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10. 概念モデリングに関係しそうな最近の哲学トピック

はじめに

このコラムシリーズでは、過去、フッサール(1859~1938)やフレーゲ(1848~1925)、ラッセル(1872~1970)、ウィットゲンシュタイン(1889~1951)などの論考を取り上げてきました。しかし、どれも戦前戦後の論考でちょっと古い。今回は関連する書籍も含め、戦後~現代にいたる論考を調べて、”Art of Conceptual Modeling”の再考、定義付けの参考にした結果をまとめてみます。
哲学の論考を理解するには、数多くの哲学者の主張をある程度知っていないと理解できないんだなと痛感した、ここ数か月でした。
まぁ、私は本職の哲学者ではないので、誤解多数かもしれませんが、正解か間違いか判然としないのが哲学的問らしいので、ご容赦ください。

今回参考にした書籍群

読んだ書籍は以下の通りです。

数字は読んだ順番です。

抱えていた問題意識と理解の深まり

ここ最近の私の問題認識は、物事を理解し記述する前提として言葉・言語が必要という前提を踏まえて、もう少し最近の動向や論考が知りたいとい、さらに、言葉・言語に限らず戦後から現代につながる哲学論考を知っておきたい、人間が認識・理解を行うことはつまり無限を有限の構造で表現するという事についてもう少し深堀したいという、3点でした。

順番的には一番最後に挙げた”万物の理論としての圏論”を最初に読んだわけですが、この本は、圏論という数学の基礎分野からの観点による論説です。前の記事で圏論については、概念モデリングの圏論的基礎付けを行ったわけですが、その正当性の正当性はさらに高まったと感じています。最近はやりの AI についても圏論的な考察があって実に興味深い。
そして、この本の最後の方に、

本書は、圏論的に考える構造として世界・対象を見るということを、サイエンスの多様な文脈において追求してきた書物である。また構造として見ることで、違うもの・対立するものが同じに見えてくるということを追求してきた書物でもある。

万物の理論としての圏論” P198

と書かれていて、更に、

その有限的存在である人間が世界の全てを理解するというのは確実に無謀な試みであるように思われる。世界が「複雑」だからという以前に、世界が単純に「多い」からである。世界が包摂する際限のない量の情報を全て取得することはできない。その意味で人間が世界の全てを知り得ることはない。それでも人間が「世界の全て」を知り得るとしたら、それは「世界の本質の全て」知り得るという形においてのみである。

”万物の理論としての圏論” P198

とあります。私流にいうと、世界=圏W であり、そのまま理解・記述すると圏I なわけですが、この圏で記述する対象は、無限だよということで、世界の本質の全ては、その分類・構造である圏C と考えてよいだろうと。最近(いや、ずっと前からかw)沢山読んでいて、どこかに書かれていたのか、自分が創発されたのか定かではないのですが、要するに、人間が世界(無限)を理解・記述する= 分類・構造(有限)を見つけて記述する、だろうということです。
ここで、哲学的問い(いや数学的問いか?)が浮かびます。そもそも、”無限”って何?ということで、”宇宙・0・無限大”を読んだわけですね。この問いに関しては、”現代数学はじめの一歩 集合と位相”の方が詳しかったりしました。この話題については後のセクションで詳しく説明するのでここで寸止めしておきます。ちなみに、”現代数学はじめの一歩 集合と位相”を読んだのは、もう少し圏論的に何かを記述・定義する具体的な事例が欲しいということで、”圏論によるトポロジー”を買って読み始めたはいいのですが、トポロジーが珍紛漢紛なため、基礎固めをしようということで買ったのですがw

さて、世界を認識・理解・記述することは、無限から有限を見つけだすことと書きましたが、そこでは、言葉・言語が使われるわけですね。私の知識はウィットゲンシュタインで止まっているので、言語・言葉といえば定番であろう、”言語と認知”と”チョムスキーの言語理論”を読んだわけです。
現代哲学の最前線”を読み進めていくと、”万物の理論としての圏論”にも書いてあったのですが、言葉・言語については、現代においては、哲学的な考察だけではなく、脳やニューロン等の生物化学的な自然科学からのアプローチも(心理学からのアプローチももちろん)たくさんあって、自然科学の成果も強烈に哲学的論考に影響を与えているのが判ります。チョムスキーは自身の言語学は哲学ではなく科学だといっています。そんなわけで、”言葉と思考”も併せて読んだわけです。生成文法や普遍文法、設置問題等、色々と面白い話題はあるものの、”概念モデリング”の見直しに係るような根本的に新しい話題は見いだせなかったので、この辺でやめておきます。
言語と認知”は私の知識不足で読むのが大変でしたが、”チョムスキーの言語理論” は、言語科学だというだけあって、もともと技術屋の私にとっては比較的読みやすい本でした。

