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再掲載:短編小説「紳士」


 石畳を歩く初老の男は、今朝から港に停泊している豪華客船の客であった。本来、燃料や食料の補充に寄った港で乗客が降りることは禁じられている。しかし、その規定を簡単に破ることができる程度に男は特別であった。




 話の種にでもなればと思いなんの気なしに船から降りた港は、男の期待をことごとく裏切っていた。山のふもとから集落とかろうじて呼べる港町まで枯れ葉色の空気が町全体を覆っていた。男は寂れたこの港町を散歩した。そして、心の中で自分がどれほど幸せな人間であるかを噛み締めていた。1時間ほど散歩を楽しむと、耳にあたる浜風に少しばかり嗜まれたような気持ちになり、豪華客船へ帰ることにした。その道すがら、1人の少年に出会ったのである。




 男は少年の出立いでだちにひどく驚かされた。少年は春の到来もまだ先の時分に、襟が黄ばんだ半袖に袖を通し、使い込まれたジーパンを履いていた。半袖からから見える二の腕は、そのまま骨格標本にできそうなくらい痩せていた。そんな姿をした少年を見かけた男は、先ほどまで心に宿っていた〝幸せだ〟という感情をどうしても少年にも分け与えたくなっていた。




 「世界一の幸せ者にしてあげようか?」雨上がり真新しいアスファルトを思わせる黒色のスーツを着こなす男が、優しく少年に近づき膝をついて話しかけた。



 

 2人が並ぶと貧富の差が余計に際立った。白い洗い立てのシーツに止まった天道虫。対比する異物によりより鮮明さを放つシーツ、注視される存在へと昇華された天道虫、お互いがお互いを際立たせるそんな存在に図らずも2人はなってしまっていた。




 ———「それが俺の祖父が酒を飲む度にひけらかす、高潔な紳士の精神なんだってさ」「素敵な話じゃない。そこから貴方のお父様はそのおじいちゃんについて行ってどんな仕事をしたの?」豪華客船内のバーカウンターでカクテルを飲み交わす若い男女。普段は決して話すことのない男性のルーツともなる濃厚な身の上話は、カクテルによく合った。しかし、少しばかり勘違いをした女性に対し、男性は続けた。




 「あー、違うんだ。俺の祖父はその見てくれの汚い少年に『幸せにしてあげようか?』と話した男の方さ」「え?」女性は少し目を見開き驚きの表情を見せた。「祖父は自分の仕事には、幼い男の子がいれば完璧だといつも思ってたらしい。仕事が簡単になるんだよ。豪華客船で狙いの部屋へお邪魔するときなんかさ」「……あーなるほどね」女性は一瞬だけ考えを巡らせたがすぐに答えに行き着いたようである。男性も女性が同業者であるため、余計な問答がなく心地よく感じている。





 ターゲットが客室を留守にしている間、少年が迷子のフリをしてボーイに「ここ僕の部屋」なんて話せば、客室の鍵は簡単に開けてもらえる。それを確認した後、「探したんだぞ」なんて優しい顔をして祖父が出てくれば、そのまま客室に入ることができる。全くセーヌ川をこよなく愛する大泥棒は、やることがめちゃくちゃである。




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