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山下泰裕さんの快癒を祈る

負けたことがないのが自分の弱点


昨日は、山下泰裕さんが頸椎損傷で入院というニュースに衝撃を受けた。


山下泰裕さんは、私と同世代であり、私の世代には絶対的な存在だ。

心から回復を祈りたい。


彼は「最強の人」「負けない人」であり、同時代の国民的ヒーローだった。

1980年、彼の絶頂時に、モスクワオリンピックが政治的理由(ソ連のアフガニスタン侵攻)でボイコットになり、出場できず一晩泣いたエピソード。

4年後、ロサンゼルスオリンピックで、けがを抱えながら優勝した光景。

そのオリンピック優勝で国民栄誉賞を授与された。

そして203連勝、不敗のまま28歳で現役引退した。

すべて同時代に目撃してきた。


20代でこれほどの栄誉と達成をはたした人はいない。

しかし、いっそう見事なのは、そのあとだったと思う。

政治家になれ、選挙に出ろ、という話は山ほどあっただろうが、彼はご承知のとおり、東海大学で柔道指導家の道を歩んだ。

「指導者の道を選んで、敗者の気持ちがわからないのが自分の弱点になった。

自分にとっては勝つのが当たり前で、負けるのは努力が足りないのだと思っていた。

しかし、努力してもどうしようもないことがある。それを、残りの人生で学んでいった。

障害のある子供と歩むうちに、それがようやくわかった」


そんなことを語っていた記事を読んだことがある。

ほかの人が言ったら、何を言ってやがる、という感じだが、彼の言葉だけに、胸を打たれた。(彼の息子の一人は自閉症児だった。)


その後も彼には、政治的役割が期待された。

彼はつねに、日本柔道界の改革なり飛躍なりに貢献するよう期待された。

国際柔道連盟で日本が理事のポストを失ったときは、山下がもっと政治的に動かないからだというように非難されていた。

北方領土交渉では、柔道家のプーチンとの「友情」でなんとかしろ、というふうに期待された(ウクライナ戦争でも期待された)。

山下は政治に向かないし、それは本人がいちばんわかっていたと思う。政治だけでなく、自分が前面に出ることは避けているように見えた。

2020東京オリンピックでは、選手強化本部長には就任したが、それ以上の役職はぎりぎりまで固辞していたようだ。

しかし、結局JOC会長に推され、誰が見ても損な役回りを引き受けていた。


「松前三代」の武士道


私は、東海大学創立者の松前重義、1964年東京オリンピック優勝の猪熊功、そして山下泰裕は、3代の「家族」のように思える。

実際、松前から見れば、猪熊は最愛の息子、山下は最愛の孫のような存在だった。

そのことは以前にも書いたことがある。


松前重義(1901ー1991)

熊本出身、東海大学創立者。戦前に大政翼賛会総務部長。日本の敗北を予言して東条英機に嫌われ、南方戦線に二等兵で送られる。戦後は逓信省総裁(逓信・郵政大臣相当)、社会党右派衆議院議員。柔道全国大会で優勝した兄(松前顕義)の影響で柔道振興に努め、国際柔道連盟会長を務めた。

猪熊功(1938ー2001)

横須賀出身。小兵ながら負けず嫌いの「けんか柔道」で、東京教育大学生のとき全日本柔道大会で優勝。1964年東京オリンピック優勝、65年世界選手権で優勝し、史上初の「柔道三冠」達成。松前重義に心酔し、東海大学教授、東海大学を母体とする東海建設社長となるが、同社の経営不振の責任をとり自殺。浦沢直樹「YAWARA!」の柔の祖父「猪熊滋悟郎(じごろう)」のモデル。

山下泰裕(1957ー)

熊本出身。九州学院高等学校時代、柔道インターハイ史上初の1年生で優勝。東海大教員の柔道家・佐藤宣践、また同郷の松前重義と、猪熊功の強い勧誘により、1976年、東海大学進学。その後の活躍はご承知のとおり。


あまり言われないが、山下の現役引退後の立ち居振る舞いには、「父」あるいは「兄」のような存在だった、猪熊功の悲劇が影をおとしていると思う。

栄光のあとの転落を知っているから、慎重な生き方を選んでいる。

そのうえで、後半生にも、前半生からつづく「筋」をとおそうとしている。


この3代の「家族」には、なにか共通の「武士道」のような精神が流れていると感じる。

あまりにハイレベルすぎて、私のような凡人にはわからないが、厳しい生き方をしているのがひしひしと伝わる。

今回の傷害事故の詳細はわからないが、どのようになっても、彼がヒーローであることは永遠に変わらないと思う。



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