次に、ウィットゲンシュタインシュタイン以降の哲学の論考についてですが、上に挙げた本を読み進める中で、まず、哲学者たちはそれぞれ生きた世相が抱えた問題や病巣に対して論考しているのだなと感じました。単にそれぞれの主張だけを見ていると、ふ~んで終わったり、間違った解釈をしたりしがちですが、何故そんな論考をしたかという時代背景を知ると、途端に、あ~そういうことねという腹落ち感が増すなと。
とはいえ、

また、それぞれのテーマが浮上してきた歴史的・社会的背景に関する記述も、最低限に抑えることにした。そういう方面に突っ込みすぎると、「哲学」が何か特定の社会問題解決のための便利なツールであるかのような話になってしまうからである。「哲学」が社会の中に現実に生きている人間の問題関心と関わっており、現実の変化と哲学の議論状況が連動しているのは確かだが、「哲学」は経済学や政治学、法学のような政策学ではない。たとえ現実にそうなる可能性が極めて低いことでも、それが起こった場合はどうなるのか、どうすればいいのかきちんと考えるのが「哲学」である。

現代哲学の最前線” P7

ということも忘れずに、あまり文脈状況に依存しすぎずに、言説・論説の本質を捉えようとする努力は必要でしょうね。

また、各哲学者は、ギリシャ時代から延々と続く議論と問題提起をベースに、それぞれの世相や他の哲学者たちとの議論を踏まえて論考しているので、それらに対するある程度の知識がないと、全くの珍紛漢紛で終わってしまうという事も強く感じました。特にチョムスキーの”言語と認知”は延々と続く講演の話が半分近く判らない状態で読み進め、最後まで何とか目を通して、おぼろげながら、生成文法の輪郭がつかめたという体たらく。その後、”チョムスキーの言語理論”と”現代哲学の最前線”を読んで、「あ~その論考を批判してたのね」と理解が進みました。哲学系の本を読む場合は、アリストテレス、カント、デカルト、ヘーゲル、フッサールあたりの解説本を読んで、一番目の”現代哲学の最前線”を読むとよいかなと(大杉笑)

それで、読んだ結果ですが、いやぁ…有益でした。実は、”Art of Conceptual Modeling” に関して、数学の圏論と言語哲学でカバーしきれないミッシングピースが幾つか残っていて、実はそのミッシングピースは、私にとっては30年来のミッシングピースだったのですが、今回漸くすべて埋まった(正確に言うと埋まるであろう…かな)という実感を得ることができました。
何が埋まったか、”6. ドメインと IT システム構築” の”ドメイン”、これが何者かという点です。とっても重要な話なのと、今現在、読解中につき、詳細は回を分けて記事にすることにして、こちらもここで寸止めです。

無限

無限って面白い。
無限には2種類あって濃度が違います。一つ目の無限は、自然数の無限。ご存じの通り、自然数は、1、2、3、…と無限に続くと定義されています。個数はもちろん無限です。自然数を使ってあらわすのは、個数と順番ですかね。○がずっと連続して左から右に並んでいる様を想像してみてください。概念モデリングの用語を使うと、ある概念クラスの概念インスタンスを一列に並べる、でもよいのですが、それらに対して、左端から順番に 1、2、3、… と順番に数字を割り付けていくと、○にしろ概念インスタンスにしろ、その数字の値が、左から数えたときの個数と考えます。○や概念インスタンスがどれだけ増えても、この操作は可能です。この様に一つ目の無限は数えることができます。ちなみに、整数はもちろん(0、1、-1、2、-2、…と並べれば一目瞭然)ですが、分数や無理数は、一見すると数えられないくらいあるように見えて、自然数の数しかない、つまり、同じ一つ目の無限の数です。もう少し正確に言うと、

