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差別の渋滞

夕方の、東京の都心。
僕は混雑のピークを迎えた骨董通りを運転していた。


なかなか景色が変わってくれない窓の外を眺めながら、
何故かは分からないがふと、



数年前に呟かれた"松本人志さん"のツイートを思い出した。




『あ、差別してる人を差別してしまった!』


というような内容だったと思う。





僕自身もそういう意味で誰かを差別してるかもしれないと、その時も思った。



差別とは違うかもしれないが、
コロナ禍で負の感情が増えたように感じる。



そんなことを思いながら、
この酷い渋滞をどうやって抜けようか悩んだ。




緊急事態宣言が発表された後も、
営業を継続する店、マスクをしない人、大勢で集まる人たちがいた。


それに腹を立て直接嫌がらせをしたり、
ネット上で誹謗中傷したり、
晒したりする人間が現れた。


そして今度は、そんな連中を"自粛警察"だと命名し、
同様に誹謗中傷したり晒したりする人間が現れた。
メディアも然り。




差別は、
差別を生み出す。




結局のところ差別は連鎖するのではないか?





そんな疑問を抱きながら、

この渋滞はあとどのくらい続くんだろうか?
ハンドルを指でトントンさせた。






そもそも差別ってなんだっけ?

そんなことに立ち返る。


と、同時にさっきの角で曲がっとけば良かったと後悔した。





辞書っぽいことを言えば、
差別とは属性によって除外・拒否することだ。




僕は考えた。



あからさまに相手を悪と認定し、
激しく嫌悪することも差別だと。



僕はとにかくウィンカー出さないまま車線変更してくる奴を許さない。
奴らは悪だと思う。



だから、
差別を差別するとは、
差別するような人たちを悪として、
絶対に認めないということだ。



僕はこうも思う。
差別を差別した者が必ずしも正しい者に成り得ない、なんなら悪にすら成り得る。


なぜなら差別は自分が絶対的に正しいという思いの延長にあるからだ。



そう言えば自動車学校でも習った。
自分の運転に自信がある人こそ、
荒ぶった運転をすると。



必然的に差別には必ず差別が生まれる。
だって人は正しさを押し付けてしまうからだ。


だとしたら差別の連鎖とは、
度重なる自分勝手な正しいの押し付け合いだ。



でも、
そんな自己中心的考えを繰り返し主張し合う中で、
きっとその先に新しい正しさが生まれるんだと思う。



そして、
次の角を曲がって迂回しようと決めた。



差別は良くない。
それは確かにそうだ。


ただ、
長い歴史の中で多くの差別の連鎖によって、
淘汰されたり受け入れられたりしながら、
きっと前より良い正しさが生まれるはず。


それをイデオロギーと呼ぶんではないだろうか?


それにしても対向車線も酷い渋滞だ。
なかなか右折させてくれない。
どうしたもんか。



差別は連鎖する。
その連鎖の果てに、
ちょっとはマシな正しさがあれば少しは救われた気がしないでもない。
その正しさが善であるかはわからなくても。


少なくとも、
右折しようとする僕に道を譲ってくれた、
さっきの対向車は善だ。



そんなどこで役に立つかもわからない一つの答えを導き出した所で、
ようやく渋滞を抜けた。


少し話を大きくしてしまったかもしれないが、

松本さんのツイートの意味を考えると、


この多様性を認め合おうっていう世の中で、
"多様なんて許せない"という偏った思想を、
"絶対に許さない"という思想ですら、
多様性を踏み躙ってしまったのではないか?
という自己嫌悪的ジョークなんだと思う。


その冷静な自己嫌悪こそ多様性を認め合う社会に必要なのかもしれない。


一言で自虐的に発した松本さんのつぶやきを今になって深読みしていたところに、

右折しようとする対向車が現れた。



さっき僕に右折を優先してくれたドライバーを思い出したものだから、

僕も目の前の車に道を譲ってみた。



ああ、そうか。




こんな連鎖もあった。

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