【祝!直木賞ノミネート】青崎有吾の本格頭脳バトル小説『地雷グリコ』試し読み
たった1週間で〈本格ミステリ大賞〉〈日本推理作家協会賞〉〈山本周五郎賞〉をトリプル受賞、さらには第171回〈直木賞〉にノミネートされるなど、話題爆発中のエンタメ小説『地雷グリコ』。
ミステリ作家の青崎有吾さんらしい、理詰めと騙しが冴え渡る頭脳バトルに
「とにかく面白い」という声が集まっています。
本記事では、表題作「地雷グリコ」をまるごと特別公開!
なぜか勝負事に強い女子高生・射守矢真兎のデビュー戦をお楽しみください。
あらすじ
試し読み
地雷グリコ
1
待ち合わせ場所の第二化学室はまだ授業で使ったことがなくて、見つけるのに少し手間取った。ドアを開けると、相手側はもう到着済みだった。
ダブルボタンのブレザーをきっちり着込んだ、スクエア眼鏡がよく似合う男子と、背の高い垢抜けた印象の男子。椚先輩と、江角先輩。直接会うのは初めてだけど名前は知っている。生徒会メンバーは校内でも有名だ。
椚先輩が指先で腕時計を叩く。
「六分遅刻だ」
「すみません。旧校舎、あんまり来ないので」
「いーよいーよ」と、社交的に微笑む江角先輩。「にしてもびっくりだよ、決勝の相手が一年生なんて。射守矢ってのはどっち? 君?」
「あ、私は介添人で。鉱田っていいます。真兎は……」
じゅぞぞぞ。
ストローを吸う音が紹介を遮った。
子猫のような身軽さで、綿雲のように飄々とした少女が進み出て、椚先輩の前に立つ。
右手にはさっき購買で買ったいちごオレ。亜麻色のロングヘアに短めのプリーツスカート。ぶかぶかのカーディガンはいまにも肩からずり落ちそうで、だらしないから直せと毎日言っているのだけど改善の気配は一向にない。詐欺師みたいに口元だけで笑うと、彼女は軽快に名乗った。
「どもども、射守矢です。一年四組、射守矢真兎」
「おまえか」椚先輩は値踏みするように真兎を眺めた。「チャイニーズチェッカーで将棋部の大澤を破ったそうだな」
「武蔵の法則が効いたみたいで」
「ムサシ?」
「宮本武蔵。遅れて登場した者が勝つっていうアレです。なので今日も遅れてみました」
「ジンクス頼みで勝てるほど《愚煙試合》は甘くないぞ」
挑発を受けても椚先輩の表情は崩れない。冷静沈着系三年男子とちゃらんぽらん系一年女子。対照的な二人だ。
椚先輩は眼鏡を押し上げ、なぜか部屋の隅に声をかける。
「全員そろった。始めてくれ」
「承知しました」
ぎょっとした。
いつからいたのか、日陰に溶け込むようにしてもうひとり男子の姿があった。淀んだ印象の目を伏せ、頭の左側が不自然に跳ねている。
「ど、どなたですか」
「頰白祭実行委員一年の塗辺と申します。本日の審判役を務めます。よろしくお願いします」
「よろしくー」と、真兎。「塗辺くん寝癖跳ねてるよ」
「無造作ヘアがモテるとメンズノンノに書いてあったので」
「それじゃモテんよ。ちょっとこっち来てみ?」
「いいから早く始めろ」
椚先輩が急かした。江角先輩も寄りかかっていた実験机から離れる。
「何で決める? チェス? 囲碁? それともポーカー?」
「いえ。誰でも知っているシンプルなゲームを用意しました。とりあえず外に出ましょう」
「外に?」椚先輩は眉をひそめる。「何をやる気だ」
「ついてきていただければわかります」
ぼそぼそと言い、ドアへ向かう塗辺くん。審判がそう言うなら従うしかなかった。生徒会の二人があとを追い、私たちもそれに続く。
じゅずぞぼ、とまた耳障りな音。一年四組の代表者はいちごオレをすすりながら、映画の上映開始前みたいな目で椚先輩の背中を眺めていた。相変わらず緊張感の欠片もない。
「真兎……わかってると思うけど、うちのクラスの命運があんたにかかってるから」
「わかってると思うけど、そういう重いの苦手だから」真兎はストローから唇を離し、「でもまあ、これおごってもらったし。鉱田ちゃんのためにがんばろうかな」
「なんでもいいからとにかく勝って」
廊下の窓からは、向かい側に建つ新校舎(新といっても建ったのは二十年前だけど)がよく見えた。均等に並んだ窓と面白味のない白い外壁。それを上へとたどっていき、私は問題の場所を眺める。銀色の柵。貯水タンク。背景の薄水色の空。
すべての原因はあの屋上にあった。
五月に入ると都立頰白高校は慌ただしくなる。
頰白祭という創立記念の文化祭が近づくためだ。各クラス・部活・有志の集まりなど五十以上に及ぶ団体が準備に向けて動きだし、模擬店や出し物の内容を決め、当日使用したい場所を実行委員会に申請する。
この申請というのがやっかいだった。どの団体も集客に有利な場所を取りたがるため、毎年特定の場所に希望が集中してしまうのだ。たとえば、最も人通りが多い昇降口横。演劇や映画上映に適した視聴覚室。二教室分の広いスペースが取れる大会議室。
そして、一番人気の屋上。
普段は立入禁止の屋上も頰白祭中は規制が緩み、特例的に開放される。「柵が高く、安全性が確保される新校舎の南側のみイベント・模擬店に使用可能」。運営規則にはそう書かれていた。
丘の上にある頰白高の中でも最も高い場所。景色は抜群で、風通しもよく、看板を出すまでもなく外から目立つ。何よりいつもは入れない場所なので、物珍しさに多くの生徒が集まってくる。屋上の使用権を手にすることは頰白祭での成功を手にすることと同義だった。その成功を夢見て、毎年十以上の団体が申請を行うのである。
だが、もちろんすべての団体が屋上を使えるわけではない。頰白高の屋上はもともと人の出入りを想定していないため、柵で囲われている“使用可能”スペースはわずか一団体分。
どうにかしてその一団体を選ばなければならない。
最初は単なる抽選で決めていたそうだが、運任せにはしたくないと批判が殺到。二十年の歴史の中でひとつずつルールが追加され、独自の決定方式が構築されるに至った。
申請期間が終わると、まず頰白祭実行委員会によってトーナメント方式の対戦表が組まれる。屋上を希望した各団体は代表者とその介添人を一名ずつ選出。審判役である実行委員一名と介添人二名の立ち合いのもと、代表者たちは平和的・かつ明確な勝敗がつけられる勝負で対決し、トーナメントを勝ち上がった団体に当日の使用権が与えられる。
五月に入ると都立頰白高校は慌ただしくなる。
屋上に申請を出した団体が校内のあちこちで対峙し、熾烈な争奪戦を繰り広げる。
馬鹿と煙は高いところが好き。立ち昇る煙のごとく、愚直に屋上を目指す馬鹿どもの戦い。
誰が呼んだか《愚煙試合》。
私たちも先輩たちも、そんな馬鹿の一員だった。
放課後の空気はどこか気だるげで、サッカー部のかけ声もブラバンの練習音もあまり身が入っているようには思えなかった。ランニング中の柔道部が通り過ぎるのを待ってから、塗辺くんは校門を抜ける。
「学校から出るの?」
「校内でもことは足りますが、一直線の場所のほうがやりやすいので」
意味深に返された。一直線のほうがいいって、何をやるつもりだろう。百メートル走? 男女差を考慮してスポーツ系の勝負はないと踏んでいたけど。入学して二ヵ月足らず、化学室の場所さえおぼつかない私たちは《愚煙試合》に関しても未知の部分が多い。
本来なら屋上なんて希望せず、もっと無難な場所を申請していたはずなのだが……。
「一年四組は何を開きたいんだ?」
江角先輩が聞いてくる。私はバッグから企画書を出して先輩に見せた。
「カレー店〈ガラムマサラ〉?」
