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掌編「しんしんと雪が降る」

 九州からはるばる、私の住む南東北の街で暮らしはじめた友人の女性から聞いた話をもとに書いてみました。
 季節はずれですが、急に暑くなったこの時期に少しでも涼を感じられたら幸いです。

 ―――――――

 雪って、しんしんと降るんだって。

 はじめてそのことを聞いたのは、彼女が幼稚園の時。大好きだったちづるせんせいからだった。

 しんしんと降る雪って、どんななんだろう。

 彼女はそれから、しんしんと降る雪が見たいと思うようになった。

 雪景色の描かれた絵本を何度も開いた。アニメの雪が降るシーンをテレビの前に正座して見つめた。夏に作ってもらったかき氷をそっと手に取ってみたりした。白い紙を小さくちぎって、公園で振りまいてみたこともあった。

 小学生になると、いろんな人にたずねてみるようになった。しんしんと降る雪って、どんななの。でも家族も友達も先生も、誰もがうーん、と首をひねるばかりだった。冬になると、ずっと窓を眺めた。もしかしたら雪が降らないかと。でも彼女の街に降ることはなかった。彼女の街は九州の西の海沿いにあった。

 中学生になってからは、自分で図書館で北海道や東北に関した本を調べてみた。本には雪が町に降っている写真もあった。でもやはり、しんしんと降る雪がどんなものなのか、それではわからなかった。

 高校三年、大学受験の時期のある日、彼女はふたつの決心をした。

 小学校の先生になろう。

 しんしんと降る雪が誰もわからないなら、自分で確かめに行こう。

 地図帳と、大学名が一覧された資料を並べ、自分の学力で進学できそうな大学を北からかたっぱしに指と目でさがしていった。北海道、青森、岩手……。やがて南東北のある街の国立大学に目と指が止まった。

 地元の大学に進学するものとばかり思っていた両親からは大反対された。でもそれを振り切り、飛行機と列車を乗り継いでその街にたどり着いた。そして驚いた。道路や屋根に、雪が残っていたのだ。駅前から大学へ向かうバスの中、彼女はその光景を夢中で見つめた。バスを降りると、すぐに道路脇に固まっていた雪に触れた。でも冬の名残りの雪は黒っぽく汚れ、手触りもただの氷だった。とてもしんしんと降った、とは思えなかった。

 幸い受験に合格し、彼女は大学の寮でひとり暮らしをはじめた。

 入学してほどなく、地元出身の友人ができた。ある日の昼休み、彼女は友人に、ずっと抱いていたあの夢を話した。冬になったら、しんしんと降る雪が見られるから楽しみ、小さな頃からずっと見たかったんだ、と。すると友人はちょっと困ったように笑った。

 このあたりじゃ、雪はしんしんとなんて降らないよ。ぞぐぞぐと降るんだよ。

 やがてやってきた冬、彼女は友人の言ったことが本当だったことを知った。ある朝寮から出ると、重い灰色の空から、箪笥の後ろにたまった綿ぼこりのようにかたまりとなった雪が降っていた。降る、というより、どっと落ちてくる、といった感じだった。手をかざすと、皮膚を切るような冷たさに身を震わせた。顔を上げると、すぐ顔が雪だらけになった。

 あたりを見渡すと、街の景色は一変していた。白という色ともいえない色で家々もビルも道路も覆いつくされていた。細い電線にも雪はまとわりつき、信号機のカバーから雪が粘液のように垂れ下がっていた。あちこちでスコップを手にした人たちが、顔をしかめながら雪はき作業におわれていた。雪が降ったことを喜んでいる人など、ひとりも見受けられなかった。むしろ嫌悪さえうかがえた。

 これが、ぞぐぞぐと、降る雪。

 彼女は、呆然と立ち尽くした。

 それから彼女の日々は、ほぼすべて講義とバイトに費やされた。冬は友人と一緒に雪はきのボランティアをした。そのたび、雪国の苦労を、雪への嫌悪が、少しずつだがわかっていった。

 四年後、がんばった甲斐あって教員免許を取得し、無事大学を卒業した。

 彼女が最初に赴任したのは、その大学の附属小学校だった。しかし小学校なのに高級なブレザーに身を包んだ生徒たちは、彼女が想像していた小学生とはどこか違っていた。妙に冷めた、刺々しい空気に包まれていた。会社の経営者や会社役員、医師、公務員、弁護士などといった、いわゆる地元の名士を親に持つ子どもたちが生徒のほとんどを占める、ということをほどなく知った。その空気に馴染むことがどうしてもできず、一年で退職を申し出た。そもそも自分は子どもたちになにかを教えられる性格ではなかった、とも気づき、別の学校で教師を続ける気力もなくなっていた。

