小説の詳しい描写がメンドクサイ問題について考えた
小説の詳しい描写がメンドクサイ問題って最近良く目につくようになってきました。
僕は小説はあまり読まないのですが、つい最近、原尞さんの新作が久しぶりに出るというニュースで、読書家クラスタが湧いていたので、読んだことがなかった原さんのデビュー作『そして夜は甦る』を読み始めました。トップの写真は自分がここ1年で読んだ紙で買った小説すべてと、これから読む原尞さんの本です。(ちなみに攻殻機動隊の「笑い男」のネーミングはこのサリンジャーの短編集のなかからとられています)
それでメンドクサイ問題なんですが、原さんが物語をすすめるために使う文章の量は、最近の小説、例えば『マチネの終わりに』や『ボクたちはみんな大人になれなかった』に比べて圧倒的に多いですね。
例えばこんな感じ。
三階建モルタル塗りの雑居ビルの裏の駐車場は、毎年のことだが、あたりに一本の樹木も見当たらないのに落葉だらけになっていた。私は、まだ走るというだけの理由で乗っているブルーバードをバックで駐車して、ビルの正面にまわった。鍵のかからない郵便受けの中のものを取り、一人しか通れない階段を昇り、決して陽の射さない二階の廊下の奥にある自分の事務所へ向かった。何しろ東京オリンピックの年にマラソンの未公認世界新記録なみの早さで建てられた代物なのだ。 —原尞『そして夜は甦る』
主人公の探偵、沢崎が自分の事務所に入るときの描写です。これを読んでいて思ったのは、僕は今、街を歩いていても街の風景を見ていないし、喫茶店の窓際にすわっても、街を歩く人の姿を観察したりしないということです。歩いているときも、スマホのスクリーンを見て、次の移動先への最速の経路と交通手段について考えていたりするし、喫茶店の窓際の席で電子書籍を読んだり、そこにいない友達とSNSで他愛のない会話を楽しんでいたりします。
だから、「小説の詳しい描写がメンドクサイ問題」は僕らの認知力が有限のリソースだということの問題なんでしょう。ふだん注意も払っていない、関心もない描写が続いている小説を粘り強く先を追っていくことができなくなっています。
Twitterが140字だったりすることやLINEでの短い文章のやり取りも関係あるのかもしれないけれど、こうしたSNSで使われる簡潔な文章に慣れてしまった僕たちの嗜好が、そちら側にどんどん寄っていっているということもあります。
更に言うと、携帯電話が登場しないと、ストーリーのスピードが極端に落ちます。登場人物Aと登場人物Bが同時進行でストーリーを進めるようなストーリー展開が、携帯電話がないとすごく難しいですよね。ストーリーラインが単線であるからこそ、情景描写が深くなるということでしょうか。でも、そこにまどろっこさを感じてしまうことも多いのです。
ここらへん、もうちょっと突き詰めてみたいです。そういえばこの前、『美味しんぼ』の1巻を読んだときも似たようなまどろっこしさを感じました。
ちなみに原尞さんの小説はレイモンド・チャンドラーが好きだったらオススメです。レトリックと世界観を楽しむ小説だと思います。
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