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「メディアリテラシー」は「マスコミを信じない」ではない

きっかけ

 先日のこと。Twitterのトレンドで「小野田議員」というのがあった。開いてみてみると、自民党所属の参議院議員の小野田紀美さんが、NHKに対する持論を述べている姿が話題になっていた。12月17日における参院予算委員会で、NHKの姿勢に疑義を呈し、放送のスクランブル化を求めている様子に、多くのTwitterユーザーが賛同の声を上げていた。

 私自身は、小野田さんの意見に賛成も反対もない。近年のNHKの姿勢には確かに疑問を覚える部分もあるが、質の高いコンテンツを恒常的に供給できるメディアでもあると捉えている。

 気になったのは、その発言の中の一幕である。

「テレビを見ている方たちも、『テレビが言っているから本当だ』って思いこまない方がいいですよ。自分でいただいた情報は、ネットとかでも調べて、『本当かな?』っていう、疑いの眼をもってテレビを見ていくってことも、これからの情報リテラシーのところで大事だと思います」

 私はテレビを普段見ないので、彼女の発言の全部を見たわけではないが、これがNHKへの疑義を唱える一部分だというのは推測できる。要は「NHK含めテレビなどのマスコミ(マスメディア)の言うことを鵜吞みにしてはいけない」「メディアリテラシーを高めましょう」ということだ。

 うん、最もなことだ。どこにも問題はない。むしろなんて正しいんだ!と一見思えるし、実際この発言に間違いは全くないと私自身も考える。

 しかしこの一連の発言こそが、日本のメディアリテラシーを低下させている要因の最たるものなのでは、という懸念が私にはある。

メディアリテラシー=マスコミ不信か

 タイトルをもう一度見てもらいたい。

「メディアリテラシー」は「マスコミを信じないこと」ではない。

 ぱっと見だと、矛盾をはらんだ文章であるかのようにも見えるかもしれない。日本のメディアリテラシー教育においては、「マスコミやネットの発信を鵜呑みにするのではなく、一度自分でちゃんと考えましょう」というのが長い間伝えられてきた。これは私が義務教育を受けていたころの実体験からの体感だが、現在も大差はないだろう(近年はデジタル教育が進んでいることから、数年前よりはリテラシー教育も進んでいるかもしれない。しかし、仮にしていたとしてもかなり局所的だろう。そもそもリテラシー教育を行える教員が十分な数が教育現場では用意されていない)。

 これは誤りではない。確かにメディアリテラシーを考える上では、マスコミやネットの情報に警戒心を持つことは非常に重要で、情報を受け入れる前にちゃんとかみ砕くことが推奨される。しかし、それではメディアリテラシーは完成しない。不十分だ。

メディアリテラシーの段階

 昨今では「メディア不信」が進行している。80年代から90年代にかけてのテレビ(および新聞社)の不祥事、過熱報道(メディアスクラム)、やらせ問題から、「メディアリテラシー」やそれに類する言葉は日本でも広く認知され始めた。現代のメディア不信は、その文脈から地続きであるのは間違いない。

 この時、「マスコミの言うことは鵜呑みにしない」というリテラシーの初歩的な段階がで市民に広範に知られ、それがそのまま定着してしまっている。問題はここにある。

 タイトルの真意としては、「メディアリテラシー」は「マスコミを疑うこと」だけではない、という方が正しいだろうか。

 メディアを正しく読み書きする能力(リテラシー)には、大まかに三つの段階がある。簡単に書いていく。

 まず最初の段階が「情報を疑うこと」だ。ここに関しては「メディアリテラシー」という言葉の、まさに多くの人が認識している通りの意味だろう。メディアリテラシーと並行して語られる「批判的思考」(Critical thinking)では、額面通り、「前提を疑うこと」「批判的に情報を捉えること」を軸としている。 

 次の段階が、「他の情報源をあたる」である。これは、小野田さんが発言されたような「ネットとかでも調べて」の部分にあたる。一つの情報源に依拠するのではなく、様々なニュースソースから多面的に物事を見、考えることで、本質をつかもうというステップである。

 最後が、「これまでの段階を踏まえて、自身の意見を発信する」である。これは現代においてインターネットが高度に発達し、Twitterなどのソーシャルメディアが一般的に普及したからこその段階だ。誰もが自由にデジタル上で発言できる時代においては、リテラシー、つまり「読み書き能力」の「読み」だけでなく、「書き」の力が、我々一般市民にも求められる。

 問題は、ほとんどの人が第一段階「情報を疑うこと」で足を止めてしまっていることだ。著名人の発信や教育現場での授業が行われる中で、長らくメディアリテラシー教育は行われてきたが、そのどれもがこの第一段階までしか触れない。

 小野田さんの発言に対するTwitterユーザーのリアクションにおいても、「マスコミのニュースを信じないこと」をメディア(情報)リテラシーであると認識しているツイートが多く確認された。

 それではただの「信じない人」で終わりだ。一種の思考停止ともいえる。

 加えて、第二段階である「他の情報源をあたる」においても、勘違いしている人が多い。小野田さんは「ネットとかでも調べて」というが、一口に「ネット」といっても、ご存じのとおりインターネットの情報は玉石混交で、情報の真偽を証明する難易度は年々高まっている。当然マスコミもネットでニュースを報道しているが、他方では無責任に発信する自称ジャーナリストも存在する。フェイクニュースが社会問題化しているのは、もはや言うまでもない。

 じゃあどうすれば良いのか。解決策はあるのか。

 一つは、マスコミの情報を集めることだ。ん?おかしなことを言うな、とも思われるかもしれない。第一段階で「情報を疑え」と言っておいて、なぜ元の情報源に戻るんだと。もちろんその言葉通りの意味ではない。

