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17歳、旅に出る

(一)
 人生の中で17歳は、特別の意味のある年齢なのだろうか。残念ながら自分の17歳の日々を大して覚えていないのだけれど、世の中を見渡すと17歳というのは、この社会の中での自分の位置を模索して葛藤する時期であり、その葛藤にほぼ決着のついてくる時期のようである。この頃に彼らは、親からの精神的な自立を果たすだろう。しかし内なる葛藤の形は人の数だけ存在する。

 わが家の息子たちの中で先頭を切って17歳にあいなった人、長男。夏も近づく頃に彼は唐突にこう言いだした。
「夏休み、自転車で京都に行ってくるから。」
わが家の位置する関東の町から京都までは約470キロ。
「1日100キロで、5日間だな!」
とチャリ旅の先輩には言われたそうだ。先輩はその昔、アメリカでのチャリ旅も経験しているツワモノであった。翻って長男は、片道15分の自転車通学以外に特にトレーニングなどはしておらず、毎日している筋トレもほぼ上半身のみ、余暇は家で過ごすことを愛する超インドア派である。それが夏前のキャンプでたまたま一緒になった先輩2人の体験談とアドバイスに感化され、スイッチを押されてしまった。なぜまた京都なのかと尋ねれば、
「日本と言えば、京都でしょう?」
と言うが、どうやら最近観たアニメの舞台が京都だったとかいうことらしい。
「この猛暑にわざわざそんな暑いとこ目指さなくても、もっとどっか涼しいほう行けば?」
とだけ、一応緩く助言をしてみたが、京都という彼の行き先はゆるぎなかった。
「リョウスケがせっかく行くと決めているんだから、止めない方がいい。」
と父親である夫が言ったので、頭にちらつく「熱中症」の3文字を私はそっと引っ込めた。

 最初の種まきをしたのは母親である私のようだ。彼が中学2年で二度目の不登校をして引き籠っていたある日、知人の勧めもあって、自転車旅関連の雑誌とマップを3冊ほど買ってそぉーっと彼の本棚に入れておいたのだった。その分野に全く明るくない母親の選書はハチャメチャであったはずだが、要は種まきである。この種はいずれ目を出すことがあるのかないのか、ほとんどイタズラのようなノリであったと思う。

 彼の最初の不登校は小5の二学期からで、担任の先生へのレジスタンスと、親を試すため、「俺、二学期から不登校するわ」との夏休み中の宣言により始まった。その頃の彼は社会に対し少し突っ張った心持ちで、しかし恐る恐る対峙していた気がする。学校に行かない代わりに、ボランティアやフリースクール、習い事などで週5日間予定が埋まり、「出かける不登校」を1年半余りやり遂げて「卒業」した。その時の彼は友達よりもはるかに多くの場所を卒業したのだった。ありがたいことに彼は、自分を支えてくれるたくさんの大人たちにほんとうによく恵まれた。それは私たちが住んでいる地域のコミュニティの力もあるが、彼自身の才能ではないかと思っている。彼の居場所となり導いてくれた大人たちは、私の数多くの種まきの中から彼自身が選び取り、彼自身の力で関係性を築いていった人たちだったのだから。

 このまま中学も行かないと言っていたのを覆したのは、小6の年末だった。
「やっぱり俺、普通に中学に行きたい。青春がしたい。」
そう言った。普通ではない「出かける不登校」を頑張るのも実はしんどかったのだと。プライドの高い彼は勉強が遅れたままで中学に入学する自分を許さず、Nさんに家庭教師をお願いして残りの3か月間猛勉強をした。Nさんこそ、冒頭のチャリ旅の先輩であり、今の彼にとっての「人生の師」とも言える人物なのである。この歳で人生の師と呼べる人に出会えていることは素晴らしいし有難いことだが、早い子にとっては「師弟関係を結ぶ」のがやはり17歳頃なんだろうとも思う。

 しかし彼の中学校生活における青春は1年しか続かなかった。小さな挫折をして彼は学校に行かれなくなったのである。二度目の不登校は彼にとって挫折であっただけに、約1年間、家に引き籠った。私たちはそっと引き籠らせた。自転車の雑誌をそっと本棚に忍ばせた以外は。元来優しい性格の彼は親に対して反抗らしい反抗をしなかったが、その頃の彼は少し無口だった。第一、昼夜逆転の生活をしていて、顔を合わせる時間も少なかった。しかし重要な局面では相談や話をしてくれるなど、母親の私にはかろうじて心を開き続けてくれたことは、私たちに最後の安心の綱を残していた。彼は本棚の自転車の雑誌を片目でちらっと見やっただけだった。

