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【短編小説】とび中

うちの課には、よく仕事を休むおじさんの職員がいる。
立花さんという。休むといっても、風邪で一日とか、インフルエンザで一週間とか、そんなレベルではない。毎回、大ケガによる療養のため、一か月近く。そんなことを、ここ一年の間に四回は繰り返している。私はその担当ではないので直接は見ていないが、診断書もきちんと提出されているそうだ。

正直、気になる。しかしデリケートな問題であるため、面と向かっては聞けない。
他の職員たちも、誰も本当のところは知らないし、聞かない。
ただ、立花さんは去年、お酒で失敗したり奥さんと離婚したり、いろいろとあったらしい。だから、なんとなくそこら辺の事情と絡めて「そっとしておきましょう」というのが、今のところ暗黙の了解になっている。

しかしそうだとしても、病気やノイローゼではなくケガというのは、ちょっと腑に落ちない。しかも最近の立花さんは、去年のゴタゴタなど何もなかったみたいに、ちょっとうるさいくらい陽気だ。問題の大ケガの件を除けば、体調や気分が悪そうなこともない。

ある日、仕事を終え庁舎を出ようとして、課長と立花さんとが連れだっているのに出会った。
「これから飲みにいくねん。辻崎さんもどう?」
課長と立花さんとは同期らしい。課長はともかく、係の違う立花さんと一緒になるのは初めてだ。
本当なら遠慮すべきところだったかもしれないが、私はお供させてもらうことにした。このところ少し、心細くなっていたのだ。

その理由と言うのは、同僚とのトラブルである。
私はあるときから突然、同僚の一人に、有り体に言えば嫌われてしまった。彼女は言葉にする以外の様々な方法で、日々、私を否定し、嫌悪する態度をとり続ける。他のメンバーとは機嫌よく、親しく付き合っているようなので、原因は私にあるのだろう。彼女の気持ちはもう、嫌というほど伝わっている。しかし、明確な理由がわからないため対処のしようがなく、私はただ、目立たないよう小さくなることしかできなかった。
彼女や他の同僚たちのお喋りを遠く聞きながら、私は自分が、ここにいてはならない異物のように感じていた。

もちろん、その話を課長や立花さんにするつもりはない。ただ、普通に話せる人がまだ課内にいるということを、再確認したかったのだ。

私たちは、庁舎から駅の間にある半個室の居酒屋に入った。
立花さんは「お酒で失敗」という噂を裏付けるように、一人ハイペースでガンガン飲んで、あっという間につぶれた。まだ顔色も変わらない課長の隣で、立花さんの顔は、不健康な赤茶色に染まっている。そしてその顔を少し俯け、両手両足をだらりと投げ出して、壁によりかかった。恰幅がいいので、そうしていると戦場で力尽きたロボット兵士みたいだ。眠ってしまったのか、ぴくりとも動かない。

しかし課長が、「ごめん。ちょっと電話」そう言って席を外したとき。
「なあ、辻崎さん」
急に呼びかけられ、私はどきりとする。
「辻崎さん、最近元気ないよなあ」
立花さんは、さっきまでと同じ姿勢で顔を俯けたまま、目だけで私を見上げた。白目が充血し、黄色く濁っている。
「ええこと教えたろか」
「なんですか」
「俺、悪魔に会うてん」
「はあ」
話の意図がわからず、気の抜けた返事になる。
すると立花さんは何が面白いのか、ケラケラと笑い出した。
「信じてへん! 信じてへんな!」
笑う振動で、残骸のようだった体が、ほんの少し揺れる。
困惑する私に向かって、立花さんは言った。
「辻崎さん、そういうとこやで」
その言葉は私に刺さった。同僚とのトラブルのことを、暗に言われた気がした。
「……どんな悪魔ですか」
私は自分の「そういうとこ」を否定したくて、立花さんの話題に乗った。
立花さんは、同じ姿勢のまま口だけを流暢にするすると動かし、そのときの様子を語った。まるで口がスピーカーになっていて、あらかじめ録音された言葉を流しているように見えた。