代数方程式

のような、代数方程式の解になる数(整数・分数(有理数)・無理数はこれ)は、全て上の定義に従うと、数は自然数と同じで、一つ目の無限だということになります。この様な無限、より正確に言えば、無限の濃度をℵ0(アレフゼロ)と言います。ちなみに、二つのℵ0の数字の足し算の結果も、面積(ℵ0の数の掛け算)や体積の値も、ℵ0だそうです。二つ目の無限は、円周率の π や自然数の底の e 、0.10100100010001…(0が一個づつ増えていく)等の超越数と呼ばれる数の無限です。これらは、例えていえば、自然数なら1と2の間には数字がないですが、超越数の場合は、幾ら二つの近しい値をとっても、その間にうじゃうじゃ超越数が存在するという特徴を持っています。そして実数は、整数+有理数+無理数+超越数からなると。実数の無限の濃度は、ℵと書くそうです。当然のことながら、
ℵ0<ℵ
です。
一言、無限と言っても、奥が深いですね。。。
ℵ0で、自然数を順番に割り当てていくと書きましたが、順番に割り当てていくということ、数えると言い換えても構いませんが、それができるためには、その対象群の個々を識別できているということを意味しますよね。多分この”個々を識別すること”、これが人間の認識の基盤であり、圏論でいうところの恒等射(英語では Identity)だろうというのが私の理解。概念モデリングでいえば、圏I のモデルの記述要素の概念インスタンス、特徴値、リンクはℵ0であり、本質的にはℵの濃度の世界を、ℵ0 の世界に切り分けてるとも言えます。ちなみに、特徴値が採り得る値は、ℵ0だったりℵだったりと、データ型が二種類あるよと、いうことになります。
ちょっと脱線しますが、不完全性定理を見つけてしまったゲーデルが考えた、ゲーデル数というものがあり、それを使えば、全ての数学の公理は、素数を使ったべき乗の掛け算式で表せるのだそうです。これって、要するに人間の思考の枠組みは、ℵ0 であって、ℵ 的な思考はナーマナナンダー(知る能わず:半村良の妖星伝で使われた用語)なんじゃないのっていうのが、私の仮説。極小の世界が確率論的にしか理解できないのもそのせいか?
ℵ0である代数的数(代数方程式の解になる数)に加えて、ℵの濃度を持つ超越数という概念というか定義のレベル、もっと言うと、分類ですかね、それは人間は扱えても、無限そのものは人間の思考は扱えないというのは、不思議です。

唐突ですが、この辺の集合論が絡む話を読む時、外延的記法、内包的記法というのが出てきます。知っていると便利なので、ここで紹介しておきますね。例えば、自然数を記述する場合、
{1,2,3,4,…}
の様に対象を全て列挙する書き方を”外延的記法”と言い、
{x: x は自然数}
の様に特徴を書く書き方を”内包的記法”と言います。

閑話休題、”宇宙・0・無限大”によれば、この宇宙には、本当の 0 は存在しないし、本当の無限も存在しないんだそうです。
「え?絶対零度ってあるじゃん、何もなければ0じゃないの?」って感じですが、現代物理学によれば、本当に何もない真空はなく、極微の時間の中でダイナミックに素粒子が生成したり消滅したりするようなエネルギーを持っているのが真空の正体らしいので、0、じゃない。星の数も、それこそ星の数ほどあれど、宇宙全体に存在する星に順番に自然数を割り当てていけば、限られた知覚しか無い人間が数え上げることはできないくても、巨大ではあるけれどある数しかないと。空間や時間は連続だから、そちら実数と同じℵと同じ濃度の無限は存在するような気がしますが、どうやらプランクスケールより小さな極小微な世界は不連続だという説もあり、そうであれば、ℵの濃度も宇宙には存在しないということになります。どうなんでしょうね。
まぁ、概念モデリングでは、「ℵの世界は特徴値の値(データ型)にしか出てきません」で十分なので、ここまでとしておきます。
ちなみに、圏I の概念インスタンスとリンクはℵ0の無限を許容する(宇宙全体に存在する星の数の論法に従えばもちろん有限なんだけど人間が把握する許容量を超えているという意味では無限と言ってよいでしょう)世界であり、扱いにくいので、もう一段それを分類して有限化(扱える規模にする?)した概念クラスとリレーションシップで記述する圏C のモデルを作るという二段構成になっています。

現代哲学概要と発見

現代哲学の最前線”について書いておこうと思います。この本19世紀から21世紀にかけての哲学の動向をおさえるのにめちゃくちゃいい本だなと思ってます。この本によれば、現代哲学の主題は、以下の5つだそうです。