 代わりに、中3になる直前に言い出したのは、
「4月からじいちゃんばあちゃんちで暮らす。そこから電車で『フリースペースえん』に通う。」
「フリースペースえん」は、彼の小学校時代の不登校時に私が蒔いた種の一つで、特に私が惚れ込んで一押ししたが、通うのに遠かったため採用されなかった場所である。確かにじいちゃんばあちゃんちからは電車で20分と通いやすかった。こうして彼は15歳の元服にして実家を出た。

 その時、彼に対する私の「子育て」は終わったのかもしれない。高校入学とともにまた実家に戻ってきた彼との関係はとても穏やかなものに変わっていて、彼は私にとって「叱る対象」ではなくなっていた。私たちではなく彼が、自分から家を出ることで、私たちとの関係を変えたのだと思っている。このときから私たちは安心して彼の人生を見守ることができるようになった。そんなわけで、急に言い出した京都へのチャリ旅も、「あの時蒔いたショボい種が!」とほくそ笑むことはあっても、一切反対はしなかったのである。

 彼はそれまでに貯めた小遣いやバイト代をはたいて、チャリ旅の必需品やキャンプ用品を買い集め始めた。Nさんが貸してくれた自転車のサイドバッグに入るだけ。野宿ができる最低限の装備と、やはり3食買い食いはできないからと、お一人様キャンプ用のミニカセットコンロとNさんに借りた鍋2つ。米は自宅から10合持参する。油と塩コショウ。500mlペットボトル2本に水を入れて。あとの食べ物は現地調達。練習を兼ねて、自宅から往復約70キロの「フリースペースえん」への往復を3回行った。旅での一日走行目標距離が最低そのくらいだった。

 初チャレンジにしては高すぎる目標。途中でリタイアしたらカッコ悪いからと、プライドの高い彼は旅のことをあまりたくさんの人に話さなかった。それでも多くの人が温かく激励し、カンパもくださったという。特筆すべきはNさんに連れられてよく食べに行くラーメン屋の店主が、
「絶対に1泊はホテルに泊まりな。そして、野宿との違い、ありがたさを感じて来な!」
と、気前よく5,000円手渡してくれたそうだ。恐縮して受け取った長男は、「絶対に5回は俺一人でラーメン食べに行く。」
と心に誓った。また、彼の自転車を買った近所の自転車屋の店主がたくさんのアドバイスをしてくれた他、旅用の空気入れを貸してくれるなど、ずいぶんと寄り添ってくださった。

 そして2021年8月2日の朝7:00、彼は出発した。自転車の大きな荷物と彼の背中を見えなくなるまで見送った。最初に大きな峠を越えていく。外での寝泊まりも、食べ物の調達や準備も、衣服の洗濯も、スマホの充電も、太陽も、雨も、風も、登り坂も下り坂も、見える景色も、コンビニも道の駅もスーパーも、吉野家もマックも、すべてが彼の人生に刻まれる体験となるのだろう。そして向き合うは、甘えか、プライドの高さか!さあ、行っておいで!


(二)
 台所で料理をしていると、突然ガチャリとドアが開き、
「ただいま~!」
という感慨深げな明るい声とともに長男が帰ってきた。あれ、今夜帰る予定とは言ったが、予定時刻よりも2時間近くも早い。出迎えの晩餐の用意がまだできていない私は焦りながら玄関へ駆け寄る。2021年8月15日の夜20時25分。顔も体型も見違えるほど引き締まった満面の笑みの長男は、全身が見事にずぶ濡れだった。玄関で脱いだ雨合羽の中の服もびしょびしょ。
「おかえり!カッパ着てても服が濡れるんじゃ、カッパの意味ないね?一番性能がいい高いやつ買ってもダメだった?」
「うん、カッパは強すぎる雨には意味ないみたい。」
と長男は笑う。

 当初の予定では、7日間かけて京都に到着し、2,3日観光をして、帰りは10日間くらいかけてゆっくり帰ってくるつもり、だけど行ってみないとどうなるかわからないよ、と言っていた。実際は宣言通り7日目の8月8日の夕方に京都に到着。京都で3泊して、11日の午後15:30頃から今度は自宅を目指して漕ぎ始めたのだった。「17、18日に帰宅予定」との連絡を受けたが、復路は雨続きの悪天候で予定より少し遅れるのではないかと予測した。ところが、この大雨の中どんな驚異的な漕ぎをしたのか、本人もびっくりの速さで予定を2日も縮めての帰宅を果たした。全部で13泊14日の旅であった。

