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【猫小説】『メニー・クラシック・モーメンツ』第8章:霊園にて(全話)


 2月22日午前9時15分頃、東京都品川区上大崎の都道312号で、30代の女性が運転する軽ワンボックス車が縁石に乗り上げ横転し、歩道を歩いていた品川区在住の会社員、氷室旬さん(27)と衝突しました。氷室さんは頭を強く打ち、病院に搬送されましたが、事故発生からおよそ9時間後に死亡が確認されました。


 1年ほど前、深夜の報道番組「プライムタイム」内で、こんなニュースが流れた。

 俺はその放送をていない。ずっと屋外にいたからだ。36時間ものあいだ、ただあてもなく冬の空の下を歩いていた。
 雨は強弱を繰り返しながら降り続けていたけれども、気にも留めずに、歩いていた。地平の先まで、ひたすら歩き続けた。
 その姿は、家を失った浮浪者のように見えたかもしれない。群れから離れた老象のように見えたかもしれない。
 徹夜明けだったし、本当はすぐにでもベッドに潜りたかったはずだ。それでもふらふらと徘徊し続けた。
 
 あの時の俺は、相当おかしくなっていたのだと思う。

*****

 朝、軽い頭痛で目が覚めた。

 それは約2年ぶりに「たいむ」を訪れた翌日のことだった。夕べは調子に乗って酒を飲み過ぎたのかもしれない。コートを着たまま寝るのは、もう、何度目になるだろうか。

 そんな朝、「あの日」のことを、夢に見た。

 棺桶そっくりな冷蔵庫の中から、ミネラルウォーターを取り出した。ペットボトルのまま、ごくごくと音を立てて飲んだ。部活を終えたあとの、高校生みたいに。
 胃袋が水で満たされると、ぼんやりとしていた目の前の景色に、うっすらと色がつき始めた。
 夢と現実との間に境界線が自動的にひかれた。

 そして、シャワールームへと向かう。着ていた服を、全部脱ぎ捨てて。

 
 午後、サトシに電話をかけた。
 クロノスで彼に手渡された名刺を机の引き出しから取り出し、そこに載っている数字の羅列を、スマートフォンの画面に浮かび上がったボタンで正確にタップする。
 果たして彼は知らない番号からの電話にすんなり出てくれるのだろうか、なんて思いながら、呼び出し音を右耳で聴いていた。

「はい、石門ですが…」

 サトシはすぐ、電話に出た。
 そのビジネスライクなボイストーンが妙に懐かしい、と思った。まずは、連絡するのが遅くなったことを詫び、「会って話がしたい」という旨をシンプルに伝えた。
 電話の向こうで「わかった」と、彼は答えた。その声はツンドラみたいに冷たく凍っていた。
 カンの鋭いサトシは、この時点ですべてのことを理解していたに違いない。

*****

 土曜日、あの ” 喫茶店 ” で、彼と会うことになった。

 デートの待ち合わせはいつも遅れてばかりのサトシだったけれども、この日は、俺よりもずっと早く、クロノスに到着していたようだった。

*****

 その日の午後、俺はひとり、葉山の海に来ていた。

 夏には賑わいを見せるこのビーチも、風が吹きすさぶ真冬には人もまばらだ。砂の感触を足裏で感じながら、この時期の海の色もいいもんだな、と、潮風に吹かれていた。

 遠くに子犬と遊んでいる子供たちが見える。手を繋いで浜辺をゆっくりと歩く老夫婦の姿も見える。波をバックに、ジャンプした瞬間の写真をカメラに収めようとしているカップルたちの姿もあった。
 雲ひとつない、鈍色にびいろを飛び交うトンビたち。大波に乗ろうと、果敢に荒れた海へと挑むサーファー。

 見ているだけで、身体が震えた。


「有季のコラムは、これからも読み続けるよ…」

 別れ際のサトシの声が、今も頭の中で小さくこだましている。

 ポケットの中から、一枚のポラロイド写真を取り出した。そして、それを小さく、小さく、小さく破った。

 如月の潮風が野蛮に吹き荒れた瞬間、秘色ひそくの海のかけらが足元に届いた。

 無邪気にじゃれつく水の妖精たちは、12年前の二人の笑い声を、ひとつ残らず、連れ去っていった。

*****

 3月下旬。俺は、都内のとある場所に電車で向かっていた。 

 京王線に乗るのは一体、いつぶりのことだろう。ゴトンゴトンというワイルドな響きを全身で受け止める感覚は、なかなか新鮮で、心が弾んだ。

 小一時間ほど電車に揺られ、目的地の最寄り駅へと到着。
 ホームを吹き抜ける風に、髪がさらさらとすすきのようになびく。発車を知らせる電子音が流れ、無言で去りゆく京王線の電車を見送った。
 そして、目的地へと向かうべく、改札を出る。