「はい。カレー屋です。クラスメイトが駅前のインドカレー店でバイトしてまして、本場のスパイスを調達できると言うので多数決で決まりました。ガラムマサラは使わない予定ですけど」
「偽装表示じゃん……」でもそうか。カレーかあ、と江角先輩はあごを撫で、「たしか校舎内だと売れないんだったか」
「そうです。屋上でしか開けないんです」
ほかの団体の迷惑になるし、匂いが染みつく可能性もあるという理由で、校舎内で餃子やカレーといった匂いの強い食べ物を販売することは禁止されていた。屋台として前庭に出店しようにもテーブルを置くスペースの確保が難しく、カレーには不向き。残された候補地は屋上しかなく、私たちは《愚煙試合》に出ざるをえなかったのである。
「先輩たちは何を開くんですか」
「去年・一昨年と同じだよ。オープンカフェ〈キリマンジャロ〉。キリマンジャロ豆は使わん予定だけど」
「偽装表示じゃないですか……」でもそうですか。カフェですか、と私もあごを撫で、「喫茶店なら校舎内でも開けますよね?」
「余裕で開けるな。でも、《愚煙試合》は勝ったもん勝ちだ」
カレー売りたきゃ椚に勝ちな、と暗に言われてしまった。企画書をしまいながら歯がゆさをこらえる。はいそうですかと簡単に勝てれば苦労はしない。
私は横目で敵の姿をうかがう。
三年一組、椚迅人。
一年生のときから生徒会代表として《愚煙試合》に出場。二年連続で優勝を果たし、二年連続でオープンカフェを成功させた男。
今年こそは連勝記録を止めようと多くの団体が奮起したが、彼はものともせずに決勝まで勝ち上がってきた。決勝の相手が生徒会だとわかると、一年四組の中でも不運を嘆く声が漏れ聞こえた。だめだ、椚さんじゃ勝ち目がない。うちの部の先輩、去年の《愚煙試合》でポーカーやってぼろ負けしたって。カレー屋の代案を作っといたほうがいいかもなあ。エトセトラ、エトセトラ。
だが、私は希望を捨てていない。
椚先輩から真兎へと視線を移す。いちごオレ片手にお散歩気分で歩く友人を見つめる。
射守矢真兎は勝負ごとに強い。
私がそれを知ったのは、中学三年生のとき。
体育祭で学級対抗の全員リレーがあった。クラスメイト全員がグラウンドを半周ずつ走りバトンをつなぐという競技だが、私たちのクラスはビリ間違いなしと目されていた。中学の陸上部は全国大会に出るほど有名だったが、私たちのクラスには陸上部員がひとりもいなかったのだ。
負けるにしてもなるべくよい走順を組んで、恥をかかないようにしたい。開催五日前の放課後、走順を決める係になった私は全員分のタイム表とにらめっこしていた。体育の先生いわく、速い人→遅い人→速い人→遅い人……という順で交互に並べていくやり方が一番よいそうで、どのクラスもそれに倣うという。私たちもその組み方でいくつもりだった。
ところが、アンカーの名前を書き終えシャーペンを置いたとき、真兎がそれを覗き込んだ。
鉱田ちゃん何してんの。リレーの走順、決めてたの。なるべく恥かきたくないから。リレー? ああそっかもうすぐ体育祭か。当時から行事に無頓着だった真兎はそんなとぼけたことを言い、片手間にスマホをいじり、
「ねえ鉱田ちゃん、第一走者ってグラウンドのどっち側を走るっけ」
「……北側だけど」
私が答えると。真兎は用紙を手に取り、作ったばかりの走順を書き変えた。
「こっちのほうが恥かかないと思う」
新しい走順は私の交互方式とそう変わらず、ただ、遅い人→速い人→遅い人→速い人……というように、速い人と遅い人の順番が逆になっていた。なんで? と聞いてもしたたかな笑顔で濁される。まあ、どうせビリだしべつにいいけど。私はなかばなげやりにその走順を提出した。当日までの間に何度か練習もしたが、やはり他クラスに勝てるとは思えなかった。
だが、体育祭当日。
私たちのクラスは全員リレーで一位になった。
「砂だよ」
閉会式のあと、「どうしてあれで勝てたの」と聞いた私に、真兎は当然のように答えた。
「当日の天気を調べたら、日中ずっと強い南風が吹くって予報が出てた。三年の全員リレーは体育祭の後半にあるでしょ。一日中風に吹かれたグラウンドは砂の量が均一じゃなくなる。風下の北側は砂が多くなって、風上の南側は少なくなる。砂まみれのコースは滑りやすくなるから、南側のほうが速く走れるに決まってる」
「…………」
リレーはグラウンドの北側から始まり、クラス全員が半周ずつ走る。つまり、奇数番号の走者は全員が北側を――砂まみれの滑りやすいコースを走り、偶数番号の走者は全員が南側を――砂の少ない固いコースを走ることになる。
だから真兎は、偶数番号の走者を速い生徒で固めた。陸上部員をはじめとする他クラスの速い生徒は、全員奇数番号が割り振られたため実力を出しきれなかった。
「でも、コースの差だけでそんなに遅くなる? 陸上部員なんてフォームも綺麗だし、脚力もあるし……」
私が半信半疑なまま尋ねると、
「わかってないね鉱田ちゃん。陸上部員が一番走りづらくなるんだよ」
エースランナーたちの心を見透かしたように、真兎は続けた。
「コースが滑りやすいってことは、転びやすいってこと。全国目指してる連中が、体育祭なんかで怪我するわけにいかないでしょ」
射守矢真兎は勝負ごとに強い。
だからこそ《愚煙試合》にひっぱり出したのだ。真兎は「重いの苦手」とぼやきつつも着実に勝利を重ね、決勝まで上がってきた。屋上まではあと一歩。勝ち目がないことはないはずだ。たとえ相手が二年間無敗の生徒会役員でも――
「まだか」その役員の声で我に返った。「どこで何をする気なんだ」
いつの間にか、学校からだいぶ離れている。高台を下り、住宅街を抜け、円い滑り止めが刻まれた坂道を上っていた。
塗辺くんはこちらを振り向かずに、ぼそぼそ声で話す。
「屋上の使用権を奪い合う――《愚煙試合》決勝戦は、そのコンセプトにふさわしい勝負で決めるべきだと僕は考えました。みなさん、頰白高の屋上へ上がるために絶対必要なことはなんだと思いますか」
私たちは顔を見合わせた。
屋上へ上がるために必要なこと。鍵の用意? 日焼け対策? いや――
「階段を上ること」
江角先輩が答えた。
「そのとおり。頰白高にはエレベーターもエスカレーターもないので、屋上へ行くためには長い階段を上らなければなりません。代表者のお二人には、これからそれを実行していただきます」
塗辺くんは立ち止まった。
坂道の突きあたりに、苔むした狛犬が一対鎮座していた。その間から五十段ほどの石造りの階段がまっすぐ延び、頂点にはくすんだ朱色の鳥居が立っている。階段の両脇は鬱蒼と茂る竹藪で、風が吹くたびさわさわと静かな音を立てていた。
頰白神社だ。
「四十六段あります。境内の高さは建物五階分に相当し、見晴らしも頰白高の屋上とほぼ一致するでしょう。この階段を屋上への道のりに見立て、どちらが早く頂点にたどりつくかを競っていただきます」
「階段ダッシュ?」
「ご安心を射守矢さん、ダッシュの必要はありません。ゆっくりと確実に上るのです。ジャンケンをしながら」
ジャンケン。階段。誰でも知っているシンプルなゲーム。
小学校の記憶がよみがえる。帰り道。休み時間。公園や学校で友達と遊んだ、あのゲーム。
「それって、もしかして……」
「グリコか」真兎が嬉しそうに言った。「なつかしいね」
「くだらないな」と、椚先輩。「子どもの遊びじゃないか」
「いいんじゃないか?」と、江角先輩。「もともとくだらない勝負だし」
私たちの反応を予想していたように、塗辺くんは階段を見上げる。