  • 正義論

    • 総勢20名の哲学者など

  • 承認論

    • 総勢36名の哲学者や科学者

  • 自然主義

    • 総勢47名の哲学者や科学者

  • 心の哲学

    • 総勢67名の哲学者や科学者、小説家等

  • 新しい実在論

    • 総勢51名の哲学者や科学者、小説家等

いやはや、すごい数の哲学者や関係する人たちが取り上げられています。20世紀から21世紀にかけては、第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦時代、ベルリンの壁崩壊によるグローバル化、多極化と振り返れば激動の時代、ソ連邦の崩壊により資本主義が勝った、あるいは普遍的な価値観が浸透したかと思いきや、民主主義国家と権威主義国家、宗教国家の間の軋轢や行き過ぎた?資本主義とか、問題噴出の今現在ですね。陰謀論とかいっぱしの大人なら相手にしないような言説が大手を振ってまかり通っていたり、数千年来の価値感のぶつかり合い等、何故そんな風になるのかというのは相変わらずの哲学的大問題のようです。

ロールズが『正義論』の中で、それぞれ自由で平等な立場にある人々が、それぞれの自由な生き方を尊重しながらも、限りある資源を有効に使って幸福を追求するために協力しあう準備があるという前提で考えた場合、彼らが理性的に思考したらどういう種類の「正義」の原理、つまり社会設計の原理を選ぶかを、厳密な思考実験によってシミュレーションしてみせたことで、状況は一変した。

現代哲学の最前線” P17

正義論の画期としてのロールズですが、日本も含め最近のとても平等とは思えないような人々との間の色々な軋轢もあるよなと。

多くの人にとって利益があるから正しいのではなく、理性的な「理由」があるから正しい、というのが民主的な決定の基本であるべき、という発想だ。

現代哲学の最前線” P51

これ、ハーバマスという哲学者の言葉ですが、凄く重要なことを言っていると思います。多数決が民主主義の基本だと思ってませんか?私もある時までそうだと思ってましたが、ある時、「民主主義は全員一致が原則、だから、多数決で決めたことについては、反対した人たちに対して、その全員が納得するまで説得しなければならない」という言説(確かイギリスの話だったかと)に触れて、考えが変わりました。その説得・納得には、理性的な「理由」が必要なのは言うまでもないでしょう。

哲学的な「承認論」は、我々が”普遍的な合理性を備えた、自立した主体”になるには、あるいは完全にそうした存在になれなくとも、それに近づくには、何が必要か、どういう条件をクリアすべきか、という前提にかかわってくる。他者からの「承認」が必要というのが承認論者の答えである。しかし、どういう意味で「承認」が「主体化」の条件と考えられるのか。

現代哲学の最前線” P62

承認欲求強い人って面倒だよね…という話ではなく、そもそも「承認」ってどういうことよ、その前に承認される「主体」って何なのよ、てことだそうです。リベラリズムとコミュニタリアリズムの対立とか、理性的な主体なんてそもそもどうなのって話(イエナガ風を気取ってみたw)
覚えておくと便利な用語を抜き出しておくと、

「構造主義」は、「主体」が自立して存在し、自由に判断・行動しているわけではなく、各種の「構造」、言語をはじめとする各種の記号体系のユニットによって本人の知らないところ、つまり無意識で規定されているという前提に立って、その構造を明らかにすることを試みた。

現代哲学の最前線” P71

はい、ポストモダンの「構造主義」。

”主体”は自分が理性的だと思っている規則に自発的に従っているのではなく、目に見えない「構造」によってその選択しがあらかじめ限定されている可能性がある。
~ 中略 ~
私たちは性や愛、同特勘定、身体感覚のようなものは、生得的なものであると考えがちだが、フーコーはそれらも長い歴史的な経緯、人々の実践の華夏で、時代・地域ごとに構造化されるものだと考える。

現代哲学の最前線” P72~P73

何かのイデオロギーに凝り固まっていたり、伝統を重んじる系はこれか?
まぁ、その構造は、流動的で、そんなに強制されているものではないということで、それを批判するポスト構造主義とか、理性偏重の哲学、反「主体」哲学とか、その二つをつなぐ、コミュニケーション主体とか、諸々の言説があるようですね。

「主体」たちは、自分たちが普遍的で理性的な合意に到達できるという前提で、ルールに従って互いに働きかけるが、その合意の内容はあらかじめ確定されているわけではなく、常に変化に対して開かれているのである。

現代哲学の最前線” P81

お、また、ハーバマス。構造主義ともポスト構造主義とも一線を画すコミュニケーション的行為の理論。
私のそもそもの目的とはあまり関係ないので、他は割愛しますが、”現代哲学の最前線”の「第二章 承認論」には、最近重要視されている多様性について、ヒントになることが多数書いてあるので、その辺興味のある人は是非ご購読を。