 道中、ぽつぽつとした鮮やかなピンクが目に飛び込んできた。桜か?と思ったけれども、それは桃の花だった。
 今シーズンは暖冬だったこともあって、桜の開花は例年より遅れるという。風にはまだ冷たさが残っていたし、メジロやウグイスたちのさえずりもだいぶ小さかった。
 ほんのりと鼻に届く大地の香りは弥生の空を讃え、道沿いでおかしな帽子を被ったおっちゃんが売っていたお団子はとても美味しそうに見えた。おあつらえ向きにお腹もぐうと鳴った。
 今、この瞬間も、俺は生きている。そのことを五感が律儀に教えてくれている。

 最寄り駅から10分ほど歩いて辿り着いた場所は、美しい「霊園」だった。
 花々の香りにあふれ、太陽は眩しく、空気は支笏湖しこつこのように澄み切っていた。

 この場所に ” シュン ” が眠っている。


「ここに氷室家のお墓があるんだよ」

 生前、彼が残したシンプルな地図が描かれた小さなメモをたよりに、彼の墓を目指す。
 都内屈指の霊園ということもあり、その敷地は広大だった。
 平日であるにもかかわらず、たくさんの人出があって、園内は賑わっている。
 訪問者の大半は心穏やかな表情を浮かべていたけれども、一部の人間は力なくうつろに歩いていてゾンビのように見えた。兎のような赤い目をしている者もいた。この世のすべての事象を憎み、かすんだ春の午後の空を睨みつけている者もいた。
 それぞれが、それぞれの思いを抱いて、この場所に訪れている。

 見渡す限りの墓石を眺めていると、ああ、こんなにたくさんの人が死んだんだという、ごく当たり前の人類の歴史の一部分を、生々しく見せつけられたような気分にさせられた。
 だ死んだことのない者にとって「あの世」とは、ミステリアスな都会の隣人のようなものだ。
 顔を知っているようで知らないような。こちらから挨拶すべきだろうか、それとも、挨拶されるまで待った方が良いのだろうか。
 四六時中悩むほどのことではないけれども、一度、考え始めると、そのことばかりに集中力のすべてが持っていかれる。

 死を想うことは、生の慰みに過ぎない。そんな甘く、刹那せつない毒に、人間は弄ばれる。


 シュンの墓前に着いた。

 和菓子の「すあま」のような形状をした鼠色の石板には、生誕日や没年月日、聖書の一節など、彼の生きた証が刻まれ、晴れた午後にすっと差し込む太陽の光に反射して、きらきらと輝いていた。

 墓石は磨かれ、そのまわりには塵屑ひとつ落ちておらず、しっかり除草もされていた。ついさっきまで、他の誰かがこの場所を訪れ、そんな快適さを残していったことは明らかだった。

 手に持っていた真っ白な瑞々しいユリの花を献花台に供えた。
 クリスチャンの正式な作法を俺は知らない。下手な真似をして神様に失礼にならぬよう、花をそっと手向け、祈りを捧げるだけにとどめておいた。

 それは5分にも満たない、小さなセレモニーだった。
 けれども、とてもいとしく大切な時間だった。1年ぶりに、やっと ” シュン ” と会うことができたからだ。
 こんなにも長い間、彼と会わなかったことは付き合って以来、初めてのことだった。

 「じゃあ、シュン、またね」

 霊園駅へと戻るべく、きびすを返した。

 帰り道、流れる雲を眺めながら「もう少し、きちんとお墓についてシュンと話しておけば良かったなぁ…」なんてことを思った。
 そもそも「樹木葬」にこだわる必要もなかったし、俺がメソジストに改宗しても良かった。もっとシンプルで、もっとベターな道がきっとふたりには残されていたはずだった。それなのに…。

 何かとても大きな「約束」を決め忘れたかのような気がして、胸がぎゅっと締め付けられた。太宰を読み終えた後のようだった。

 正門まで続く永く長い一本道が、陽炎かげろうのようにゆらゆらと揺れていた。


 霊園の門まであとほんの少し、といったところで、突然、空気のかたまりのようなものが、サササッと、足下をすばやく駆け抜けていった。

 俺の視線の先にあったものは、一匹の「猫」だった。 

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