「ただのグリコではありません。この階段、危険極まりない“地雷原”でもあります。踏んでしまえば重いペナルティが。勝つためには互いに読み合い、敵が仕掛けた地雷の位置を察知しなければなりません」
「地雷?」
審判はうなずいて、私たちを振り返り、
「いかに罠を見極めつつ、いかに素早く階段を上るか――。ゲーム名」口元を陰気に綻ばせた。「《地雷グリコ》です」
2
場の雰囲気が変わった。
いや、頰白神社の階段は先ほどと同じ静謐さを保っている。変わったのは人のほう、階段を見上げる真兎と椚先輩だ。地雷という物騒な単語が引き鉄となったかのように、二人の目が鋭さを帯びるのがわかった。塗辺くんの言う“読み合い”がすでに始まっているようにも思えた。
「地雷ねえ」真兎は首を傾けて、「椚先輩、踏んだことあります?」
「踏んだ経験がある高校生は日本には少ないだろうな」
「私はよく踏みますよ。午後のロードショーとかで」
「それはC級映画にあたっただけだろ」
先輩は鉄の装甲で冗談を跳ね返し、「具体的にはどういうゲームだ?」と審判に尋ねる。
「では、ルールを説明します」
塗辺くんは無造作ヘアをいじりながら話し始めた。
「基本は一般的なグリコと同じです。お二人には毎ターン、『グーリーコ』のかけ声とともにジャンケンをしていただきます。ジャンケンに勝ったプレイヤーは出した手に応じて階段を上ります。グーで勝ったら〈グリコ〉で三段、チョキで勝ったら〈チヨコレイト〉で六段、パーで勝ったら〈パイナツプル〉で六段です。これを繰り返し、階段を先に上り終えたプレイヤーが最終的な勝者となります」
ただのグリコのルールを、こんなに丁寧に説明されることもなかなかない。
「次に、地雷について。ゲーム開始前、お二人には階段内の三つの段に地雷を仕掛けていただきます。ゲーム中に地雷が仕掛けられた段で立ち止まった場合、その地雷を“踏んだ”と見なします」
塗辺くんはポケットを探り、ストラップのついた小さな機器を二つ取り出した。黄色い星型のものと、ピンクのハート型のもの。
「ワイヤレスのブザーを用意しました。お二人が地雷を踏んだかどうかはこれでお知らせします」
「こだわるねえ」と、真兎。「高くなかった?」
「百均で買ったものなので」
塗辺くんはハート型のブザーを真兎に、星型を椚先輩に配り、続いてリモコンらしきものを取り出す。ボタンが操作されると、
ボオン!
二人の手の中で爆発音が鳴った。
「地雷の踏み方には〈被弾〉と〈ミス〉の二種類があります。相手プレイヤーの仕掛けた地雷を踏んでしまった場合、爆発音が鳴って〈被弾〉となります。〈被弾〉したプレイヤーはペナルティとして、即座にその段から十段下がっていただきます」
「十段か……」
江角先輩がうなるように言った。グリコは一度につき最高六段しか進めない。十段下がりはなかなかきついペナルティだ。
塗辺くんは再びリモコンを操作する。
ブィィィン。
今度は音なしで、バイブレーションだけだった。
「ゲームの展開によっては、自分が仕掛けた地雷を自分で踏んでしまうケースも考えられます。その場合はブザーが震えて〈ミス〉となります。爆発はしないので段を下がるペナルティはありません。が、相手プレイヤーに地雷の場所がばれます。〈ミス〉にも充分お気をつけください」
「待った」椚先輩が手を上げる。「爆発しないということは、〈ミス〉の場合、地雷はその場に留まり続けるのか」
「そうです。あとから相手プレイヤーがその段を踏めば、爆発します」
「はいはい」今度はいちごオレが高く掲げられた。「たとえば私が〈ミス〉して、次のターンで先輩がその段に追いついたとするじゃん? そしたら先輩〈被弾〉じゃん? 同じ段にいる私もとばっちり?」
「いいえ。同じ段にいる状態で地雷が爆発しても、両者ペナルティという形にはなりません。ペナルティを受けるのは爆発音が鳴ったプレイヤーのみです。いまのたとえに沿いますと、射守矢さんはその段に留まったまま。〈被弾〉した椚先輩だけが十段のペナルティを負います」
「あ、そう。了解」
「もうひとつ、〈あいこルール〉について説明します。一ターン内で同じ手によるあいこが五回以上連続した場合、ゲームを円滑に進めるため、そのターンのジャンケンは“立っている位置がゴールに近いプレイヤー”側の勝ちとさせていただきます。勝ったプレイヤーは三段か六段、好きなほうを選んで階段を上れます。両者が同じ段に立っていた場合は、先に来ていたほうのプレイヤーを“ゴールに近い”と見なします」
これは少し奇妙というか、念を入れすぎなルールに思えた。
「同じ手のあいこが五連続って、そんなことめったになくない?」
「いいえ鉱田さん。このゲームに関しては充分ありえます」
また意味深に言ってから、塗辺くんは「以下は補足ですが」と続ける。
「設置できる地雷は一段につきひとつまで。スタート地点とゴール地点――ゼロ段目と四十六段目に仕掛けることはできません。地雷の設置は、これからお二人に紙を渡し、そこに希望の段数を三つ書いていただく形で行います。希望がかぶってしまった場合はその段数のみを公表し、再度設置をやり直します。以上です」
説明が終わると、ルールを吟味するように全員がしばし黙り込んだ。私も得た情報を頭の中でまとめてみる。
基本は普通のグリコと同じ。ただし隠れた地雷が計六発。相手の地雷を踏んだら十段下がる。自分の地雷を踏んだら相手にその場所がばれる――要約すれば、ただそれだけ。
「なるほど」椚先輩が腕組みを解いた。「くだらないことには変わりないが、なかなか面白そうなゲームだ」
「恐縮です」
「塗辺くん審判が堂に入ってるね」と、真兎。「こういうの好きなの?」
「委員長に頼まれたのでやっているだけです」
「部活どこ? ボードゲーム部?」
「ラクロス部です」
い、意外な事実が判明した。人は見かけによらない。
「では、まず地雷の設置から行います。この紙に希望の段数を記入してください」
ラクロス部員は紙とペンを二組取り出し、やはり堂に入った所作で二人に配った。「俺らはちょっと離れてようか」と江角先輩に言われ、介添組は狛犬の脇に身を寄せる。
「ねえねえ」用紙を受け取りながら、真兎が塗辺くんに話しかけた。「この階段って、全部で何段?」
「四十六段です。最初にも言いましたが」
「あ、そう? ごめんごめん、文系だからさあ数字が苦手で」
なははは、と悪びれない笑い声。椚先輩はあきれたように片眉を上げ、私も口元がひきつった。真兎、開始前からそんなんで大丈夫? だってこのゲーム、
「このゲーム、けっこうシビアかもな」
考えていたのと同じことを、江角先輩が小声で言った。
「地雷をどこに置くかで戦略が決まるけど、問題は置き場所が限定されることだ。鉱田だったらどこに仕掛ける?」
「……十二段目以降の三の倍数の段、十二ヵ所のうちどれか三つ」
「だよな。俺も同意見」
スタート地点・ゴール地点を除いた四十五段のうち、地雷が仕掛けられた段は自分と相手とを合わせて計六つ。一見〈被弾〉や〈ミス〉の危険は少ないように思えるが、実はそうじゃない。二つの理由から地雷を仕掛けるのに適した場所はかなり絞られる。
第一に、〈被弾〉の際のペナルティが十段であること。このペナルティを充分に活用するなら、地雷は十段目以降に仕掛けるのが得策だろう。仮に六段目に仕掛けて、相手をうまく〈被弾〉させたとしても、その場合はペナルティを六段しか食らわせられず四段分が無駄になる。スタート地点より下には下がりようがないからだ。