20世紀は自然科学が驚くほど進歩して、この世界の成り立ちや生物としての人間の成り立ち、遺伝の仕組みや脳の構造等がどんどん明らかになってきていて、これらの話題も当然、哲学に大きな影響を与え、再考を迫られています。更には、クローン技術や、生成系 AI の様な、ある意味脳の構造を模倣したニューラルネットで、チューリングテストをパスするような代物の出現は、人間とは何か、心とは何か、認識とは何か、こちらも多大な影響をあたえています。このあたりの話が、”現代哲学の最前線”の第三章に自然主義や第四章の心の哲学に書いてあります。

「自然主義」とうのは、ごくざっくり言えば、理系的、自然科学的な方法論を文系の分野にも適用しようとする立場だ。それによって「答え」が曖昧になりがちの文系をもっと”科学的”にしようとするものである。

現代哲学の最前線” P112

統一科学 Einheitswissenschft 構想か…まぁ、理系からすると、「何生ぬるい浮世離れした話してんねん」という哲学者へのツッコみ?このあたり、海外では哲学に対する科学者のつっこみとか、理系的な自然科学を詳しく理解したうえでそれに対する反論とか発想をする哲学者もいて議論活発のようですが、日本は哲学と言えば、 the 文系で、理系的な発想に疎いので、日本の哲学者はなかなか苦手とするところ、と書いてある本もありました。かく言う私は大学時代は物理学専攻のバリバリの実験物理屋さんだったので、哲学書を読む時も、多分自然主義的な観点で読んでいて、理系的な文章を書きがち。文系の読者を取り込むにはどんな風に書いたらよいかいつも悩むところだったりします。
他に、「確実な知覚体験は、言語の外では意味を持たない?」とか、でもそれは、自然科学では解明されていない人間の知覚体験に依存するのだから、自然科学といえど全ては説明できないのでは?とか。「理由」と「原因」の違いとか。

私の「行為 action」(b)が一定の条件の下で規則的に生じる場合、その条件が「原因」(a)と呼ばれる。Bを実行する際に、私自身が[A→B]を承知している必要はない。それに対して「理由」は、「行為」がなされた後、行為の「正当化」のために、私自身が与えるものなので、経験による裏付けは必要ない。

現代哲学の最前線” P132

最近よく、AI に関する批判など耳にしますが、一通りの論考に関する知識がないと、正確な理解はできないのではないかと感じました。
心の哲学は、シンギュラリティとか神経生理学の発展で、最も注目されている分野らしいですが、

デカルト以来の近代哲学の最重要問題の一つである「心」と「身体」の創刊関係をめぐる、数世紀にもわたる議論の蓄積にも続いて発展した分野である。

現代哲学の最前線” P160 

であり、

「心の哲学」では、認知科学や心理学、生物学の成果を取り入れて、「心」を物理的に説明可能な現象としてとらえようとする「物理主義 physicalism」の傾向が強い。

現代哲学の最前線” P162

デカルトの時代はニューラルネットとか仕組みは知らなかったわけで、科学が進歩した現在は、心とは何かを考える材料が増えたわけですね。多分、私たちの意識や思考は、神経細胞が構成するニューラルネット(他にもグリア細胞の働きとか量子論的揺らぎとか未発見の仕組みがあるような気もしますが)の仕組みの上で成り立っているのは間違いなく、更には、神経細胞は多数の分子で構成されていて、更にその分子は、原子や電子、素粒子から構成されていて、未だ、全てが説明尽くされてはいないにしても、場の量子論や素粒子論で説明できると。我々が生まれた地球は太陽系第三惑星で、太陽系は銀河系に属して大宇宙の一部にあり、そのぐらいのスケールでは相対性理論で記述できることがわかっています。それらの仕組みの上で我々の意識や思考は成り立っているというのは事実として間違いないでしょう。しかし、”万物の理論としての圏論”にも書いてありましたが、だからと言って、量子論で、MLB のドジャース VS パドレス戦での大谷選手の打球の行方を正確に予測することは実際には不可能だし、ビッグデータ系の統計学でもなかなか難しく、更には、その時のダルビッシュ選手と大谷選手の心の動きまで正確に記述することは無理。加えて、素粒子論にしろ相対性理論にしても、限られた人間の知覚で得られた経験を元に考案されたものであり、結局人間の心や意識・思考に依存しているという循環構造が生じるわけですね。いゃ…深い。