 どうであってもまず、やり遂げたことがすごい。そして予想外の速さの理由については、帰りの道が走りやすかった(行きは山側、帰りは海沿いの道を使った)ことと、もう一つ、
「それは『実家パワー』だよ。もうすぐで家に帰れる、っていう意識でめっちゃやる気が出たから。俺の旅の目的地は実家だからね!」
だとか。何とも照れ臭くなるようなことを言ってくれるじゃないか。その「実家パワー」がよほど効果抜群だったようで、最終日の今日は1日でなんと137キロ、往路の2日分を漕いできたというのだから、かわいい。しかし、17か18に帰ってくるつもりでいた他の家族は祖父母の家に泊まりに行ってしまっていて、長男を出迎えることができたのは私一人であった。考えてみれば、見送りも出迎えも母親一人、それも何か意味のある巡り合わせだったのかもしれない。

 全身の服だけでなく、玄関に下したサイドバッグから出す全ての荷物が完全に濡れていた。カッパの中が濡れるんじゃ、財布も水浸しになるのも仕方ない。水に濡れたお札をレジで出すのが忍びなかったと言う。スマホは一度、水濡れで壊れてしまったと公衆電話から連絡があった。その時に父親に怒られてジップロックを買った。運よくスマホはSIMカードを入れ直したら復活したとのこと。最後まで連絡が取れた。しかし雨で濡れたジップロックの上からではスマホの暗証ロックの解除ができず、スマホは見られなかった。
「濡れてない物がないから、画面拭けないんだもん。」
持って行った小説もふやけて分厚くなり、
「読み応えがありそうになった。」
と笑う。使った鍋や食器を拭いたり、鼻をかむのにとても重宝したというトイレットペーパーも水を含んで重い塊と化した。途中で捨ててくればいいのに、律義に持ち帰ってきた。家から持って行ったカセットボンベや財布の金具、そして大切な自転車も錆びた。思い出の無垢の箸も3日間濡れっぱなしでカビの色に黒ずんでしまった。

 3日間、全身ずぶ濡れのまま自転車を漕いで、公園で野宿をする。
「一度濡れちゃえば気にならなくなるもんだよ。」
という息子の言葉が信じられなかった。全身濡れてて寒いから、着替える気にもならなかったのだと言うが。1泊だけ泊まったホテルの浴槽で足踏み洗濯した着替えも、晴れたらこっちに着替えようと思っていたら、ずっと雨のまま家に着いてしまったのだと。靴も靴下も3日間濡れっぱなしだ。ふやけ切った足指の皮は、隣の指の爪によってえぐられて傷ついていた。いったい、高度な文明社会に暮らす私たちにとって、3日間もの間衣服も靴も濡れっぱなしで過ごすなどということが想像できようか。なかなかの得難い体験である。

 一番辛かった「最悪の夜」の話をしてくれた。それは12泊目の寝床にした静岡県浜松市の公園でのこと。ちなみに今回の野宿の装備は、2本の木にロープを張り、そこに蚊帳を吊るして4本の杭で固定、蚊帳に目隠しと雨除けのためのタープを掛けてそれも4本の杭で固定、その中にマットを敷いて寝るというもの。

 その日は大雨に強風で、タープが杭ごと引き抜かれて何度も風に持っていかれた。自転車も何度も倒された。それらを直す度に、びしょ濡れの靴を履かなければならなかった。おまけに自炊しようにも火がすぐに消されてしまう。
「あんときはほんっとイライラした!めっちゃ怒って、料理も諦めて、全部撤去して遊具のドラム缶の中で寝た。」
ドラム缶の中は風がなくて快適に思えたが、たくさんのナメクジと寝床を共にするのが少々気持ち悪かった。

 「正直、辛いことの方が多かった」と語る今回の旅で、大人が筆頭に考える「濡れっぱなしであることの不快」は本人にとっては大したことではなく、辛いことの筆頭は「坂」だったと言う。そして、この旅で一番印象に残ったことも、「坂を登り切ったときの嬉しさ」であったと言う。
「坂を登り切って下りに入る瞬間は、今までに味わったことのない最高の気分だったよ。」

 中でも一番きつかった笹子峠は、2時間ずっと登り続けたそうだ。
「何が辛いって、車が一台も通らないことだよ。」
「そりゃ、みんな笹子トンネル通るからね。え、チャリは通れないんだっけ?笹子トンネルは。」
「いや、通れたと思うけど、俺はわからなくてナビの言うとおりにしたら峠の方に行っちゃったの。分岐点でバスの運転手さんに『頑張れ~』って手を振られたよ。そこから車が一台も通らないの!もちろん自転車も。目に入る人工物はガードレールとコンクリートの道だけで、どこまで続くのかもわからなくて、肉体的ではなく、その孤独感に精神的にやられた。」
そう、この旅では孤独が思いのほか辛かったそうだ。
「もう、コンビニの店員さんに『ありがとうございます!』って言うのだけでも嬉しかったもん。」