第二に、グリコは必ず三の倍数で進むゲームであること。グーで勝ったら三段。チョキかパーで勝ったら六段。どんな組み合わせで階段を上っていくにしても、プレイヤーは三の倍数の段しか踏まない。
したがって“十段目以降の段”かつ“三の倍数の段”に地雷を仕掛けるのが一番よい。つまり設置に適した段は――十二段目、十五段目、十八段目、二十一段目、二十四段目、二十七段目、三十段目、三十三段目、三十六段目、三十九段目、四十二段目、四十五段目の、計十二ヵ所。
両者がこのセオリーに従って設置を行ったとすると、地雷が仕掛けられた段は十二ヵ所のうち計六ヵ所。十二段目以降は二分の一の確率で地雷を踏むことになってしまう。江角先輩の言うとおり、かなりシビアなゲームになるのだ。
だから覚悟して臨まないと――と思ったのだが。
「ほい」
真兎は特に悩んだ様子もなく、用紙を提出してしまった。数秒遅れて椚先輩も提出。塗辺くんは二枚に目を通し、寝癖頭を上下させる。
「OKです、数字はかぶっていません。お二人の地雷は無事に設置されました。では、スタート位置についてください」
「あ、ちょい待ち」
真兎はこちらに寄ってきて、私にいちごオレを渡した。
「これ、残り飲んでいいから」
「真兎、大丈夫? 勝てそう?」
「んーどうだろ。先輩がうまく地雷を踏んでくれればいいけど」
口ぶりと裏腹に表情は余裕綽々で、どこからその自信が来るのかと逆に不安になる。
「椚、応援してるぞ~」
「しなくていい。今年のはたいした相手じゃない」
敵も敵で自信たっぷりな様子だ。見た目は対照的な二人だが、負けず嫌いという点では一致するかもしれない。
そんな代表者たちが階段の前に並んだ。椚先輩は星型ブザーを胸ポケットに入れ、真兎はハート型ブザーを腰にぶらさげる。手を後ろに組んだ塗辺くんがその間に立ち、宣言する。
「それでは《愚煙試合》決勝戦、《地雷グリコ》開始です。第一ターン。両者ご用意を」
二人は向き合い、同時に右手を上げた。屋上を賭けた一大勝負。場が妙な緊張感に包まれ、私は祈るような気持ちでぬるくなったいちごオレを飲みほす。
晴天の昼下がり。神聖な神社の入口で。
いい年した高校生二人が、叫んだ。
「「グー、リー、コ!」」
3
真兎はパーを出し、椚先輩はチョキを出していた。
チ、ヨ、コ、レ、イ、ト――椚先輩は声を出さずに階段を上り始める。まずは六段。ブザーは反応しなかった。
「続いて第二ターン。両者ご用意を」
再び腕が振りかぶられ、再びかけ声。
「「グー、リー、コ!」」
真兎の出した手は今度もパー。椚先輩は――グー。
「パ、イ、ナ、ツ、プ、ルっと」
軽快なステップで駆け上がり、真兎は椚先輩と同じ段に並んだ。当然ブザーは反応しない。
「ふっふっふ。追いつきましたよ先輩」
「まだ六段目だ。得意がってどうする」
なんというか……なんというか、普通にグリコだ。
いや。傍から見たらわからないだけで、二人の間では熾烈な駆け引きが行われているのかも。たとえばいまの第二ターン。六段目にいる椚先輩はリードを広げたいが、パーかチョキで勝つと十二段目――地雷が仕掛けられた可能性の高い危険地帯――に踏み込んでしまう。そこで安全策としてグーを出し、九段目に進むことを狙った。真兎はそれを読みきったパーで、ジャンケンに勝利した……とか?
「生徒会のくせに大人げないって思うか」ふいに江角先輩が話しかけてきた。「三年連続で屋上を占領したがるなんて」
「べつにそんな……まあ、ちょっとは思いますけど」
「思うよな。俺も思う。でも一応、生徒会には生徒会なりの理由がある」
「理由?」
「安全面だよ。柵があるっつっても屋上には事故がつきものだし、頰白祭は小さい子もたくさん来るだろ。管理意識の低い団体に任せると万が一も起こりえる。万が一が起これば屋上はそれきり永久封鎖だ。だがその手の管理に慣れてる生徒会が使い続ければ、学校側も安心して鍵を貸し出せる」
「……私たちだって安全には気をつけますよ」
「そりゃそうだろうが、文化祭ってのは誰でも浮かれるもんだからな。石橋はぶっ叩いといたほうが確実ってこと」
たとえほかから恨まれてもな、と江角先輩はつけ足す。私は地面に目を落とした。
誰もが、ただ文化祭で目立ちたいから屋上を欲しているわけじゃない。それぞれの団体にそれぞれの理由がある。でも、
「私たちも、カレー屋は本気で実現させたいんで。譲れません」
「知ってるよ。だからこうして戦ってるんだろ」
「戦ってるったってグリコですけどね」
「グリコでもマインスイーパでも椚は負けないよ。誰にも負けない。あいつはゲームの達人だからな。一年のころから《愚煙試合》の介添人やってるが、やられるとこなんて想像すら……」
ブィィィン。
振動音が響き、私たちはゲームに注意を戻した。
爆発音ではなくブザーのバイブレーション。ということは、
「椚先輩、〈ミス〉です」
塗辺くんが簡潔に告げた。
椚先輩は十五段目に移動していた。どうやら六段目→九段目→十五段目と上ってきたようだ。そして、自分自身が仕掛けた地雷を踏んでしまった……。
「そうか」
椚先輩は動揺の様子もなく、下にいる真兎を振り向く。真兎は九段目にいた。先ほどまでのゲームを楽しむような快活さには翳りが見え、カーディガンの萌え袖から覗く手がきつく握られていた。
「ほらな?」と、江角先輩。
「な、何がですか。地雷が一ヵ所ばれたんですから、真兎のリードでしょ」
「違う。追い詰められたのは射守矢のほうだ。よく考えてみな」
「……?」
十五段目に地雷があることははっきりした。真兎の位置はいま、九段目。なら次のジャンケンではグーを出し、十二段目に移動すれば――
「あっ」
チョキかパーを出して六段進めば地雷に〈被弾〉してしまう。だから真兎はグーしか出せない。そして、そのことは椚先輩にもばれている。つまり椚先輩は、パーを出せば必ず真兎に勝てるわけだ。しかも一度では終わらない。次のターンも、その次のターンも、九段目から動けない限り真兎にはグーの選択肢しかない。だがグーを出し続ければ、差はどんどん広がっていく。
椚先輩はわざと自分の地雷を踏んだのだ。
真兎に地雷の位置を知らせることで次の手を制限し、ジレンマに追い込んだ。
〈ミス〉にこんな使い道があるなんて思いもよらなかった。
「さすが、《愚煙試合》二連覇は伊達じゃありませんね」
真兎は亜麻色の髪をかき上げる。
「でも先輩、パーはおすすめしないなあ。二十一段目には私の地雷が仕掛けてあるので」
「ブラフだな。本当に仕掛けてあって十段のペナルティを食らったとしても、俺が下がる位置は十一段目だ。いまのおまえの位置よりは高い。それに、おまえがそのあとグーしか出せないことには変わりない」
「まあそうなんですけどね」
肩をすくめ、「じゃ、次のターン行こっか」と塗辺くんをうながす真兎。ピンチのはずなのに、なぜか焦る素振りはない。
真兎はどうする気だろう? 普通に考えればグーを出すしかないが、それは敵にも読まれている。ならチョキかパー? ジレンマから抜け出すにはあえて地雷を踏むのも手だ。椚先輩がグー狙いのパーを出してくるなら、真兎が逆を突いてチョキを出せばジャンケンに勝って十五段目に上がれる。直後に〈被弾〉し、ペナルティで五段目まで下がってしまうが、そのあとはいままでと同じように勝負を続けられる。
でも、チョキ出しまで椚先輩が読んでいたら? 真兎はその裏をかいて、いや椚先輩はさらにその裏を……?
