橘樹 啓人

自身の経験や価値観に基づいた小説を主に書いています。現在、京都を舞台にした小説「きみの…

橘樹 啓人

自身の経験や価値観に基づいた小説を主に書いています。現在、京都を舞台にした小説「きみの手、ばりきれい」を連載中。「小説家になろう」、Kindleなどでもオリジナル作品を投稿しています。

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小説「きみの手、ばりきれい」#5

 学生会館正面の教務棟の前には、帰宅学生による蜿蜿長蛇の列ができている。それを見て俺は、食堂でわざわざ時間潰しなどする意味のなかったことを知った。  俺は、腹の底から湧き上がる私憤を燃やし、列に並んだ。明坂の誘いを断っておけば、あと三十分ははやく帰宅できたのに、と嗟嘆しながら。  学生たちの行列は、少しずつゆっくり前に進む。本当に「少しずつ」進むのだ。  四限終わりは山科直行の便も多く、五分間隔くらいで直通バスが運行しているのだが、一向に前進しない。その原因は、ほとんど毎日

    • 小説「きみの手、ばりきれい」#4

       四限終わり、俺は明坂と会う約束をしていたので、学生会館二階の学生食堂に行った。  天井には何のためか、正方形の鏡が何枚も連結し、それが幾何学的なジグザグ模様に嵌め込まれている。床はひし形模様のフローリングで、壁はレンガ造りとなっており、ここに学生しかいないことを除くと、西洋風の洒落た喫茶店のような構造である。  普段、俺は昼食はコンビニのパンかおにぎりで済ませることが多く、個人で食堂に行く用事もないので、来るとしたらゼミ発表の打ち合わせか、誰かに呼ばれたときくらいなもの

      • 小説「きみの手、ばりきれい」#3

         一限目の民俗学の講義を、俺は夢うつつに聞いていた。昨晩は夜三時過ぎまで過去問題集と睨めっこしていたため、十分な睡眠が取れなかったのだ。教授の長ったらしい論説をうつらうつらしながら聴講していると、不意に「オオヤケハイジ」という言葉が聞こえた気がして、俺ははっと目を開けた。  昨日、明坂がそんな名前の遺跡の話をしていた。もしかするとここで詳細が聞けるのではないか、という若干の期待が膨らみ始め、眠気という奈落の底に沈みかけていた俺の意識は、一気に覚醒した。  しかし、講義内容

        • 小説「きみの手、ばりきれい」#2

           古来より、あらゆる人間科学において、「人間の手」というのは限りなく高尚な研究テーマの一つである。この世には、およそヒトの手とは思えないほど美しい手を持った人間がいるという。それは数世紀に一度、我々の世界へ顕現すると言われ、昔の偉い研究家によって「神の手を持つ人」と名付けられた。砂漠地帯に突如として現れる朝陽のように眩く、真夏の太陽を照り返す碧海のような、言葉ではとても言い表せないほどの美しさを備えた手。古今東西、津々浦々、遍く探し歩いても見つけられないとされる幻の存在。

        小説「きみの手、ばりきれい」#5

          小説「きみの手、ばりきれい」#1

          「君におすすめしたい場所があるんだよ」  これまでの会話の流れを切るように、何の脈絡もなく、明坂がいきなり言い出した。 「大宅廃寺っていうんだけど」 「なんだって?」 「お、お、や、け、は、い、じ」  明坂は妙な抑揚をつけて、繰り返した。  一限目の英語が定刻より早く終わって、まだ閑散としている第一館の廊下を、同じ教室で授業を受けていた明坂と一緒に歩いている。  彼は顔面に少年のような青臭さを残し、男子大学生の平均身長よりもやや低く、加えて顔立ちも幼いので、中学

          小説「きみの手、ばりきれい」#1

          小説「きみの手、ばりきれい」プロローグ

           世の中の安寧を伝えるような、滔々と流れる川の音。春の温順な気候、代わり映えのない晴天。南から吹く心地良い爽風が、俺の頬を掠めていく。  京都市山科区から南西へ縫うように走るその川は、山科川という。京都では鴨川や宇治川、桂川などが耳慣れた河川として名を馳せるが、それらと比較して知名度こそないものの、山科川も心が休まる穏やかな小川である。  遠方から鶯の囀りが聴かれ、川のせせらぎが日々の鬱屈とした苦悩を洗い去るように、疲弊した心と耳を癒やしてくれる。  旧安祥寺川を支流に

          小説「きみの手、ばりきれい」プロローグ