正確には、立花さんが見たのは悪魔の影だけだそうだ。
一年ほど前、自宅でお酒を飲んでいたところ、目の前の壁で突然、大きな悪魔の影が立ち上がったのだと言う。
「そいつはでかいから、首が壁と天井との境目でかくんと折れ曲がって、顔の部分だけ、天井にはみ出してた。あれは絶対、俺を見下ろしてた」
立花さん自身、大柄な方である。お酒も入っていたし、ふとした拍子に自分の影が、そう見えたのかもしれない。
「俺そんときヤケクソやったから。あと酔ってたし。だからその影に向かって言うてん。殺るなら殺れ! むしろ殺してくれ! って。勢いもあるけどな、俺、そんときはほんまに、もう死んでもええと思てた」
立花さんにまつわる諸々の噂が、私の頭をよぎった。
「そしたらそいつは、一回だけ、ゆらぁってライターの火みたいに揺れて、そのまま消えよった。――まだ終わりとちゃうで」
立花さんは血走った目を細めた。よく動く表情と、壊れたロボットみたいに動かない体。顔だけが別の生き物みたいだ。

「次の日、コンビニ行こうと思って、マンションの外ぶらぶら歩いとったら。うちの近所、大きな公園があるねんけど、その向かいのビルの上に昨日の悪魔がおった。昼間、明るい所で見ても、やっぱり影だけやったわ。そいつがビルの上から俺を見下ろしてて、俺が気づいた瞬間、そこから飛び降りた。体はでかいくせに、なんかこう、ひらひら、みたいな落ち方やったわ。ぜんぜん似合わんし、おかしいけど、何かの花びらみたいやった」
私は、明るい陽射しの中、黒い大きな影がひらひら、と舞い落ちる様を想像してみた。
「俺はその後も、屋上と、その背景の空から目が離せんようになった。めっちゃええ天気やってん。空がびっくりするぐらい青くて、明るくて。洗いたてみたいに真っ白な雲が、そこをゆぅーっくり、流れるのを見た。ああ、ええなあって」
さっきまで早口だった立花さんの口調が、急に柔らかくなる。興奮が冷めたようだ。しかしなぜだかそれは余計に、危なげな感じがした。

「俺はそのまま非常階段を駆け上がって、屋上まで行った。今思うとおかしいよなあ。十階はあったはずやのに、全然苦しくなかった。俺はさっき見た綺麗な空を背中に感じながら、悪魔と同じように、そこから飛び降りた」
何かを噛みしめるように、立花さんは目をつむった。しかしまた、すぐに目を開ける。
「けど俺人間やん。普通に重いやん。だから、ひらひら、とはならんかったわ。まあ、考えたらわかるっちゅう話やけどな。けど、一瞬だけは確かに、ふわぁって浮いたんやで。背中が風に持ち上げられてるみたいな。わかる? でもそれはほんまに一瞬だけで、次の瞬間には、べしゃん! って、自分が潰れたのがわかった。地面とくっつくくらい厚みがなくなって、目とか鼻とか手足とかが、全部でたらめなとこに行ってる。死んだな、と思った」
さっきより早口になる。目が爛々としていた。

「けど俺は死んでなかった。気が付いたら入院してて、医者によると『奇跡的に助かった』そうや。そんなはずないやろ。体ぺしゃんこやってんぞ」
どう答えればいいのかわからない。
「悪魔のせいや。あいつ、俺が『殺してくれ』言うたんを聞いて、逆に死なない体に変えよったんや。『饅頭こわい』とちゃうで。はははははは」
立花さんは、今度はゲラゲラと大きく笑った。座ったまま、体が左右にぶらんぶらん揺れている。

「今はもう、死にたいとかこれっぽっちも思ってへんねんけどな。あの、『ふわぁっ』と、『べしゃん!』が忘れられへんねん」
立花さんは申し訳なさそうでもあり、うっとりしているようでもあった。
そのとき、いつの間にか大きくなっていた立花さんの影が、天井から私を見下ろしていた。

それからひと月も経たないうちに、立花さんは亡くなった。理由はビルの上からの転落死。事故か自殺か、原因はまだ調査中とのことだ。葬儀には課長と補佐だけが参列することになった。

当然だが、死なないというのは嘘だったようだ。私はかつがれたのだ。

夏の長い夕方、私は、今出てきたばかりの庁舎を憂鬱な気持ちで振り返る。
同僚とのトラブルは解決のきざしが見えない。むしろ、このまま定着してしまいそうな感さえあった。
ふと、庁舎の屋上に、黒い、恰幅のいい影が立っているのが見えた。
それは私に向かって片手をあげて見せると、屋上のフェンスを越え、凧のようにくるくると回転しながら、軽やかに落ちていった。

屋上は、風が涼しそうだ。向こうに広がる空は、燃えるような、しかしどこか懐かしい赤色をしている。

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