 マスコミといっても様々だ。新聞社だけでも全国紙3紙(朝日読売毎日)+2社(日経産経)あって地方紙、ブロック紙もある。テレビ局も同様だ。一つのマスコミ企業の情報だけでなく、複数のマスコミの情報にあたることは、少なくとも現代社会における一般的な情報収集という面では、間違いなく最も安全だろう。

 そもそもとしてマスコミに対する強い不信感がある人もいるだろう。これを読んでいるあなたもそうかもしれない。そういった人らに共通する点として、マスコミ以外の情報源、つまりインターネットや雑誌などの情報に依拠していくわけだが、そうなると問題は変わってくる。

 インターネットは、自分で得たい情報を選べる環境が整っている。「他の情報をあたる」という段階に進めたとしても、「自分に都合のいい情報源だけに触れる」という方向に道を誤る人は一定数以上存在することは、日々ソーシャルメディアを見ていて感じる。細かい説明は省くが、「フィルターバブル」「パーソナライゼーション」「エコー・チェンバー」といった言葉は、近年フェイクニュースをめぐる議論の中で散々使われてきた。

 そうなると、第三段階の「情報発信」においても、歪んだ言論が横行してしまう。「マスコミは偏向している!」と信じて止まず「インターネットにだって真実はある!」と自分に都合の良い情報を信じた者の発信に、どれだけの信頼性と根拠があるのか。それは間違いなくメディアリテラシーではない。

マスコミはマスゴミなのか

 マスコミは偏向している。信じられない。

 そう言いたい気持ちはわかる。80年代や90年代の頃とは比較的マシになったものの、マスコミ企業の不祥事は度々起きてきた。誤報もあれば、ミスリードを誘うような報道もある。倫理的に信じられない事例もある。私自身マスコミに全幅の信頼を置いているわけではない。

 しかし一方で、他に信じられる情報源があるかといえば、「ない」と答えるほかないだろう。そもそも「真実だけを伝えるメディア」なんていうものは存在しない。仮にそんなものがあったとすれば、メディアリテラシーなどいらない。

 新聞社や通信社、テレビ局などでジャーナリストとして報道に従事する人たちは、ジャーナリズムの訓練を受けた職業人だ。彼らはいわば情報のプロフェッショナルであり、メディアリテラシーという点では高いレベルだろう。そんな彼らが高い能力を発揮したとしても、時に資本主義の荒波に身をとられるときはある。視聴率、発行部数、閲覧数。マスコミであっても、プロフェッショナルであっても、常に数字と隣り合わせで仕事をしなければいけない(唯一の公営メディアであるNHKは民放の市場原理から外れているので、ある意味ここでは当てはまらない)。間違いは起こるし、起きてきた。

 確かに、一程度政治的な方針に偏りが見られるマスコミは存在する。新聞業界では、読売・産経は保守、朝日・毎日(+東京新聞)はリベラル、という一般的な認知はおおむね間違っていない。しかしここで、どちらか一方を指して「○○は偏向している!」としていては勿体ない。「こちらではこれこれと報道している」「あちらではあれあれと報道している」多面的な視点の中で、本質をつかむための素材として、各社の報道の差異は有用である(そもそも、言論の機能を持つ新聞社がある程度党派性を帯びるのは必然だろう)。

 世の中に流通する情報のうち、ニュースと呼べるもののほとんどはマスコミの情報収集能力及び報道によるものだということを忘れてはいけない。たまに「マスコミを解体しろ!」といった過激な言説が目につくが、マスメディアの情報の収集・管理・報道の機能が失われれば、民主主義国家はあっという間に成立しなくなる。国民の知る権利は、私たちの「知りたいこと」を知るためではなく、私たちが「知らなければいけないこと」を知るためにある。その権利の保護を維持するには、ネットのメディアだけでは力不足が過ぎる。私たちの情報社会における基盤において、マスコミが支える部分はまだまだ大きい。

 マスコミを批判するな、ではない。マスコミ企業は巨大だ。テレビや新聞の持つマスメディアとしての力は、民主主義の根幹である三権に次ぐ第四の権力と揶揄されるほどだ。そんな強大な権力構造の中で、腐敗がないと断言することはできない。

ジャーナリズムの重要な機能の一つが「権力の監視」だ。巨大な権力を持ち、かつ隠蔽体質になりがちな政府が間違いを犯さぬよう監視し、市民が知るべき情報を報道する。この機能がゆえに、一部のメディアが政府に厳しい目を向けるのはある意味自然な流れではある。

 一方で、ジャーナリズムを司るマスコミも、同様に強い権力だ。権力を監視する権力、それを監視する役割は、我々市民にある。マスコミがその力を乱用しないよう目を光らせ、時に強く批判することは、ジャーナリズムのためには必要不可欠だ。マスコミ企業は、それに応える形で自身の透明性を可能な限り高めることが求められる。

さいごに

 勘違いされないよう、改めてここで明記しておくが、私は決して小野田さんの私見に反対するものではない。前述のとおり、彼女の主張に対して私は反対も賛成もない。

 ただ、むやみに「マスコミを信じてはいけない」といった言説がメディアリテラシーとして社会に認識されることについては、強い危機感がある。健全な言論は民主主義の重要な柱であり、健全な言論を支えるのは健全なメディアリテラシーだからだ。

 メディアリテラシーや情報リテラシーを発信する人は、ただやたらに不信を訴えかけるのではなく、どうすれば情報の本質に迫ることができるのか、リテラシーの本懐を丁寧に説明するべきだ。

 マスコミへの不信はメディアリテラシーではない。真の意味でのメディアリテラシーがより多くの人に認識されることを願う。


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