 出発1日目にして笹子峠による洗礼を受け、以来、坂を前にすると心が折れそうだったが、挑んで登り切ったときの爽快感はやはり格別だった。坂が少ないはずの帰りの海沿いルートで坂が現れるとブチキレるも、最終日には道志村の峠も含む137キロを悠々制覇したのだから、君は坂を克服したよ。

 一番危なかった場面は、片側交互通行の場所で追い抜いていく車のスピードが思いのほか速かったから、危ないと思って止まったら、積んでいる荷物が重すぎたせいか車体の後部が車道の側に思い切り吹っ飛んだ時だった。自分の体は歩道にあったから自分は死ななくても、危うく事故を巻き起こすところだったと振り返る。

 その時、スマホが投げ出され、カバーが外れた。渋滞が起こっていたので慌てて拾ってその場を去ったが、だいぶ行ってから、スマホとカバーの間に挟んであった電磁波を軽減するチップを落としてきたことに気づいた。それは私が買い与えたものだった。
「お母さんにもらった丸い電磁波カットのやつ、なくなっちゃった。ごめんなさい…」
とLINEが来た。
「もう不要になったんだよ、気にしないで。」
と返事したが、なんと帰り道もその小さなチップを探しながら走っているという。そんなバカな。
「そんなもの探さなくていいから、もっと違うものを見て走って!」
と伝える。
「そう言ってもらえると嬉しいけど、俺が悪いから……。
ごめんなさい、ごめんなさい。
なんでだ、なんで気づかなかったんだ。
ごめんなさい。
海沿いで帰ったら絶対にもう見つけられない。
そう思うと、悪くて悪くて。
精神状態が不安定なのかな?」
「あの子は1年以上、君のスマホと一緒にいて、最後に君を守って役目を終えたんだよ。もう忘れていいよ。海沿いの道を楽しんできな。」
「ごめんなさい。
ありがとう、気が楽になった。忘れはしないけどね。
なんか旅だと物を置いていけない。
家から水を入れてきたペットボトルもまだ持ってるし。
分かった。ありがとう。
もう見つけられないし、
海沿いで帰る。
ありがとう。」

 ペットボトルなんて、空になったら捨てるものだよ。でも家から持って出たペットボトルは、彼にとって、家との繋がりなんだろうね。
「ペットボトル、捨ててもいいという気になったら捨てれば?」
「わかった。そうする。
旅に出てまでお母さんに泣き言とは、
母親離れは出来そうにないぜ。」

 何とも母親冥利に尽きる一言。これは絶対に面と向かっては言えない言葉で、インターネットを介してこそ生まれたやり取りだった。まだまだ泣き言ぐらい言ってくれ。受け止めちゃる!

 彼は結局、空になったカセットボンベも、家からのお供にしたペットボトルも持ち帰ってきた。飲料はもちろん買いはしたが、公園などで必ずペットボトルに水を補充して飲み水に充てていたようだ。傷だらけになったそのボトルの蓋を見てきゅんとなった。持ち帰ったその水でお茶を淹れて二人で飲んだ。

 出迎えの晩餐は夫の提案で、おにぎりと豚汁を用意した。彼はなんとおにぎり5個を平らげ、それでも足りなくてどんぶりにご飯を2杯お替りした。もともとよく食べる子だったが、旅に出てからその倍は食べるようになっている。道中の食生活の話を聞いてさらに仰天する。しかし、三日三晩濡れっぱなしだったのに風邪ひとつひかず、帰宅翌日も元気に過ごしているところを見ると、この驚異の食欲はちゃんと体力に結びついているようだ。

 京都で彼は自分へのお土産に、扇子と風鈴を買ってきた。風鈴の入っている包みは包装紙ごとぐしょ濡れで、風鈴に結びつける短冊も濡れて千切れていた。

 京都で世話になった自転車屋さんで、ご家族の高齢のおばあちゃんが「コロナに罹らないように」との願いをこめて毎日折っている折り鶴をくださったそうだ。潰れないように空気を満たしたビニール袋に入れて持ち帰ったその鶴は濡れなかった。風鈴の先に結ばれた鶴は風に舞い、夏が来る度にこの旅のことを長男に思い起こさせるのだろう。

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