「では、第六ターンです。両者ご用意を」
結論を出すより早く塗辺くんが言った。二人は腕を振り上げる。かけ声が階段に響く。
「「グー、リー、コ!」」
真兎の出した手は、グー。
椚先輩の出した手は、チョキだった。
「よし!」
柄にもなくガッツポーズを取ってしまう。真兎がグーで勝った! 理想的な勝ち方だ。
「グー、リー、コっと」
窮地を脱した真兎は、身を躍らせて十二段目へ。椚先輩との差はわずか三段。次で逆転も可能な――
ボオン!
私の喜びは束の間だった。
真兎の腰元――ハート形のブザーから、爆発音が鳴っていた。
「射守矢さん、〈被弾〉です。十段下がっていただきます」
余韻も消えぬうちに塗辺くんの声が重なる。
「軽率だな、射守矢」さらに、椚先輩の声。「十五段目の地雷が判明した時点で、おまえは十二段目と十八段目も警戒すべきだった」
その言葉で、私もようやく気づいた。
三の倍数の段に二連続で地雷を仕掛ければ――たとえば十二段目と十五段目に仕掛けておけば、相手を百パーセント〈被弾〉させることが可能なのだ。なぜならグリコ・チヨコレイト・パイナツプル、どんな組み合わせで階段を上ろうと、プレイヤーは必ずどちらかの段を踏むことになるから。どちらの段も踏まずに九段先へ行くなんてことは不可能だから。
「ジャンケンには最初からチョキを出すつもりでいた。おまえがパーを出してくれば、俺は勝って六段上がれる。チョキで合わせてきても〈あいこルール〉でいずれ勝てる。そしてグーを出してくれば、おまえに十二段目の地雷を踏ませられる。十五段目よりも十二段目で〈被弾〉させたほうが、おまえとの差を広げられるからな」
罠は周到に張られていた。
真兎はひとつずつ選択肢を潰され、すべては椚先輩の狙いどおりになった。先輩はいま、十五段目。十二段目で〈被弾〉した真兎が下がる位置は、二段目。その差、十三段。
「いやー、ラッキーでした」
だが私のショックなどどこ吹く風で、真兎は気楽な声を上げる。
「ちょうど十段下がりたいなーと思ってたんです。私が先輩よりも上の段に進んだらパンツを見られちゃうかもしれないですし」
「わざわざおまえのを見ようとは思わない」
「え~ほんとですか? 塗辺くんどう?」
「僕なら見ますね」
「やだなあ塗辺くん意外とムッツリ」
まあ冗談はさておき、と真兎は真顔に戻り、
「十二段目の地雷は予想してましたが、どっちにしろ問題ありませんでした。この状況も想定内です。先輩はそのうち苦労することになりますよ」
「……なに?」
「いえべつに。さ~て、十三段差だからがんばらないとな~」
歌うように言いながら二段目まで下がる真兎。塗辺くんも戦況に合わせて(あるいはムッツリだと思われないためかもしれないが)階段を移動し、二人の中間地点に立つ。
想定内――私には、その台詞が見え透いた強がりにしか思えなかった。
「なんか、すみません」江角先輩に謝る。「ちょっと変わった子なんです」
「いや、あながち強がりでもないかも。実際いまのターン、射守矢にとってはグーを出すのが最善手だった。グー以外を出したら椚に階段を進まれてたろ」
「でも、結局地雷踏んだし」
「それなんだが……いま思ったんだが、ひょっとしてこのゲーム、一度地雷を踏んだほうが有利になるんじゃないか?」
思わず横を向く。江角先輩はじっと考え込んでいた。
「地雷に〈被弾〉したときのペナルティは十段。十ってのがポイントだ。射守矢は地雷を踏んで二段目まで下がった。次にグーで勝てば五段目に上がる。チョキかパーで勝てば八段目。十一段目、十四段目、十七段目、二十段目……。射守矢が今後踏む段は、地雷が仕掛けられた可能性が高い三の倍数の段とは絶対に一致しない。つまり射守矢は、地雷の脅威から解放されたといえる」
対する椚はどうだ? と、江角先輩は自軍の代表者を見上げて、
「射守矢の地雷はまだ三発隠れてる。十二段目と十五段目は椚自身の地雷が仕掛けてあるから〈被弾〉の危険はなかったが、この先は一段ずつが博奕だ。いまの攻防でもそうだったが、地雷を警戒したプレイヤーは選択肢が制限される。たとえば小刻みに進むのを怖がって、グーを出しづらくなるとかな。射守矢にとっては、その分椚の出す手が読みやすいってことになる」
「…………」
そういえば、気になっていたことがあった。ゲーム開始前の塗辺くんの言葉。
――勝つためには互いに読み合い、敵が仕掛けた地雷の位置を察知しなければなりません。
――いかに罠を見極めつつ、いかに素早く階段を上るか。
フェアな立場の審判は、地雷を「回避する」という言葉を一度も使っていない。
真兎は、肉を切らせて骨を断ったのだろうか。ゲームの特性を正確に読み取り、十段ペナルティと引き換えに行動のアドバンテージを手に入れた。この先のジャンケンで連勝するために……。
「では、第七ターンです。両者ご用意を」
塗辺くんが言う。二人は右手を構える。
「「グー、リー、コっ!」」
真兎はチョキ。椚先輩もチョキ。あいこだ。再びかけ声。
「「グー、リー、コっ!」」
真兎はまた、チョキ。椚先輩はパーに変えていた。
「チ、ヨ、コ、レ、イ、トっと」
真兎はさっそく八段目まで上った。先ほど立っていた九段目とほぼ同じ位置。ペナルティを取り戻した形だ。腰に片手をあて、予告ホームランのように相手を指さす。
「先輩、期待しててもらっていいですよ。すぐに追い越して私のセクシー勝負下着を……」
ボオン!