 両親から帰ってこい、と言われ、彼女は帰郷した。

 スーパーのレジ打ちでとりあえず家にわずかなお金を入れつつ、しばらく過ごした。やがて冬になった。ある夜、部屋からぼんやり海を眺めていると、ある光景が彼女の中に浮かび上がってきた。

 あの街の冬景色。綿ぼこりのような雪。白に覆われた家々。電線にまとわりつき、信号から垂れ下がった雪。雪はきにいそしむ人々。

 帰りたい、と彼女は思った。

 彼女はもう帰ってくるな、と言い捨てた父親と涙ぐむ母親を背に、再びあの街へ向かった。文字通り、片手にわずかなお金を握りしめての再出発だった。

 帰ってきた時、もう街は雪景色だった。

 家賃の安さだけが取り柄の築半世紀のアパートに住みはじめた。工務店の事務員、建設現場の経理、カフェの店員、食品会社でのハムのパック詰め……。なにか手に職を、と整体師の免許を取り、小さな店を開いたこともあったが、体がきつく、長続きしなかった。職場を転々とし続けたので、親しい友人知人もなかなかできなかった。

 いくつもの冬を過ごした。ぞぐぞぐと雪が降った朝は、はあ、とため息が出た。雪はき中、おなじアパートのおばちゃんたちが「もう雪はやんだずねえ」「んだねえ」と話し合っていた。「んだねえ」彼女もそう話しかけたかったが、できなかった。すでに言葉はこの街の訛りになっていた。でもその言葉をかけられる人ができなかった。

 気がつくと、三十も半ばを過ぎていた。

 しんしんと降る雪のことも、いつしか忘れていた。

 三年ほど勤めていた印刷会社が倒産し、彼女は次の仕事をさがした。その印刷会社で学んだ編集やレイアウトの技術が思いがけず自分に合っていると感じ、次の就職先も印刷業を選んだ。と同時に、ここでいい職場がみつからなかったら、もう……という思いもつのっていた。

 紹介されたのは、ある社会福祉法人が運営する、印刷部門だった。

 そこに入社し、驚いた。そこでは彼女のような健常者と、体や心にハンディキャップを負った障がい者が、おなじ職場で入り混じって働いていた。彼女が配属されたプリプレス部のリーダーも、下半身完全まひで車いすを使用しているベテランの男性だった。

 仕事は厳しく、忙しくもあったが、同時に今までの職場にはないやりがいを感じた。繁忙期は遅くまで残業もあったが、やはり障がい者も健常者も関係なく仕事に励んだ。そのなかに自分がいるのが、彼女はなんとなく嬉しかった。親しく話せる同僚も増えた。障がい者健常者関係なく。

 入社してはじめての初冬、彼女は同僚の女性ふたりとご飯を食べに出かけた。ひとりはおなじプリプレス部の車いすの女性、もうひとりは製本部の、やや会話の困難さが伴う難聴の女性だった。ふたりとも彼女より年下だったが、入社当時から彼女をなにかと気にかけてくれていた。

 おいしいパスタを食べながら、仕事のことや同僚の噂話で盛り上がった。この街の訛りが笑い声と共に飛び交った。

 食事を終え、店を出た。もう何度も経験している、肌を刺す冷気が伝わり、身を縮めた。

 その時、車いすの同僚の女性が言った。

 雪がしんしんと降ってきたね。

 彼女は、え、と驚き、車いすの同僚を振り返った。ほら、と上を指差され、彼女は顔を上げた。

 しんしんと、雪が降っていた。

 街の灯りにかすかに照らされた夜空から、涙よりも小さな雪が、静かに降ってきていた。音もなく、ゆっくりと、やがて地面にそっと降り下りた。少しずつアスファルトが白くやわらかい綿に包まれつつあった。

 これが、しんしんと、降る雪。

 何度も冬を越した。いろんな雪を見ていたはずだ。綿ぼこり、粉、粒、氷……。きっとこういう雪も見ていたはずだ。でも、気づかなかった。わからなかった。見ていたのに、見えていなかったのだ。

 ずっと、こさいでいいがらな。

 この街に、そんな言葉をかけられた気がした。

 もう帰ろうよ。ふたりからせかされた。でも彼女は夜空を見上げ、しんしんと降る雪を、白い息と共に、いつまでも見つめ続けていた。

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