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何も恥ずかしくないーープライバシーのない世界を構想する

コンパで酔っ払ってウンチを漏らした女の子がその映像をネットで晒されて自殺した映画を見た(「アンフレンデッド」)。

オナニーしているところを盗撮されて脅され続ける男の子のドラマを見た(「ブラックミラー」)。

現実にも、そういうことはあるかもしれない。

人は生きていれば無限に失敗するし、愚かなこともする。放言や失言もする。恥ずかしいことはいくらでもする。これまでは、それはその場限りのことだから、忘れられることがほとんどだった。

しかし我々は今、潜在的に「盗聴器」であり「盗撮機」であるスマホを持ち歩いている。超小型の監視カメラを簡単に買える。パソコンにも最近はカメラが付いている。ICレコーダーを忍ばせている人もいる。

いつ自分が「盗聴」「盗撮」され、それがネットで晒されても、おかしくない環境に生きている。


上記のようなことは、痛ましく、可哀相だとは思うが、もし私がそうなっても、自殺することも脅されることもない。そこまで恥ずかしいと思わないからだ。

ウンチくらい誰でも漏らす。小便ならしょっちゅう漏らしている(老人だから)。オナニーなんて誰でもやっている。

これが、犯罪の現場を撮られたとかなら別だが、糞便漏らしやオナニーなんか恥ずかしいことはない。


恥には2種類ある


「恥ずかしい」にも2種類ある。

それは、英語の「ashamed」と「embarrassed」の違いとして、よく言われる。最近も、hapa英会話で、これを話題にしていた。


embarrassedは、「きまりが悪い」「体裁が悪い」という意味の「恥ずかしい」だ。他人の目を意識した観点になる。

ashamedは、「良心に反する」という意味での「恥ずかしい」だ。自分の内心を意識している。


たとえば、人前で言葉を間違えたら(「云々」を「でんでん」と読んだり。実は私も子供の頃にある)、embarrassedの方の「恥ずかしい」だ。

それに対して、人に対して見栄を張って嘘をつき(女にモテると嘘をついたことがある)、それがバレたら、ashamedの方の「恥ずかしい」になる。

embarrasedの恥は、偶発的失敗で、誰にでもあることだ。「事故」である。

しかしashamedの恥には、意思が働き、倫理的な問題になる。「罪」であり「悪」である。「恥を知れ shame on you!」の恥だ。


たとえば、人を殺してしまった、という場合は、ashamedの方の最上級の「悪」だから、自殺する、というのはまだわかる。(それでも自殺することはないと私は思うが、それはまた別問題)

でも、ウンチ漏らしたり、オナニーを見られたりするのは、embarrasedの方、「事故」だ。

誰でもやることだが、たまたま人に見られて「きまりが悪い」というだけのことだ。それを「悪」のように自分で思うことはない。(それをわざわざ嫌がる人に見せたり、見られて嫌がるのをわざわざ見ることで快楽を得れば「悪」だが、それはまた別問題)

ただの事故なのに、「きまりが悪い」と悩んで、それで自殺するまで追い込まれるのは不合理だ。だから、「きまり」を変えよう、と私は言いたいのだ。


プライバシー権を疑う


ここからちょっと話が飛躍するけど。

embarrasedの恥を深刻化させているのは、「プライバシー」という概念ではないか、と昔から疑っている。

プライバシーって、そんなに大事なものだろうか。

プライバシーは大事、と当たり前のように思われているが、プライバシーなんて、法曹界がごく最近作った不確かな概念だ。


歴史的には、プライバシーは贅沢品であり、嗜好品でもある。今でもプライバシーの少ない住宅環境に暮らしている人もいるだろうし、私が生きてきた時間の中でも、それに対する人々の価値観は揺れ動いている。


「個人情報」なんてのが大事にされ出したのもごく最近だ。ほんの30年前まで、作家とかスポーツ選手とかの自宅も調べればすぐに分かった。公開されていたのである。本には、著者の住所や電話番号まで書いてあった(これは、明治時代の出版法で義務づけられていた名残りだと思うが)。

私が働き始めた時は、社会人が上司含めた仕事関係者にお中元やお歳暮を贈るのは当たり前だった。当然、住所なんかも分かるようになっていた。


1980年代、住基ネットなどの「国民背番号制」なんかは社会の総スカンを食っていたが、私は当時から、なぜそれがいけないのか、よく分からなかった。脱税したい人が反対してるんじゃない?と思っていた。いまでは意識が変わり、マイナンバーにはかつてのような反対運動は起こっていない。


街頭の防犯カメラが普及し始めた頃も、プライバシーの侵害になるのではないか、と議論になった。しかし、いまでは、それが防犯や犯罪解明に欠かせないことをみんな知っている。

トイレの中まで防犯カメラが入るのは行き過ぎだ、という意見はいまでもあると思うが、そのために公衆トイレが犯罪の巣になっているのではないか。防犯カメラは「盗撮」ではないのだから、私自身はどこにあってもいいと思う。


それでなくても、上述のように、いまはみんな潜在的な「盗聴器」であり「盗撮機」であるスマホを持ち歩いている。

有名人のセクハラだの、上司のパワハラだのを告発するためにしろ、一般人に日常的な「盗聴」や「盗撮」が許されるのだったら、お上が防犯目的に日常的にそれをやっても文句はいえまい。


オッピロゲの世界


ここでまた少し飛躍するが。


恥じらいを知って人間は堕落したと確か聖書にも書いてあった。神は、汝、人を殺すなかれ、とは言ったが、汝、プライバシーを大切に、とか言ってない。

「超監視社会」はディストピアである、と現代人は習慣的に思い込んでいる。しかし、例えばキリスト教世界やイスラム教世界では、神は自分の内心を含めてすべてをお見通しで、それがゆえに安心できる、という世界観もあった。考え方次第である。

それが恥ずかしいとされるから、自殺や犯罪を誘発する。それなら、それが恥ずかしくないことを示すために、世界中の人がプライバシーを放棄し、その「恥ずかしい」姿を一斉に公開すればいい。


犬猫は人前だろうが用便も性交もする。明日から、人類全員がプライバシーという概念を捨てて、素っ裸で街を歩き、街中で用便や性交をして、何が困るのだろうか。犬を散歩させる人と同様、後始末さえすればいいのではないか。

自宅のトイレも寝室もガラス張りにして、道ゆく通行人の目に晒せばいい。かえって興奮するかも、という茶々は入れないでほしい。監獄や災害時にそういう状況になることはあるし、ごく親しい家族や恋人どうしがそういう状態になることもある。

仮に最初はその状況の異常性に「興奮」しても、日常化すればそれもなくなる。

当たり前になれば、誰も気にしなくなるだろう。


平等主義のユートピア


プライバシーは、政治性を帯びているのは確かだ。人権概念とも結びつくが、幻想や権力とも結びつく。

アイドルは糞便しない、とか、王様は糞便しない、という幻想は、商品価値や権威を保つことに貢献する。

だから、昔の左翼雑誌は、皇族がセックスしている漫画なんかを乗せていた。その権威性を剥ぎ取るためである。

プライバシーのない世界は、人権侵害のように感じるだろうが、権威や権力を徹底的に相対化する世界でもある。裸になれば人間は皆同じだとわかるからだ。

ヌーディストたちの思想をちゃんと勉強したことはないが、プライバシーフリーの世界は、平等という点でのユートピアではなかろうか。


*ただ、動物も、子育て中や自分が弱っている時など、天敵から襲われる可能性がある時は、隠れる。そういう意味で、病院などはプライバシーのシェルターにしていいと思う。


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