、ソ連や東側の「悪」と釣り合う(二悪)ように評される点だ。

とんでもない話だ。アメリカが「悪」だとしても、共産主義の「悪」は、死者の数で見ただけでも桁違いに巨大だ。

アメリカの裏庭である中米や南米で共産化が進み、ロシア、中国、朝鮮が共産化してインドシナを取られ、フィリピン、インドネシアあたりまで共産化の危機があった。日本も、岩波・朝日や、左派の東大教授の言うとおりにしていたら、危なかったのである。

そりゃアメリカも暗躍する。その悪を「悪ではない」と言う必要はない。目的が正しくても手段が間違っていたら悪だ。しかし、そうであっても、共産主義の悪とは比較にならない。

だから私は、

「ベトナム戦争のことを何回後悔しなければならないとしても、アメリカが冷戦を戦ったのは正しい」

と言ったリチャード・ローティに賛同するのである。



余談だが、冷戦をどう評価するかは、ウクライナ戦争の評価にも、その他の現在の問題にも直結している。ウクライナで変なことを言っている知識人は、たいがい冷戦時代から変なことを言っている。

霊感商法は問題だとしても、共産主義の「悪」の実績を周知している現在では、自民党が反共主義団体(統一教会)と付き合いがあったのは、結構なことであったと言わねばならない。それは、「原理研」が問題になっていた冷戦中の1980年代にはわからなかったことである。自民党がもし共産主義団体と付き合いがあったらまさに問題だった。

それを今になって、共産主義と2代にわたって関係がある左翼2世の有田ナントカとか、北朝鮮の拉致を見逃してきた土井たか子の後継者の辻元ナントカとかが、反共団体と関係があったからと自民党を批判する。

共産主義以上のカルトがあったであろうか。1億円の寄付より、1億人殺した共産主義の方が、1億倍ヤバいだろう。そのカルトとの付き合いは不問にして、1億倍悪い悪玉が善玉を責めている。変に思わない方が変である。みんな冷戦中の誤った価値観を引きずりすぎなのだ。



究極のプラグマティズムで究極の相対主義者、「人間は真理にかしずくべきではない」「人間の行動に準拠枠は必要ない」というローティは、哲学的に、普遍主義志向の井上の対極にある。だから、歴史評価を含めて、何であれ両者が対立するのは当然だ。

私自身は哲学者ではないので、一貫性を標榜する必要がない。両極の哲学者の両方から学びたいと思う。

ただ、ウクライナ戦争のような問題では、もしローティが生きていたら、井上よりももっと歯切れのよい議論ができただろうと思う。

それは、例えば山崎正和のような人が生きていても同様だろう。山崎はイラク戦争のとき、日本の論壇でアメリカの行動を「倫理的に」支持した、ほぼ唯一の人だった。


いまの日本の論壇に欠けているのは、左翼でも右翼でもなく、ローティや山崎のような知識人だと感じる。「反共主義者は右翼だ」と、冷戦中に教育を受けた者は思っているが、ローティは反共主義だが(改良主義的)左翼だし、アメリカは反共国家だが右翼国家ではなく、晩年の西部邁に言わせれば左翼国家だ。

人々がロシアよりアメリカを支持するのは、イラクよりアメリカを支持するのと同様、論理というより直感だ。あるいは論理以前の問題だ。その感じを論理にしてくれる人がいない。

禁煙運動に対して自由主義者として反発するようなところは、山崎と井上に共通するのだが、共通点はそのあたりまでである。


場違いに本書でボブ・ディランの「風に吹かれて」を引用する井上は、団塊より若いはずだが、「1960年代」世代の人なんだなあ、と改めて感じた。

容共主義とつながっていたベトナム反戦の気分をまだ引きずっているのである。

リベラル側で、論壇の左翼傾向に抗える人、という印象だったので、意外な発見でもあった。

本書での議論は、日本の反・反共主義的戦後リベラル(知識人は共産党に入る必要はないが共産党をけなしてはいけない的な)の枠内にすっぽりはまっている。

その反・反共主義者性が、かつての丸山真男と同様、井上の弱点になっていると思った。


井上はあとがきで、

「本書は私の他の著作と同様に、きわめて論争的」

と書いている。憲法をめぐる諸著作は確かに論争的だったが、本書にはそれを感じなかった。

もちろん、憲法9条や日米同盟をめぐる状況は、ウクライナ情勢にもかかわらず進展していないのだから、本書の第3章で言われる井上の主張は依然論争的で啓発的であり、本書が短期間に書き下ろされて出版された意義はある。

だが、ウクライナ戦争に関しては、戦況の進展とともに「どっちもどっち」論や対露宥和主義がなりを潜めたいまは、全体として、今の多数派の意見と変わりなくなっている。

と思っていたら、東大のロシア学者、塩川伸明が、ツイッターで本書に噛み付いているのを見た。親ロシアの学者たちからは、井上は本書ではっきり「敵」認定されたようだ。




たぶん、井上は、ウクライナ国民が、ロシアの侵攻に対し、不屈の抵抗の姿勢を示したことに感動したのだ。

それをもっとストレートに出した方が、いまの日本の状況に対してインパクトがあったと思う。哲学的な自制が利きすぎている。

その意味では、ロシアの侵攻から間もなく毎日新聞に載ったインタビューの方が、井上の主張がわかりやすかった。


井上は決して晦渋を好まず、その文章・論理は常に明晰だが、新書にもかかわらず、緻密に書き込みすぎる癖は変わっていない。それが一般の読者を遠ざけないかと心配だ。

タイトルも歯切れが悪すぎる。『プーチンという「悪夢」 ウクライナ戦争の法哲学』みたいなタイトルにすれば、もっと売れるだろう。


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