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「生きる意味」、資本主義社会とカルト

安倍が撃たれた。国内外に大きな震撼をもたらした。元首相経験者が日中堂々と暗殺されたのもそうだが、何より犯人の動機が政治心情などによるものではなく、それとは全然関係のないカルトとの関わりによるものだった。

安倍は韓国のカルト世界平和統一家族連合(元統一教会)と長年の間癒着関係にあったことはもう周知の事実だろう。戦後岸の時代からそれは続いていた。そして今回、それを理由に犯人は安倍を暗殺した。ここでは別にカルトや宗教と政治との関係性について論じたい訳ではない。自分が考えたのは、それ以前の、より本質的な問題である。すなわち、なぜカルト集団という一見非合理的で、馬鹿げた集団に人々は惹きつけられ、魅了され、貢ぎ、それによって崩壊してしまうのかである。

このニュースを見た時、多くの人はこう思っただろう。「何故容疑者の母はこんな馬鹿げたカルトに入信して、自分の家族を破壊してまでお金を貢いでしまったのか。サタン?教祖がアダムの生まれ変わり?世界平和統一?そんな馬鹿げたことを今の現代社会で信じる人がいるのか?」カルトは様々な形で日本社会を震撼させてきた。その端的な例が、オウム真理教が起こした数々の事件とその影響だろう。オウムは多くの優秀な若者を動員した。幹部候補や信者には名だたるトップ大学の学生が多く在籍していた。そして今回の安倍暗殺事件。日本の社会はカルトに振り回されてきた。

カルトと宗教の大きな違いはどこにあるのか。ある世界観を提示し、それに基づいた価値規範や信条に信者が従うという意味では同じである。しかし、一番大きな違いが勧誘行動にある。勧誘や入信時点で、カルトは決して自分達の本当の活動や目的を明確化しない。そして離脱する自由も限られている。まるでマルチ商法や詐欺同等である。それと往々にして、カルトは中央集権的であり、教祖やそれと同等の存在が権威として崇められる。

一見不合理でナンセンスなカルト集団に、なぜ人々は入信するのか。そのような状況を作り出したのは、今の社会であると自分は思う。馬鹿げたカルトに対して、家族が崩壊するまで大金を貢ぎ、どう考えてもアホらしい価値に従い生きること。一般的に見れば不合理であるが、そのには明確な合理性が存在している。信者がカルトを信奉し、入信するのは二つの合理的があると思われる。ひとつが、何かを信じることによって自分の人生に「意味」を見出すことである。

人生に意味を見出すとはどういうことか。それはすなわち、自分の人生が生きるに値するものであるという知ることである。具体的には、生きてたいと思わせてくれる生への渇望、生きていられると思わせてくれる生への導き、生きなくてはと思わせてくれる使命。それらを求めて人々はカルトに入信するのではないだろうか。

死は人にとっては最大の不幸であり、最大の苦痛であるように思われてきた。多くの学問は「死」を克服しようとあの手この手でここまできた。「死」人間に対する最大苦痛。この主張はすぐさま大きな矛盾にぶつかる。自殺や自害は苦痛からの解放としての手段であり、ここにおいて「死」は最大苦痛ではなく、むしろそれを上回る苦痛からの解放手段として存在する。「死んで楽になりたい」。「死」の後に「楽」がある。だが「死」を乗り越えなくては、「楽」は来ない。自殺者にとって「死」に伴う苦痛を乗り越てまでその「楽」を追求するだけ今生きていることが苦痛なのである。

では、狂信者はどうだろう。例えば、ベネディクト・アンダーソンがいうように、ナショナリズムを前にして時に人々はその命さえ国に捧げる。「国を守る為であれば命も捨てる」、「死んでも家族を守る」などという言説は古今東西様々な史実や物語で見かける。ここにおいて、死はあまりにも苦痛の伴わないものとして語られる。彼らは、自分がこの命を捨ててまで成し遂げることができる何かがあることを信じている。生を捨てるだけの意義がある。

「死」時によって、最大苦痛ではなくなる。自殺の例においては「生」がそれを上回る苦痛を有する、または「生」が意味ないものとなった時。狂信者の例においては、「生」を終わらせても良いほどの意義がある時。この両者に共通するしているのは、「生きる意味」なのだろう。自殺者が「死」を選ぶのは、「生」の継続に意義を見出せなくなってしまったから。他方、狂信者が「死」を選ぶのは、そこで死んでいいほどの意味が「生」に付与されたから。

死の苦痛は、「生」の意味によって変化する。道半ばでの死はもちろん苦痛以外の何物でもあり得ない。しかし他方、100歳まで生きれば別に死んでもいいだろうと思う人だっている。前者は、生きていたい、生きなくてはならない、生きていられるという思いがあるのに突然ピリオドが打たれた時。後者は、生きていたいや生きなくてはならないという動機が薄れ(多くの家族や友人が他界、やりたいことも大体やれたなど色々な理由があると思うが)、生きていられるという思いも消えてきた(身体の老化により介護無しには生きられないなどによる物理的困難)時。

人間にっとて最大の苦痛は死ではない。最大の苦痛は生きる意味を無くすことである。「生きていたい」、「生きなくてはならない」、「生きていられる」と思えなくなった時点で、「生」が「死」の苦痛を上回る。