その軽口を遮って、
ハート型のブザーが再び鳴った。
「射守矢さん、〈被弾〉です。スタート地点まで下がっていただきます」
塗辺くんが無慈悲に告げ、真兎の顔が初めて驚愕に染まった。腰にあてられていた左手が誤作動を疑うようにブザーを触る。たったいま「射守矢は地雷の脅威を逃れた」と断言した江角先輩も、もちろん私も、口をあんぐり開けていた。
「たしかに、おまえは地雷をよく踏む体質らしいな」椚先輩だけが冷静だった。「一度地雷を踏んだ者は行動のアドバンテージを得る。それは俺もわかっていた。だから〈被弾〉後のルートにも一発仕掛けておいた」
「ず、ずいぶん無意味なことしますね」真兎は声をつっかえさせる。「八段目じゃ、ペナルティが二段分無駄に……」
「そうだな。だがそのかわり、おまえをスタート地点まで戻すことに成功した。おまえはこれから、いままでと同じように三の倍数のルートを上り始めるわけだ」
椚先輩は靴先で十五段目を叩き、
「このゲームの本質は地雷の位置をどう隠すかじゃない。相手の出す手をどう操るかだ。十五段目には俺の地雷が一発残っている。この段が近づけば、おまえはさっきと同じジレンマに陥る」
私の頰に冷や汗が垂れた。
先読みしていたのは真兎だけじゃない。椚先輩は敵を〈被弾〉させたあとのことまで読んでいた。八段目でもう一度〈被弾〉させ、真兎をスタート地点に戻すことで、三つ目の地雷と引き換えに一つ目の地雷を復活させた。プラマイゼロじゃないかと思いがちだが、そうではない。
たとえば二段目に下りた真兎に対し、椚先輩が「〈被弾〉後のルートにも地雷を仕掛けたぞ」と宣言しても信ぴょう性は薄い。真兎はブラフと判断し、地雷を気にせず突き進むかもしれない。
だが、十五段目には確実に地雷がある。真兎は〈被弾〉の回避を意識せざるをえず、結果として椚先輩に手を読まれやすくなる。先輩は地雷を復活させると同時に、真兎から行動のアドバンテージをもぎ取ったのだ。
真兎は沈黙したまま階段を下り、スタート地点に戻った。狛犬の近くに立つ私と目が合う。開始時の余裕はすでに消え失せ、口元の微笑は針金みたいに歪み始めていた。
射守矢真兎、ゼロ段目。椚迅人、十五段目。
その差、十五段。
「今年も優勝だな」江角先輩が他人事のように言った。「コーヒー豆を仕入れとかないと」
4
頰白神社の石段に、「グーリーコ」のかけ声が幾度となく響いた。
ゲームは塗辺くんの仕切りによってテンポよく進み、私と江角先輩も戦況に合わせて階段を上りつつ、それを見守った。
椚先輩は一度も地雷を踏み抜かず、着実に勝利を重ねて“屋上”へと近づいていく。対する真兎は十五段目の手前でやはりまごつき、〈被弾〉はなんとか回避したものの、その後も追いつこうとすればするほど先輩に手を読まれてしまい、空回り。差を詰められないままのもどかしい展開が続いた。
陽が傾き、長く伸びた竹藪の影が階段を覆い始めたころ。
「では、第十九ターンです。両者ご用意を」
椚先輩の現在位置は、三十九段目。ゴールまでは残り七段。
対する真兎の位置は、二十七段目。椚先輩との差は十二段。
逆転は絶望的になりつつあった。
「ま、真兎」
私たちと塗辺くんは二人の中間に立っていた。数段下の真兎に向かって、おそるおそる話しかける。
真兎はうつむいたまま、かろうじて折れずにいるという感じだった。額には汗が浮かび、カーディガンは肩からずり落ち、審判の声にすら反応を返せない。負け続け憔悴しきったその姿は、ぺちゃんこに潰れたいちごオレのパックを思わせた。
「《愚煙試合》に出るたび思う」と、冷徹な声。「なぜ誰も彼も、たかが文化祭の場所取りにこだわるのか」
私は上方に首を巡らし、汗ひとつかいていない椚先輩をにらむ。
「せ、先輩だってこだわりまくりじゃないですか」
「屋上は生徒会が管理すべきだからだ。頰白高全体にとってそれが最良の選択だ」
「最良の選択は一年四組がカレー屋を出すことです。本場スパイス入りですよ! 先輩だって食べたら驚くんですから!」
「射守矢はどう思う?」椚先輩は私にかまわず、真兎に尋ねる。「カレー屋に固執する意味があるか?」
「……私は甘党なので。辛いのは嫌いです」
真兎は微妙にずれたことを言ってから、
「でも鉱田ちゃんのことは嫌いじゃないので、鉱田ちゃんのためなら勝ちます」
ゆっくりと顔を上げた。
ぼろぼろの状況でも、その瞳にはまだ闘志が燃えていた。本場スパイス入りのインドカレーみたいに。
「先輩、おかしいと思いませんでしたか? 三十九段目まで階段を上ってきたのに、先輩は一度も私の地雷にあたっていない。射守矢の地雷はどこにあるんだろうといぶかしんでませんでしたか?」
「…………」
「四十二段目と四十五段目に仕掛けてあります」
塗辺くん以外の全員が、ゴール間際に待ちかまえるその段を見上げた。
椚先輩の現在位置の三段先と、六段先。次のターン、彼がグー・チョキ・パーのどれで勝っても必ず踏むことになる二つの段。
「先輩も同じ手を使ったからわかりますよね? 三の倍数の段に二連続で地雷を仕掛ければ必ず〈被弾〉させられる。私もゴール直前に二発並べておきました。賭けてもいいですけど、私は次のターンで一発逆転します」
大胆不敵な宣言だった。
だが、椚先輩は表情を変えない。ブリッジを押してスクエア眼鏡をかけ直し、言葉の真偽を判断するように冷たい視線で真兎を射抜く。そして、
「最初から、そうじゃないかと思っていた」
意外な一言を放った。
「最初から?」と、江角先輩。「どういうことだよ」
「地雷設置用の紙を配られているとき、射守矢は塗辺に『この階段は全部で何段か?』と尋ねていた。あの一言がひっかかった。地雷設置のタイミングで段数を気にする理由はなんだ? 俺のように階段の前半に仕掛けるつもりならトータル段数は関係ない。とすると、射守矢が狙っているのは階段の後半――ゴール間際ではないか? ゴール地点の一歩手前に地雷を設置するため、ゴール地点が何段目なのかを確認する必要があったのではないか……」
格の違いを思い知らされる。
椚先輩は、ゲーム開始前から真兎の地雷の場所に目星をつけていたのだ。ゴール間際に地雷が集中していると予想していたからこそ、ここまで躊躇なく階段を上ってくることができた。
「本当に仕掛けてあるとしたら、たしかに俺は〈被弾〉から逃れられないな」
椚先輩は首を左右に振り、「だが射守矢」と続ける。
「『一発逆転』は言いすぎじゃないか? どちらで〈被弾〉するにしても、俺が下がるのは三十二段目か三十五段目。二十七段目のおまえよりだいぶ有利な位置だ」
真兎の瞳が揺れた。
黙り込んだまま、ずり落ちたカーディガンを肩まで直す。十二段差の大きさを嚙みしめ、何かをめまぐるしく思考しているように思えた。
「第十九ターンに移ってもよろしいですか」
塗辺くんが再度うながした。真兎は右手を上げ、椚先輩もそれに応じた。
正念場だ、と感じた。私は不安を押し隠すように真兎を見つめる。彼女と目を合わせ、大丈夫、勝てるからとうなずき合いたかった。けれど真兎は私を見ない。椚先輩から目を離さない。椚先輩も真兎をにらみ続ける。敵の真意を推し量ろうと、両者の視線が火花を散らす。
張り詰めた一瞬ののち、
「「グー、リー、コ!」」
互いの拳が振り下ろされた。
真兎の出した手は――チョキ。
椚先輩の出した手は――グー。
歯の隙間から苦痛を訴えるような、奇妙な音が聞こえた。
真兎だった。
両目は瞳孔が覗けそうなほど大きく見開かれ、伸ばした手はチョキのまま固まっている。予想外の出来事に直面した人間の、驚愕と困惑をうかがわせる顔。触発されて私の心臓もはね上がった。
何が起きた?
