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えらびとること

幡野広志さんの「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」という本を読んだ。(リンク先はこの本を発売するにあたっての幡野さん本人のnote)せっかくなので、感想文を書こうと思う。

はじめに

ほぼ日にゆかりのある方々が編集に携わっていること、そもそも幡野さん本人をフォローしていたことから、発売されたら買うと決めて狙って本屋さんに行った。買った足でカフェに行って(念願のアール座読書館デビューになった)、はっとさせられて思わず付箋を貼った。初っ端からもうしんどくなって、本を閉じてしまって、それは途中何度もあったけれど、どうしても私は全部読み切らなきゃという気持ちに押された。これは乗り越えなきゃいけない、知らなきゃいけない、ちゃんと頭に入れなきゃいけない。そうやって読み進めて、じわじわと自分の中で「そうだったんだ」「そうかもしれない」という発見が広がった。読み切って、一日が経った今日、感想文を書いて改めて整理するに至る。

家族について

※「」内の文章は本からの引用です。

この本の大きなテーマの一つが家族についてだ。
家族について、この本では「選べるもの」と述べられている。生まれてくる家庭を私たちは選べないものだと思っていたが、「家族とは『親子』の単位ではじまるものではなく、『夫婦』の単位からはじまるもの」らしい。
これは、文中でも紹介されているNASAの定義による話で語られていることなのだけれど、そういう文脈からこの本では「家族は与えられるものではなく、選べるものだ」と終始述べられている。
そのうえで、彼は「『直系家族』(注:配偶者・子ども・子どもの配偶者)としてはじまる親子の関係は、どこかで『拡大家族』に落ち着くべき」だと伝える。

これは、兄の結婚で理解できた。ああ、お兄ちゃんは自分の直系家族を持ったんだな、私たちは拡大家族になったな、となんとなく思うのだ。寂しいとか疎外感とかそういうのではなくて、関係性が変わったというかグルーピングが変わったというか、とにかく私たちの間には新たな線引きができた。たとえるなら、同じ野球チームだったピッチャーの友達に「俺バッテリー組んだわ」って言われたような。(笑?)自分はセカンドで、同じチームにはいて、同じナインのメンバーなんだけど、今までの間柄や優先度とは違うなにかが生まれたという認識。それはだから何か起こるとか何かできないとかではなくて事実としてただ”あること”なのだ。
また、この関係性について、私の父はわりとはっきりしていたなあと思う。自分の血のつながり(親子・兄弟・親戚)と自分の築いたつながり(夫婦と子ども)の線引きがはっきりしていた。自分の直系家族というのが明確にあった。もしかしたら父もなにかで読んだのかもしれない。そういうところも、この本の考えが受け入れやすかった一つの要因かもしれない。幡野さんと父は共通点がいくつかあって、だからこそ私はこの本を読んだ。

自分の人生を生きることについて

別の章では人間の命について「株式のようなもの」という表現が出てくる。たくさんの人が自分に投資をしてくれていて自分はなんらかの配当をだしたい(恩返ししたい)と思っている。でも、株式の過半数を持つのはあくまでも自分であるべきで、「自立とは、『自分の筆頭株主になること』」らしい。そして、一貫して自分の人生なのだから自分で選んで生きていけというメッセージが述べられる。

「優先順位を間違えてはいけない」
「自分が『子どものころ欲しかった大人』になるしかない」
「生きるとは『ありたい自分をえらぶこと』だ」

こう並べると自己啓発本のワンフレーズみたいに見えるかもしれないけれど、どれも本当はもっと重い文脈で書かれていて、この本は最後に安楽死について語られる。幡野さんは、治らないがんを宣告されている方だ。幼い子どももいる。そういう背景をもって、彼は「死を考えることの先にあったのは、生を考えることだった。」と述べている。そしてその一つの答えとして「人生に後悔がないと言えるのは、すべて自分で選んできたからだ」と彼はいう。だからこそ、この本を書いて自分の考えを伝えることにした。

人生は選択の連続である。とはよく耳にする言葉だろう。
でも私はこの本を読んで、この言葉の持つニュアンスが変わった。
一つ一つの選択を自分で決めたかどうかによって、「自分の」人生になるかどうかは決まっていく。毎秒ごとにカウントされるその膨大な母数のうちに、一体いくつ自分で決めたことがあるのか。そして、より大きな比率を占める大きな選択のときに筆頭株主としての自分の選択が問われるのだ。
今の私はどれくらいだろうか。まだ、筆頭株主と名乗れるほど自分のことを自分で責任をとれる器ではないのだろうか。
でもどうやら就活を通して”自分の人生は自分しか生きられないし、そして自分で最後まで責任をとらなければならないらしい”ということには気づかされた。そしてそれがどんなに重いかということも。
そして、少しずつではあるけれど、私という人間(組織)を構成する株主の比率は変わりつつある。いま私は空白になっていた筆頭株主部分を自分で買い占めようとしている。

周りの人との関係性について

さっきの続きになるが、これは何も人の意見を聞かないとか、自己中になることがいいという話ではなくて、同時に”責任を負う覚悟を持て”とナイフを突きつけられている怖さをはらんでいる。
だから私はその覚悟というナイフを握り返せるかが不安だし、周りが心配しているのもそういうところだと思う。
さらに急いで自分でやらなきゃと思っている今の私は、バランスが正直不安定だ。「自分でやる」と押し切って話を聞こうとしないかとすれば、「どうしたらいいかわからない」と全部聞いたことを受け入れようとする。そして、誰の話を聞いて誰の提案を取り入れた選択をするのか、正直周りから見たらハラハラするような筆頭株主だと思う。(と自己分析してみる。)

バランスを保つのは本当に難しくて、ぶつかるし、うまくいかないことの方が多い。迷惑をかけているのは承知なのだけれど、場数を踏むしかない。全然違う文脈で出てくる言葉だけれど本の中の「(何かをやるときの)技術が上がるっていうのは、ただ『失敗の回数が減る』というだけのこと」というのはこの本の中でも特に印象に残ったフレーズだ。

本の中ではこうも言う。「ほんとうの強さとは、愛する誰かに対して『助けて』と声をあげられることを指すのかもしれない」。そして自分はそれができない弱い人間だった、とも。
多くの人は弱いから、肝心な時に限って助けてという言葉が言えないものだ。抱えこんでしまったり、傷つけてしまったり、当たってしまったり、どうして素直に「助けて」が言えなくなってしまうんだろう。
自分に対しても、自分の周りの人に対しても、助けてが言える強さを少しでもいいからもてればいいのにと思った。
それは迷惑でも弱さでもなくて、強さなんだ。

最後に

3つの視点からこの本の感想を書いてみた。病気のこととか、死に近いことは触れずあくまでも「生き方」についてだけフォーカスをした。この本は幡野さんの「どこから来て、今何をして、どこを目指すのか」という軸がまっすぐに語られた本だ。そしてその軸は一貫して「選択」によりつくられている。というか選択するしか私たちはできないんだと思う。無限に広がっているように見える人生において、私たちは常に一つしか体がなくて一つしか行動はできないのだ。ポケモンならわかりやすく「たたかう、にげる、どうぐ、こうたい」の4つからえらぶ。

だからこそ、私は自分の言葉で自分の考えを書くことで、少しでも自分の行動に自分はどういう意図があったのか、整理する。
よりシンプルに、より大胆に。そうやって自分の人生をより「生きやすく」するための選択をとっていく。とっていこう。

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