恵まれた人は、生きる意味を様々な形で実感する。「生きていたい」のは、この世界に必要とされていると感じ、友達や家族などからなるコミュニティーに確固たる居場所を手にしていて、何らかの欲を持てているからである。「生きなくてはならない」のは、親からの期待や、自分の存在を大事だと思ってくれる人がいる、自分が支えなければならない何かがあるなど、自分がいなくてはならないと確信できるからである。「生きていられる」のは、医療や健康な食事に日々ありつけて、経済的にも恵まれた安心で安定な暮らしができていて、明日の自分が生きていることを想像できるからである。

生きる意味を実感できない人も沢山いる。カルトは、そのような人達に、偽りな生きる意味与える。カルトが提示する何らかの神話や価値観、そして他の信者との繋がりが作り出すコミュニティーがその人に「生きたい」と感じさせる。献金ノルマなどは皮肉にも、自分が必要とされているという「生きなくてはならない」という意味を与える(もちろん、信者コミュニティーや世界観も同等に「生きなくてはならない」意味を与えてくれる)。そして、教祖の教えがあるから、コミュニティーに属せているからなどを理由に「生きていられる」と信者は思う。

こう見れば、カルトに入信することは決して非合理的なことではない。信者になってしまった人々は、極限までその「生きる意味」を見出ない苦痛の中、カルト団体に狙われ、搾取の対象と化す。

カルトを無くせば全ては良くなるのか。それに関して自分は懐疑的である。なぜならそこに存在する本質的な問題を解決できていないからだ。仮に、カルトをこの人達から取り上げたところで、彼ら・彼女らはまた「生きる意味」を見失うだけである。それを補うのは、カルトに類似した何か別のものである。気づかなくてはならないのは、「生きる意味」を奪ったのは、実はこの社会であるということであり、それが変わらない限り問題は消滅しない。

資本主義社会と個人主義が極まった現代日本社会は「生きる意味」を見出すという意味では非常に困難な社会である。資本主義と人間疎外の問題はマルクスやその後の様々な思想家が取り組んできた問題でもある。資本主義は、個々の人々を均質で画一的な労働者に還元し、人々は取り替え可能な歯車、機械の部品と化す。

「俺がやっている仕事なんで、誰にだってとって変われる」これは誰もが一度は思ったことだろう。労働者は記号、数字や役職で管理され、官僚化とマニュアル化された巨大組織の中で共同作業に従事する。そのような現代社会において、独自性や主体性はもはや一部のエリート的特権の一部となってしまった。長時間労働により、人々は人生の大半を無機質な仕事によって支配され、その結果「生きる意味」を見失ってしまう。気づけば、何の為に仕事をしているのか、なぜ仕事をしているのかもわからなくなるままに、ただひたすら仕事と家の行き来を毎日続ける。

それ以外にも、都市における生産手段の集結とそれを求めた集まった多種多様な人々。そう、都市の多様性。その本質は、バラバラな個々人が集結する「巨大工場」である。彼ら・彼女らは異なるバックグラウンドを持ちながら、「個人」としてこの広大な工場に暮らす。何が言いたいかというと、無機質で人工的な都市にはコミュニティーが少ない。いい意味でも、悪い意味でも、隣人や地域とのつながりが無く、人々は孤立した状態で日々生活する。ここでいう「繋がり」というのは、ただ単純にお互いを知っているや助け合うなどだけではない。より広い意味では、人間と人間という関係という意味での繋がりである。

例えば、我々が「すき家」に行った場合、私は「客」として入店し、店員は「従業員」として私にサービスを提供する。ここでの「客」、「従業員」としての記号化は、私と店員との間における人間としての繋がりの構築を阻む。私は客として、店員は店員・従業員として振る舞い、その立場を演じる。

昔、ピタゴラスイッチで「僕のお父さん」という歌があった。「会社に行くと会社員、仕事をする時課長さん、食堂入るとお客さん、歯医者に行くと患者さん」そうやって、私たちは日々この広大な資本主義システムの中で、何らかの役割を演じ、その役割に応じて、そこに共存する別の役割を持つ人と異なる関わり方をする。

もちろん「役割」から人は逃げることはできない。公の場に限らず、私的な場においても、人は常に何らかの役割を演じている。唯一人がありのままの人としていられるのは、自分しか居ない時だけである。「役割」自体が問題なのではない。ここで問題視しているのは、我々が「役割」という付与された記号に従属してしまう現代資本主義社会のあり方である。「役割」に対する従属よって、我々は社会に生きる上での極端なほど孤独になる。かろうじて、家族や友達などは私たちがこの社会で持てる数少ない人間的関係性なのかもしれない。

しかし、それがなくなってしまったらどうだろう。そこにあるのは孤独だけである。社会的動物である人間に襲いかかる孤独は、「生きる意味」の喪失を導く。孤独死、一人暮らしの自殺。結局この人達は、社会の中で多くの人と共存していながら、人間的関係性を築くことができなかった。社会に繋がれていながら、孤独であるというこのグロテスクな状態。これもまた、資本主義社会における人間疎外の結果である。

一見物質的に恵まれた私たちが暮らす日本。逆説的にも感じられるが、この社会では「生きる意味」はかつて無いほど希少な存在になっている。失われた30年、停滞する社会と希望の見えない未来。閉塞感を感じる日々。

そこを狙ってカルトは跋扈する。


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