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【連載】『わたしが推した神』ACT1-1 結婚したくない!

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結婚したい、結婚したい、結婚したい……

 薔薇色の肘かけ椅子にもたれながら、ロモラは口ずさむように繰り返した。お気に入りの黒いベルベッドのロングドレスを、脱ぎもせず、うっとりと指で愛撫しながら。
 開いた窓からは、春先のまだ冷たい夜風が入ってきて、火照った身体をうるおす。

 あのひとが、この窓から部屋に飛び込んできたらいいのに。

 ここは、ハンガリーの都市ブダペストの郊外。女優である母エミリアが先月建てたばかりの大屋敷だった。玄関は劇場のエントランスさながらの吹き抜けで、広々とした階段の両脇には雄々しい獅子の石像が控え、家族や客人たちを出迎える。

「赤のサロン」と母が名づけたこの客間は、屋敷の北側にある。ありとあらゆる家具や調度品がゴージャスな朱のシルクで飾り立てられていたが、壁にそびえる大きな黒壇の本棚だけはそのままにされていた。13年前に亡くなった父カーロイの蔵書コレクションだ。ロモラが少女のころにむさぼり読んだ本も並んでいる。アナトール・フランス、エミール・ゾラ。……
 そしてイギリスの女性作家、ジョージ・エリオットの『ロモラ』
 
 15世紀、激動のフィレンツェに生きた女性の物語──。
 父は、ド・プルスキー家の次女に、愛と期待をこめてこの気高い名前をさずけたのだった。ヒロインのロモラのように、あるいは作者のエリオットのように。たとえいっときは不毛な恋に溺れても、人間としてのプライドを忘れず、知性と勇敢さを武器に、荒波を乗り越えて生きるようにと。

 けれど、……
 ステージの上で舞う「神」。ヴァーツラフ・ニジンスキー。
 あの途方もない夢を知ってしまったいまは、それらの本さえもかすんで見える。

 神。
 安易にそんなことばを使うなんて、不謹慎な。
 かつてのロモラなら、そんな風に考えただろう。老齢の芸術家に対してならまだしも、自分とほとんど歳も変わらない若い男性ダンサーになんて。
 けれど、いまや世界は一変した。闇は光になり、海は陸になり、太陽は西から昇りだす。あんなひとがこの世にいるだなんて。もっと知りたい。もっと近づきたい。あのうなじを、ふくらはぎを、ほほえみを。もっと見たい。
 願わくば、この手の届くところで。

 ふいに、もうひとりの青年の顔が脳裏を横切った。にわかに椅子から身を起こす。
 ある確信が電撃的に全身を走った。

「結婚したくない……!」

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 バンディ・ハトヴァニ男爵と出会ったのは、前の年の夏だった。

 母と継父のオスカーに連れられて、ボヘミアの有名な温泉リゾート、カルロヴィ・ヴァリに滞在しているとき。叔母のポリーが開催した夜会で、ロモラの前にふいに現れ、にこやかに手を差し伸べた男性──それがバンディだった。
 振り返ってみれば、それは完全に仕組まれた出会いだった。すでにポリーは家柄や経済状況を調べ上げており、申し分なしと判断した上で、彼を夜会に招き入れたのだった。

 第一印象は決して悪くなかった。ポリーの企みは奥手なロモラを思うがゆえであったし、20も30も年上のおじさんと無理に引き合わされたわけでもない。歳はロモラよりもわずかに下。伯爵家であるド・プルスキー家と比べれば地位こそ劣るものの、今をときめくブダペストの商人の一族。休暇が終わってからもひんぱんに家を訪ね、オペラやコンサートに誘い、優しくエスコートして、ボンボンや薔薇の花束をプレゼントしてくれた。
 男性からこれほど熱心にアプローチされた経験はなかった。ダンスパーティーで挨拶代わりに口説いてくるようなナンパ男とは違う。バンディがロモラと真剣に交際を望んでいるのは明らかだったし、会うたびに可愛い、きれいと褒められて、ふわふわした気持ちにならないわけではなかった。
 あの事件が起きるまでは。

 その年の冬。バンディは慢性の気管支炎を悪化させ、スロヴァキアのタトラ山地に静養に行った。会いたいという手紙を受け取ったロモラは、母と一緒に列車に乗って見舞いに出かけた。教えられた宿泊先の部屋には誰もいなかったので、彼女はひとりで彼を待った。暖炉では火が勢いよく燃えていた。暑かったのでコートと毛織りの上着を脱いで、窓辺でぼんやりと冬の夕陽をながめていた。
 すると突然、背後に気配を感じた。ぎょっとして肩をこわばらせた矢先、バンディががっちりと腰に両腕を回し、首すじにキスをしはじめた。汗をかいた肌に唇が吸いつく感触が、悪寒となってこみあげた。

