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「絶対」

つい使ってしまうこの言葉

皆さんはどう捉えるだろうか?


私は日常会話や知人との他愛もない会話では、冗談混じりに使う事もある。

ただ一つ、使わない様に心掛けている場面がある。それは、

「他人の決断」


これである。
ここで言う決断とは、ビッグマックとエビフィレオどっちにしようかな〜明日パンツとスカートどっちを履こうかなレベルではなく、人生の岐路となりうる様な決断を指している。


簡単な話しだが、一言で言うと

「責任取れるの?」



この言葉に凝縮されている。

人によっては、相手の為を想って「絶対に」と強い気持ちを乗せて伝える。

しかしながら、その「絶対の基準」は誰の物差しなのかがポイントだ。

いくら論理的に絶対を証明しても、相手が何を目標目的にして選ぼうとしているのかを度返ししていたり、自分の価値観だけで絶対を振りかざすのであれば、それはもはや「命令/指示」ではないだろうか?


一つの体験談から参考例を挙げたいと思う。


〜参考例〜


会社の後輩が、デザインの専門学校に通い勉強がしたい!と退職を検討していた。

本人はすでに意思が固まっているようだったので、私はそのアグレッシブな選択が素晴らしいと感じていた。

しかしある日、エリアの責任者からその後輩宛に電話があり、働きながら独学で学ぶ方法もあるから絶対そっちの方がいいのよ。
学校の入学金やら学費やら200万円近く払うのであれば、自己投資で勉強する方がいいんじゃない?的な、半ば説得の様な話しがあった。

しかし、この上司は自分の部下の人生の決断を変えたり遮る権利はあるのだろうか?
彼の絶対は、後輩の絶対ではない可能性もあり、現にそうでした。
そして、人材不足の中数年働いているメンバーを失いたくない、何とか残ってくれないか。という気持ちがハッキリと見て取れました。

なぜその人がそれを選んだのか。
その理由や背景を知らずに、自身の絶対を押し付けるのはあまりにも暴力的ではないだろうか?


この参考例の様に、

知らず知らずのうちに相手を想うベクトルから
自分の考える結論へと引き込むベクトル

これに変化してしまっているのだと感じます。

「自分に都合の良い相手の決断」



コレを押し付けてしまった場合、その本人はうまくいかなかった責任を、誰かに転嫁しやすくなってしまう事がある。

嫌な仕事を指示されたり強制的にやらされ、失敗した時こう感じないだろうか?


「やっぱダメだったじゃん」


コレが自分自身で決断しているといないとでは天と地の差なのだ。

自分で決断した場合、他の誰でもない「自分」の責任は100%。

しかし、誰かの決断に従った場合、その責任の割合はどうだろうか?
明確に線引きできるのだろうか?


悪かったのは相手の考え?
相手に従った自分?
最後に決断した自分?

結果答えは出ず、表立っては自分の責任とは言うものの、心の中では「マジであいつの言う事信じなければ良かった。。」
この感情は、中々拭いきれないものだ。


これまでを見ても感じるのではないだろうか?
側からみると、どうしようと悩んでいる人に熱心になって「絶対こうした方がいいよ!」と伝える方が思いやっている様に感じる。

しかし、よく考えればこれ程無責任な発言はないのでは?と言うぐらい無責任ではないだろうか?

「絶対」を言った後、相手の人生がどうなるかなんて、ほぼ大抵の絶対と言ったその人には直接的に関係がないのだ。

仮に、その絶対に従い上手くいかず、その人に、「絶対って言ったのにダメだったじゃん!」こう言ってその責任を取ってくれる人がどれだけいるのだろうか?

それ程、相手の人生のベクトルを定めると言うことには「責任」がついて回る事が多い。


最後にその後輩には一意見としてこう伝えました。

「大きな決断をする時に、絶対〇〇と言われたら、俺も含めてその発言を一度疑った方が良いよ。一度その意見を受け入れて、後で元々の自分の考えや他の意見と比較してもいいんじゃない?」


私自身も含めて、改めて考えてみる機会が必要かもしれない。

その「絶対」は誰の未来を想っての「絶対」なのか?


Hajime


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