詳しくは、この本を読んでもらうことにして、そもそもが、”Art of Conceptual Modeling” の refine、redefinition が私の目的。この観点から、凄いめっけものをしてしまったんですね、私は、この本から。。。

ガブリエルの定義では、「意味」とは対象の現れ方であり、「存在すること Existenz」とは、何らかの「意味の場」に現れることである。
彼の定義する「世界 Welt」とは、それらの「意味の場」が現れてくる「意味の場」である。いわば、メタ・意味の場だ。スーパーマンやアンパンマンが、彼らを主人公とする物語という「意味の場」に現れると言われても、その「意味の場」自体が虚構なのではないか、と疑問を持つ人が少なくないだろう。しかし、ガブリエルに言わせると、これらの「意味の場」は「世界」という究極の「意味の場」に現れているのだから、「存在している」と言える。私たちは、SFやアニメの物語として「世界」に現れている「意味の場」に様々な形で関わっているし、芸術や科学の諸分野や学派ごとの「意味の場」に関わることができる。それらの「意味の場」が、「世界」という共通の「意味の場」に現れているからである。

現代哲学の最前線” P258

これは、マルクス・ガブリエルという現役のドイツの哲学者の言説です。”新実存主義”というらしいです。これってさ、”Art of Conceptual Modeling”の”ドメイン”のことじゃない!
これまで、フッサールの背景野や、ウィットゲンシュタインの言語空間などに触れてきましたが、どうも、たった一つの普遍的な背景野・空間を思い描いているのではないか、と、ずっと気になっていました。
複数の「意味の場」が並行して存在し、それぞれの場でそれぞれの意味が現れているという考え方が示されているのは、初めて目にしました。
「意味の場」、英語で Sense of Field、”領野”という日本語もあるようですが、これが複数ない場合は、形而上学的なプラトンのイデアの様な存在、宗教の場合は、それが神になるわけですが、そんなものを仮定する必要が出てくるようです。
ウィットゲンシュタインやラッセル流の言語哲学では、文の意味は、真か偽だったことを思い出してください。文で示された内容が世界に正しく存在すれば真、正しくなければ偽、もしくは無意味でした。だとすれば、名探偵コナンの”真実はひとつ”という文は、そもそもコナンはアニメ上の架空の存在で、現実の世界には存在しないので、無意味、もしくは偽になってしまいます。しかし新実存的な考え方では、コナンは”名探偵コナンの意味の場に存在し、かつ、その意味の場においては真”であることになります。概念モデル的に言えば、名探偵コナンというドメインにおける概念情報モデルを作ると、事件という概念クラスと真実という概念クラスの Relationship の真実側の多重度が 1 だということです。また、京極夏彦の京極堂が主人公の一連の小説でよく出てくる、「世の中に不思議なものはないのだよ」とか、「背景を共有したシステムが出来上がっている社会において呪いは成り立つ」というのも、そういう「意味の場」において真ということかなとか、連想に霧がありません。

まだ、マルクス・ガブリエルの新実存主義は勉強中なので、はっきりと断言はできませんが、これ、概念モデリングの、

  • 複数のドメイン毎に概念モデルを作成する

  • ドメインは視点ごとに複数あって、それぞれは独立している

と同形のように思えます。一通り文献に目を通して確信を得た時点で、また、記事にしようと思っています。ドメインについては、30年来、うまく説明できなかったんですよね。
それにしても、マルクス・ガブリエルの書籍は 2000年代になってから出版されているわけで、1990年初頭に、既に似たような概念を思いついていた、Shlaer-Mellor 法は凄すぎます。数学者の Sally Shlaer さんが凄かったんだな、きっと。

最後に

まとまりのない文章で申し訳ないですね。
しかし、マルクス・ガブリエルの新実存主義を知ったことは、今回の大きな収穫でした。哲学者の論考は、当然ですが、凄~く深く広く考察された結果のものであり、かつ、ちょっと違うとかすごく違う見解を持った哲学者達との間で行われたディスカッションや激論も踏まえられて吟味いる訳ですね。そんな論考があって、自分の説の背景や意味を補強してくれるなら、こんなにありがたいことはありません。色々と細かいところをツッコまれたら(最近、あんまりいないな…そういう人)、この本読んで考えて、って言えるのでとても便利。

それにしても、114人という実に多くの哲学者が”現代哲学の最前線”では取り上げられていますが、日本人が誰一人出てこないのは、ちょっと寂しいかも。。。

ということで、これで今回はおしまいです。ここまでお付き合いいただいた読者の皆さん、ありがとう。お疲れさまでした。

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