真兎は何か失敗したのだろうか。でも、椚先輩はグーで勝ったから四十二段目に進むし。首尾よく地雷に――
「四十二段目に地雷はない。そうだろ、射守矢?」
椚先輩の声が私の思考を遮った。
地雷が、ない? そんな馬鹿な。
「なんでですか? だってさっき、先輩も」
「そう、危うく騙されかけた。だが論理的に考えれば答えが見えてくる」
「……?」
「射守矢は『四十二段目と四十五段目に地雷がある』と自ら宣言した。あの宣言によって俺は二者択一を迫られた。三段先で地雷を踏むか、六段先で地雷を踏むか。どちらか一方なら選ぶのは絶対に後者だ。少しでもゴールに近い場所で〈被弾〉したほうがペナルティの被害は少なくて済む」
……たしかに、私でもそうするだろう。四十二段目で〈被弾〉した場合、下がるのは三十二段目。四十五段目で〈被弾〉した場合は三十五段目。三段だけだけど後者のほうが被害は少ない。
「射守矢の宣言によって俺は四十五段目を目指すしかない状況に陥った。だが、これはおかしい。俺が四十五段目を踏むことは射守矢にとって不利に働くからだ。射守矢の立場で考えれば、敵には四十二段目を踏んでほしいはず。黙ったまま次のターンにもつれこめば俺がそうする可能性も充分にあった。なのにわざわざ宣言をし、自らその希望をつぶしてしまった。単なる失言か? いや。仮にも《愚煙試合》を勝ち上がってきた女だ、そんなポカはしない。ならば宣言の意図は、俺に四十五段目を踏ませるためということになる。普通は避けるはずの四十五段目をなぜ踏ませたがったのか? 答えはひとつ、四十二段目を踏まれたくなかったから。つまり、四十二段目に地雷はない」
椚先輩は階段の先を見やり、
「したがって俺の踏むべき段は四十二段目。出すべき手は〈グリコ〉のグー。これは決まった。だが、問題は射守矢が出してくる手だ。四十五段目を踏ませたい射守矢は、俺にチョキかパーで勝たせるためにパーかグーを出してくるはず。俺がグーで勝つためには、その手をチョキに変えさせる必要があった。そこで差の大きさをにおわせた」
地雷の宣言を受けたあと、椚先輩は「『一発逆転』は言いすぎじゃないか?」と真兎に指摘した。
それを受けた真兎は何を思考したのか。
次のターン、〈パイナツプル〉か〈チヨコレイト〉で一度勝てば、いまいる二十七段目から三十三段目に上がれる。その後、椚先輩が三十五段目まで下がってくれば自分との差はわずか二段。逆転がますます容易になる――そう考えてしまったのではないか。
「誘いに乗った射守矢は俺を〈被弾〉させるのを先送りし、ジャンケンに勝つことを優先した。射守矢は俺がチョキかパーを出すと思い込んでいるから、どちらにも負けず、かつ勝てば六段上がれるチョキを出してきたわけだ」
地雷の場所も。ジャンケンの手も。
すべてが椚先輩に見抜かれていた。真兎は手中で踊らされていた。
椚先輩は階段を上り始める。もはや真兎には見向きもしない。グ・リ・コ、で三段。これで再び十五段差。ゴールまではわずか四段。
この先のゲームにはどんな展開が待ち受けているか? 椚先輩は四十五段目を避けるためにチョキかパーしか出さないだろう。真兎はチョキさえ出せば安全だが、それを続けると〈あいこルール〉で負けてしまうので、ほかの手も交えつつ勝負に出る必要がある。チョキにグーを合わせるか、パーに変えてきたタイミングでチョキを合わせるか――真兎が椚先輩を追い越して勝利するためには、最低でもその読み合いに四連勝、最悪の場合七連勝しなければならない。これまでの勝率から考えると、そんなことはほぼ不可能だ。
江角先輩の言葉を痛感する。椚先輩は誰にも負けない。誰も勝てない。彼はゲームの達人だから――
ボオン!
その達人の胸元から。
百均グッズの爆発音が鳴った。
「椚先輩、〈被弾〉です。十段下がっていただきます」
塗辺くんの単調な声。椚先輩は一拍遅れて振り返り、カメラの焦点を絞るように敵をにらみつけた。
真兎の顔には笑みが戻っていた。
中三の体育祭の帰り道、私に見せたのと同じ表情。相手の心を見透かすような、したたかにして不敵な微笑み。
「なんか得意げに推理してましたけど……言ったじゃないですか先輩、私は文系だって。数字が苦手だから語呂合わせで地雷を仕掛けておいたんです。死に段に」
「御託はいい」椚先輩はまだ冷静だった。「何をやった」
「“武蔵の法則”ですよ」
ウサギが跳ね回るみたいに、真兎は声を弾ませる。
「最初に私たちが遅れてきたとき、先輩は『六分遅刻だ』って言いましたよね? 五分じゃなく六分と正確に表現した。塗辺くんに対しては『早く始めろ』と進行を急かした。私が挑発したときはポーカーフェイスを崩さなかったのに、外に出るって聞いたとたんはっきりと眉をひそめた。それでほぼ性格がつかめました」
私は第二化学室での様子を思い出す。遅れて登場した者が勝つ、と豪語していた真兎。椚先輩の背中を見つめながら、愉快そうにいちごオレをすすっていた真兎。
「先輩はせっかちで、無駄な行動が大嫌いで、常に正確さを追い求める徹底した合理主義者です。論理的にそうだとしか結論付けられない問題をぶつければ、はめられると考えました」
「……地雷の宣言はわざとか。俺が四十二段目を選ぶことを読んでいたと?」
「そうですよ。全部わざと。先輩だって言ってたでしょ、このゲームの本質は地雷の位置をどう隠すかじゃなく、相手の出す手をどう操るか。差を縮めずにここまで来たのもわざとです。私がチョキを出しても先輩に疑われない状況が必要だったので」
《地雷グリコ》は読み合いのゲーム。行動や発言から互いに情報を集め、地雷の場所を察知した者、ジャンケンの手を操作した者が勝つ。
椚先輩は真兎の発言を読み、論理によって結論を下した。
真兎はそんな椚先輩の性格を読み、偽の情報を与えて結論を下させた。
「なるほど。一杯食わされたな」
椚先輩は浅くため息をついた。足を踏み出し、初めて階段を下り始める。四十二段目から四十一段目へ。四十一段目から四十段目へ。
「油断はなかったつもりだが、さすがだ射守矢。一年生でここまで勝ち上がっただけある」
「どうも~」
「だが、すべて計略だったとすると……成果は中途半端じゃないか?」
三十八段目。三十七段目。手入れのよいローファーが靴音を鳴らす。
「俺の忠告どおり、おまえはもっと差を縮めておくべきだったんだ。俺が下がるのは三十二段目。いまのおまえの位置より五段上だ。俺の有利は変わらない」
三十五段目。三十四段目。私たちの横を通り過ぎる。
先輩の言葉の裏には、この程度では絶対負けないという強い自信が透けて見えた。真兎は困ったように肩をすくめ、「ん~」とうなる。
「五段差ならそうですけどね。言ったじゃないですか、次のターンで逆転するって」
三十三段目。――三十二段目。
「先輩、もう詰んでますよ」
ボオン!
爆発音が鳴った。
時間が凍ったような静寂の中、塗辺くんが淡々と言った。
「椚先輩、〈被弾〉です。もう十段下がっていただきます」
5
「……何を言ってる」
ひびが入るのがわかった。
挑発を受けても、からかわれても、計略にはめられても。それまで傷ひとつつかなかった椚先輩の牙城に、小さな亀裂が走っていた。
「もう十段? 何を言ってるんだ。ペナルティならたったいま消化して……」
「塗辺くーん」と、真兎の軽やかな声。「何かおかしなことある?」
「いえ。何もおかしくはありません」
「先輩はちょっとわかってないみたいだよ。ルールを確認してもいい?」
「どうぞ」
「たしかこうだったよね。『地雷が仕掛けられた段で立ち止まった場合、その地雷を“踏んだ”と見なす』。『相手の仕掛けた地雷を踏んだら〈被弾〉となる』。『〈被弾〉したプレイヤーはペナルティとして、即座にその段から十段下がる』」
「ええ。僕はそう言いました」
地雷が仕掛けられた段で立ち止まった場合――
即座にその段から十段――
「……あっ」
まるで、ハンマーを叩きつけられたみたいに。
亀裂が一気に広がり、鉄壁を誇っていた牙城が粉々に砕けた。
全身から汗が噴き出るときのプツプツという音が聞こえる気がした。椚先輩は強張った顔で真兎を見下ろす。真兎は落ち着き払ったまま、女子高生離れした皮肉まじりの笑みを投げ返す。
「そうです先輩。このゲームは“連鎖爆破”が狙えるんですよ。一発目の地雷の十段下にもう一発仕掛けておけば、自動的に相手をはめられるんです」
真兎は四十二段目と三十二段目に地雷を仕掛けていた。四十二段目の地雷を踏んだ椚先輩はペナルティで十段下がり、三十二段目で立ち止まった。そして二発目の地雷を踏んだ……。
「馬鹿な」椚先輩の声が上ずる。「ありえない。そんな単純な手、なぜいままで……」
「気づかなかったのか? しかたありませんよ。私が魔法の言葉を仕込んでおいたので」
「……魔法の?」
「さっき先輩が指摘したじゃないですか。地雷設置のときの一言ですよ」
メモ用紙を受け取りながら、真兎が塗辺くんに尋ねた一言。
――ねえねえ。この階段って、全部で何段?
