橘樹 啓人

自身の経験や価値観に基づいた小説を主に書いています。現在、京都を舞台にした小説「きみの…

橘樹 啓人

自身の経験や価値観に基づいた小説を主に書いています。現在、京都を舞台にした小説「きみの手、ばりきれい」を連載中。「小説家になろう」、Kindleなどでもオリジナル作品を投稿しています。

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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#11

 五月初旬の連休は、下宿にこもって脇目も振らず、机にかじりついていた。  帰りのバスのなか、ゴールデンウィークにどこへ行くだの、巷で話題のあのB級映画を見に行こうかだの、俺にとって心底どうでもいいことを囁き合っている学生に対し、嫉妬や悵恨の情を催したりしたものだが、あらゆる煩悩を撥ね退けてこそ、努力は結実するのだ。四月末の全国マーク模試が終わって一息つきたい欲をぐっとこらえ、休講中は勉学に専念しようと、俺は我が心に誓った。  そうやって決意したまではよかったのだが、四連休も

    • 【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#10

       午後十二時過ぎ、ゼミ授業がある第八棟に着いた。  個人発表で配るレジュメは行きがけに印刷するつもりだったが、立ち寄ったコンビニのプリンターにUSBを挿し込んだところ、当該ファイルの拡張子は出力対象外らしく、外部デバイスからは印刷できなかったので、俺はげんなりと肩を落としつつ大学に向かう羽目になった。  教室に入ると、前列の席でノートパソコンを開き、作業をしている摂津さんがいた。彼女のほかには、学生の姿は見えない。  集中している様子だったので、無視してそのまま席に着こうか

      • 【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#9-2

         集合時間はとっくに過ぎたのに、待っていても依然ほかのメンバーは一向に集まらない。さすがに少し焦燥を覚え始め、食堂の出入り口付近を振り見たところ、かなり目立つ格好で目につく動作をしているやつがいた。俺は自然と目が留まり、そいつに目を凝らした。  真黄色のジャンパーを着た、長身の男だった。それも、今しがた登山にでも行ってきたかのような大きいリュックを背負い、さらに鯉柄の風呂敷包みを抱え、それを泥棒みたく首に巻きつけている。  そんな怪しさ全開のやつが、入り口のあたりで所在なげ

        • 【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#9-1

           四限終了のチャイムが聞こえ、俺は静かに図書館を出た。明坂と落ち合うため、渋々教務棟へ向かう。  平穏だった俺の生活に暗雲が立ち込めてきた……とまでは思わないが、不穏な雰囲気が漂い始めたと感じるには十分な出来事だった。  果たして、あれは本当に偶然だったのか? 考えすぎだと笑われても仕方がない部分はあるにしても、どうも胸の中が台風接近間近の森林のごとく、ざわざわするのである。  正直、蓮実さんが本を届けてくれなかったら、彼女の部屋に置き忘れたことを、次のゼミに出席するまで

        【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#11

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#8

           俺個人のカリキュラムでは、午後からの授業は一コマだけだったので、四限の終わりに教務棟の前で明坂と落ち合うことになっていた。俺は三限目の『東洋美術史』の講義に出たあと、明坂との待ち合わせ時間まで、構内の図書館で時間を潰すことにした。 『地域研究』という全クラス合同の特別授業では、三つのグループに分かれ、それぞれの班で『京都三大祭』をテーマに発表しなくてはならない。この後、そのメンバーたちとの顔合わせがあった。  数日前、明坂との雑談の中で、俺がうっかりそのことを零してしまっ

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#8

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#7

           地下鉄山科駅の、コンビニや雑貨屋に囲まれた駅前プラザから、脇にそれて沿線の狭い道を進んでいく。一筋目の角を左に折れ、奥まった路地に入る。すると、突き当たりに五階建てのワンルームマンションがある。色合いも外観も極めて地味だが、一目見てそれとわかるほどには、マンションの体を成している。そこの五階にある一室が、俺の下宿である。  一部屋の面積は約十三帖。つまり約二十一平方メートルで、坪に換算すると六・五坪ほどである。蓮実さんの下宿と比較すると、狭く感じないこともないが、一人で生

