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若者は「理想主義的」という思い込み

私のような年寄りは、「若者は理想主義的だ」、または「若者は理想主義的であるべきだ」という思い込みから、なかなか抜け出せない。

だから、今度の選挙結果を見た後も、「若者が理解できない」と首をひねりつづけるマスコミ幹部がいる一方で、「若者に理想主義が足らない。もっと注入しなきゃ」と、おなじみの左派文化人、青木理とか香山リカとかの説教を改めて聞かせようとする者もいるだろう。

「モリかけ桜」追求、入管法、ジェンダー、とにかくあらゆる差別とか暴力に反対、とかの主張の背後にも「理想主義」がある。大人はともかく、若者は飛びついて欲しい、とメディアは期待しているのだが、どうもうまく引っかからない。

こう書きながら、私も若者が理解できていないと感じる。私も、「若者は理想主義的で当たり前」という時代を生きてきたからだ。

反共主義というのは、年寄りの右翼の主張だ、というのが我々の世代の認識だが、いまでは、若者の反共主義者は多い。「ネトウヨ」などと揶揄するが、主張が昔の右翼とそんなに違うわけではない。違うのは、それが「若者」であることだけだ。

1つ思いつくのは、我々が若いころ「理想主義的」でいられたのは、やはり日本が豊かだったからだろう。いまの若者が「現実主義的」なのは、現実がそれだけ厳しいからだろう。

現実主義的といっても、没倫理というわけではない。「モリかけ桜」よりも、経済政策とか、安全保障とか、価値の優先順位が違う。若者が「分配」よりも「成長」と言う。そういう価値観の転換に、マスコミがついていけていない。

いまのマスコミ幹部は、「権力は腐敗している!」と言っていれば務まってきたから、経済や安全保障をろくに勉強していない。護憲を言っていればよかったから、法理論も実は知らない。だから、若者の志向や要求についていけていない面はある。

私は「近代日本『左翼』史」というのをボチボチと書いているが、歴史というのは「理想主義」と「現実主義」の交代の連続だ、と感じる。

かつての左翼思想は「理想主義」だったわけだが、それをいえば明治維新を導いた「尊王」「勤皇」だってそうだった。

「理想主義」で世の中がガラリと変わることが歴史にはある。

そのとき、「理想主義」は、いわば出世の「特急券」になる。幕末の薩摩や長州の志士は、この「特急券」を手に入れる歴史の幸運に恵まれた。

左翼運動においても、労働現場の必要から生じた運動はもちろんあるが、正規のルートでは出世できないから、ヤミで「特急券」を買う感覚で活動に参加した者もいたと思われる。

我々年寄りが若い頃は、「特急列車」がどこかで走っている、あるいは、望めば運行される、と信じていられた時代だったのかもしれない。だから、とにかく「特急券」を手に入れておかねば、と感じていた。

「現実主義」は、「普通乗車券」だ。

特急が走っていない時には、「普通券」を買うのが当たり前。それだけのことかもしれない。


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