30の扉、40の扉、50の扉

20の扉を開いた時、どんなことを思い、感じたのか、忘れた。
多分、その程度だったのだろう。
勿論、随分昔のことになるから単に忘れただけかもしれない。

30の扉を開いた時、これが現実なのだ、と思った。嘘や言い訳、誤魔化しは効かない。
モラトリアムはもう終わったんだ、と思った。まだまだ子供だった。

40の扉を開いた時、不惑という文字が浮かんだ。
惑わず進んでいかなければ、と思った。
惑いだらけ、迷いだらけの中で。
責任の取り方、というのを学んだ。

50の扉を開いた時、やっと、と思った。
仕事は順調、家庭は円満。
本当の贅沢ということも知った。
大切なものとは何かを知った。
そして、自分に欠けているものは何かを知った。

欠けているもの。
それは、人それぞれだが、僕の場合は、愛だった。
愛というと広すぎるから、もう少し具体的に言えば、純愛と性愛の二つが欠けていると思った。

思うことがある。
早くにしてその域に到達する人もいるだろう。
僕の場合は、50だった。

これからが人生の真骨頂、味わいの季節。

折り返しなのだから。

人は皆、それぞれの立ち位置立場で必死に精一杯、一生懸命生きている。

けれど、違うのだ。

見る物聞く物感じる物が。

それが、扉を開くということなのだろう。

60の扉。

開ければ、の話だが、楽しみにしている。


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