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#7

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#6

           俺は、自分の進路について納得がいっていなかった。納得がいっていないというか、ほかに行きたい大学があったと言うべきか。これといって特に表立った理由はなく、俺にとって難関ならばどこでもよかったとも言える。  俺が自身の進路を語る上で、まず、俺の家族構成について触れておきたい。  高校時代までの俺は、両親と五つ年上の兄、そして父方の祖父母と一緒に、大阪高槻の実家で暮らしていた。父母ともに大学教授として別々の大学に勤務しており、兄は今年から京都にある某国立大学医学部のM1である。

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#6

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#5

           学生会館正面の教務棟の前には、帰宅学生による蜿蜿長蛇の列ができている。それを見て俺は、食堂でわざわざ時間潰しなどする意味のなかったことを知った。  俺は、腹の底から湧き上がる私憤を燃やし、列に並んだ。明坂の誘いを断っておけば、あと三十分ははやく帰宅できたのに、と嗟嘆しながら。  学生たちの行列は、少しずつゆっくり前に進む。本当に「少しずつ」進むのだ。  四限終わりは山科直行の便も多く、五分間隔くらいで直通バスが運行しているのだが、一向に前進しない。その原因は、ほとんど毎日

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#5

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#4

           四限終わり、俺は明坂と会う約束をしていたので、学生会館二階の学生食堂に行った。  天井には何のためか、正方形の鏡が何枚も連結し、それが幾何学的なジグザグ模様に嵌め込まれている。床はひし形模様のフローリングで、壁はレンガ造りとなっており、ここに学生しかいないことを除くと、西洋風の洒落た喫茶店のような構造である。  普段、俺は昼食はコンビニのパンかおにぎりで済ませることが多く、個人で食堂に行く用事もないので、来るとしたらゼミ発表の打ち合わせか、誰かに呼ばれたときくらいなもの

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#4

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#3

           一限目の民俗学の講義を、俺は夢うつつに聞いていた。昨晩は夜三時過ぎまで過去問題集と睨めっこしていたため、十分な睡眠が取れなかったのだ。教授の長ったらしい論説をうつらうつらしながら聴講していると、不意に「オオヤケハイジ」という言葉が聞こえた気がして、俺ははっと目を開けた。  昨日、明坂がそんな名前の遺跡の話をしていた。もしかするとここで詳細が聞けるのではないか、という若干の期待が膨らみ始め、眠気という奈落の底に沈みかけていた俺の意識は、一気に覚醒した。  しかし、講義内容

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#3

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#2

           古来より、あらゆる人間科学において、「人間の手」というのは限りなく高尚な研究テーマの一つである。この世には、およそヒトの手とは思えないほど美しい手を持った人間がいるという。それは数世紀に一度、我々の世界へ顕現すると言われ、昔の偉い研究家によって「神の手を持つ人」と名付けられた。砂漠地帯に突如として現れる朝陽のように眩く、真夏の太陽を照り返す碧海のような、言葉ではとても言い表せないほどの美しさを備えた手。古今東西、津々浦々、遍く探し歩いても見つけられないとされる幻の存在。

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#2

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#1

          「君におすすめしたい場所があるんだよ」  これまでの会話の流れを切るように、何の脈絡もなく、明坂がいきなり言い出した。 「大宅廃寺っていうんだけど」 「なんだって?」 「お、お、や、け、は、い、じ」  明坂は妙な抑揚をつけて、繰り返した。  一限目の英語が定刻より早く終わって、まだ閑散としている第一館の廊下を、同じ教室で授業を受けていた明坂と一緒に歩いている。  彼は顔面に少年のような青臭さを残し、男子大学生の平均身長よりもやや低く、加えて顔立ちも幼いので、中学

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#1

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」プロローグ

           世の中の安寧を伝えるような、滔々と流れる川の音。春の温順な気候、代わり映えのない晴天。南から吹く心地良い爽風が、俺の頬を掠めていく。  京都市山科区から南西へ縫うように走るその川は、山科川という。京都では鴨川や宇治川、桂川などが耳慣れた河川として名を馳せるが、それらと比較して知名度こそないものの、山科川も心が休まる穏やかな小川である。  遠方から鶯の囀りが聴かれ、川のせせらぎが日々の鬱屈とした苦悩を洗い去るように、疲弊した心と耳を癒やしてくれる。  旧安祥寺川を支流に

          【連載小説】「きみの手、ばりきれい」プロローグ