「あの一言によって、先輩は私が階段の後半に地雷を置くつもりだと思い込みました。そしてこう考えたはずです。ならば自分は階段の前半に地雷を置こうと。なぜなら、後半に仕掛けたら私と数字がかぶる可能性があるから。数字がかぶったらその段は設置し直し。設置し直しになったら私が段を変えるかもしれず、自分だけが手にした敵の地雷の位置という情報が無駄になってしまう。先輩はそんな不合理なことはしません。性格上絶対にできません」
真兎は一歩ずつ、言葉の奥底に踏み入ってゆく。
「そもそも前半の地雷にはメリットがあります。序盤で地雷にはめて差をつければ〈あいこルール〉で勝ちやすくなり優位に立てますから。実際、誘導するまでもなく前半に仕掛けるつもりだったでしょ? まあ何はともあれ、先輩はそうやって階段の前半に意識を集中したわけです。視野が十~二十段目に狭まれば、当然“連鎖爆破”は思いつきにくくなります。万が一思いついてそれを仕掛けられたとしても、十~二十段目からの“連鎖”なら私の受ける被害は最小限で済む。スタート地点より下には下がれませんからね」
先輩が話を理解したかどうかは定かでなかった。両手を真横に垂らしたまま、魂を抜かれたように微動だにしない。私と江角先輩も衝撃に打ち震えていた。
ゲーム開始直前を思い出す。私が「勝てそう?」と聞くと、真兎は「先輩がうまく地雷を踏んでくれればいいけど」と答えた。まだ始まってもいないのになぜ余裕綽々なのだろうと私はあきれた気持ちになった。
違ったのだ。
あのときすでに真兎は攻撃を終えていた。椚先輩は地雷を踏んでしまっていた。真兎の仕掛ける戦略に気づけないよう、その戦略を横取りされないよう、無自覚のうちに思考を誘導されていた。
――この階段って、全部で何段?
あの一言こそが地雷だったのだ。
「椚先輩」
三十二段目で立ち尽くしていた先輩に、塗辺くんが声をかけた。
先輩はみなまで言わせず、おぼつかぬ足取りで階段を下り始める。三十段目を過ぎ、真兎のいる二十七段目に近づいてゆく。
「まだだ」
プライドを持った男の、勝負をあきらめない声が漏れ聞こえた。
「二十七段と二十二段。まだ五段差だ。一ターンでも逆転できる。俺なら簡単に……」
言葉が途切れた。
椚先輩がそれに気づいたのは、真兎と同じ二十七段目に並んだ瞬間だった。
「い……射守矢」
真兎はもう軽口を飛ばさず、エスコートするようにうなずきかけた。悪魔に魅入られた先輩はふらふらと階段を下りていく。敵の名前だけをうわ言のように呼び続ける。
「射守矢……」
仕掛けた地雷は、全部で三発。
真兎の地雷はいくつ明かされた? 四十二段目に一発あった。三十二段目にも。もう一発は、四十五段目?
違う。真兎の最後の地雷はまだ階段のどこかに隠れている。
連鎖爆破は終わっていない。
「いもりやあぁ……!」
屈辱を吐き出すようにうめきながら、椚先輩が二十二段目を踏んだ。
ボオン!
「椚先輩、〈被弾〉です。もう十段下がっていただきます」
真兎の予言どおり、一発逆転が起こっていた。
圧倒的優位に立ち、ゴール直前だった椚先輩。その彼が一気に三十段のペナルティを食らった。最終的に下がることになった位置は十二段目。対する真兎の位置は二十七段目。
両者の差は、
「じゅ、十五段差……」
「二人とも地雷は出尽くしてる。この先大きな逆転はない」江角先輩が呆然と言った。「射守矢の勝ちだ」
差を縮めずにここまで来たのもわざとです。真兎はさっきそう言っていた。チョキを出しても疑われない状況を作りたかったのだと、そう明かしていた。
本当に、それだけの理由だろうか。
十二段目と二十七段目。ひょっとして彼女は、自分が序盤でつけられた十五段差を先輩にやり返すため、立ち位置まで計算していたのではないか――
「先輩、当日はカレー店〈ガラムマサラ〉にお越しくださいね」
真兎は椚先輩を振り返ることなく、私と、その先のゴール地点を見上げた。黄昏色の空が、鳥居の朱色とまじり合うようだった。
「屋上で待ってますんで」
6
前庭で、女バスの部員たちがブレイクダンスを披露している。
校舎の壁には看板や風船が飾りつけられ、いつもより少しだけ面白味が増している。飲みものやパンフレット片手に行き交う人々。体育館の中から聞こえるバンドの演奏音。そしてひときわ高いこの場所には、食欲をそそる香りが漂っていた。
「盛況だな」
「あ」
レジ横で一息ついていると、新たなお客さんが来店した。「二名様ごあんなーい」と営業スマイルなしで言い、屋上を見回す。混む時間帯だが運よく二人席が空いていた。
「ほんとに来るとは思いませんでした」
「敵情視察だよ。てるてる坊主逆さに吊るしといたのに、晴れたなあ。残念だ」
「看板の結び方が悪い。風で飛んだらどうする。もっと補強しておけ」
縁起でもないジョークを飛ばす江角先輩と、小姑みたいな椚先輩。厨房スペースの真兎に声をかけると、相変わらずの身軽なステップですっとんできた。色白な肌にサリー風ドレスがやたらと似合っている。
「どうも先輩ようこそ〈ガラムマサラ〉へ。見て見てこの衣装ヤバくないですか。手作りですよ」
「カレーライスの普通盛りを二つくれ」
「先輩のことだからどうせ無難な注文をするだろうと思ってすでに用意してあります」
手際よくライス皿とカレー(例の銀色のランプっぽい容器に入っている)を並べる真兎。椚先輩は苦虫を嚙み潰したような顔になる。もはや微笑ましいなとか思いつつ私は江角先輩と話す。
「〈キリマンジャロ〉は繁盛してます?」
「オープンカフェじゃなくなったからな。去年よりは客が減ったけど、まあぼちぼち。さっき塗辺が来たよ。彼女と二人で」
い、意外な事実が判明した。人は見かけによらない。
「さあどうぞご賞味あれ」
真兎がカレーを並べ終えると、先輩たちはスプーンに手を伸ばした。二人同時にカレーをすくい、二人同時に「うん」と一言。
「……いかがですか」
「委員会に、来年から運営規則を変えるようかけ合ったほうがいいな」
「一理ある。屋上でしかこれが食べられないのは問題だ」
素直でない感想を述べ合ったあと、江角先輩は小さく噴き出し、椚先輩も口元を緩めた。私と真兎も顔を見合わせ、笑う。調理スペースから立ち昇る湯気が青空に溶けてゆく。
馬鹿と煙は高いところが好き。
しかしこの場所からの景色は、なかなかどうして馬鹿にできないのだった。
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
書誌情報
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