 声にならない声をあげ、バンディの腕をはたき落とし、ロモラは部屋を飛び出した。追いかけてくる彼を見ようともせずに廊下をひた走り、階段を駆け下り、ホテルの自分の部屋に飛び込むと、母の腕にすがりついて号泣した。
 母はしばらくあっけにとられていたが、ひととおり娘の話をきくと、小さく肩をすくめた。

「大丈夫よ。キスされたくらいじゃ、妊娠しないから」

 愕然とした。母は笑っていた。「女の子は結婚するまで、男に身体を触らせてはだめ」──そう言われてきたのに、そのことばを信じてきたのに。「ロモラ」のように気高く生きよと教えられてきたのに。なぜだか、笑っている。あのね、あなた20歳でしょ。もう大人なんだから。

 タトラから帰ったあとも、ロモラはバンディを無視し続けた。けれど母はロモラをこう諭す。──あんまり意地を張らないことよ、ロモラ。ほら、またバンディがやって来たわよ。きれいな薔薇の花束を抱えて。すっかりしょげ返っちゃってかわいそう。
 ふいに抱きしめたり、キスしたり。男性がそういう愛情表現をするのはあたりまえなの。許しておあげなさいな。

 どうかしていた。
 あのときの自分が、じゃない。
 あのときの自分を「どうかしている」と言って笑ったすべての人がだ。

 どうかしていた。
 そのあとの自分も。母のしつこい説得に折れてしまったなんて。彼を許し、プロポーズを受け入れ、婚約してしまったなんて。

 母はいまや大はしゃぎだ。この3月中にも、社交界にお披露目をしなきゃね。──その提案をおとなしく受け入れた自分もバカみたいだ。母の目的はわかりきっている。盛大なパーティーを開いて、贅をつくしたこの新居を、ブダペストの名士たちに見せびらかしたいのだろう。

 もう決めた。彼と結婚はしない。
 絶対に断ろう。

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 バンディとの一件で、ただひとつ無駄ではなかったのは、彼の母親との出会いだった。
 謝罪を無視し続けていたある日、家の使用人が女性客の来訪を知らせた。ロモラの前にあらわれたのは、息をのむほどファッショナブルな装いの貴婦人だった。
 大きくゆったりとした漆黒のコート。白のえり飾り。手は大きなマフで覆い、東洋風の柄物のターバンを頭に巻きつけている。女性誌のファッション・プレートから抜け出たようないでたちだ。

 ──まるでパリのマダムみたい。

 見とれるあまり、ロモラはハトヴァニ男爵夫人に誘われるまま、街のパティスリーに出かけた。こんな素敵な女性といっしょに、ホットチョコレートを飲むだなんて! すっかり頬を上気させたロモラの前で、貴婦人は優雅にほほえんだ。

 ──マドモワゼル・ロモラは、こういうファッションがお好き?

 それなら、もしこの街にツアーがやって来たら、連れていってあげる。いまパリで大ブームのバレエ団があるのよ。「バレエ・リュス」とか「ディアギレフ・バレエ団」って呼ばれてるの。ファッションデザイナーも、お友達のマダムたちも、みんな夢中なのよ。ご存じかしら?

 
 まさか、彼女に連れられて行ったその公演で「神」に出会ってしまうなんて。

「ごめん、ごめん、遅れちゃって」
 終演後に客席に現れたバンディも、どうだった? と耳にささやきかける男爵夫人も、終演後のホテル・ディナーの席で満足げに笑う母親も、心を素通りしていくばかりだ。

 ヴァーツラフ・ニジンスキー。

 名前を口にするだけで、心が、身体が、リフトされるみたいにぐっと持ち上がる。抱きすくめられて、動けなくされて、無理やりキスされる──あのいまわしい思い出はもう過去だ。バカみたいな薔薇の花束なんて、もういらない。ほんものの薔薇をわたしは見つけたのだから。

 ヴァーツラフ・ニジンスキー。

 いつの間にか椅子から飛び降り、太鼓のように足を踏みならしていた。ぐるぐる、ぐるぐる。黒のドレスが、足元で弧をえがく。止まらない、この衝動。天高く舞う姿を思い浮かべるだけで、なぜだか自分の身体も動き出してしまう。なんでだろう。わからないけど、ハッピーで、最高すぎる。ああ、ニジンスキー。わたしの神!!!
 

 また、あのひとに会いたい。

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【連載】「わたしが推した神」
1912年3月。
わたしは「神」に出逢ってしまった──。

有名バレエ団の絶対的エース、ニジンスキーを
推しすぎて人生を狂わせた女性ロモラの
波乱と矛盾に満ちた物語。

毎週金曜更新中!


(2023年6月追記)
★本作は、大幅改稿を経て、『ニジンスキーは銀橋で踊らない』として5月末に書籍刊行されました。詳しくは下記記事をご覧ください。★