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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#9-1

 四限終了のチャイムが聞こえ、俺は静かに図書館を出た。明坂と落ち合うため、渋々教務棟へ向かう。

 平穏だった俺の生活に暗雲が立ち込めてきた……とまでは思わないが、不穏な雰囲気が漂い始めたと感じるには十分な出来事だった。
 果たして、あれは本当に偶然だったのか? 考えすぎだと笑われても仕方がない部分はあるにしても、どうも胸の中が台風接近間近の森林のごとく、ざわざわするのである。

 正直、蓮実さんが本を届けてくれなかったら、彼女の部屋に置き忘れたことを、次のゼミに出席するまで気づかなかったかもしれない。それ自体は、非常に有り難いことだ。だが、それで本当に納得してしまっていいものだろうか。
 教務棟前のベンチに腰掛け、そんな益体もない疑問を抱え、一人で物思いに耽っていると、教務棟のガラス戸が開いて、建物から誰かが出てくる気配がした。

「やあ、相変わらず、浮かない顔をしてるね。女の子につけ回されて困ってるのかな?」

 俺は顔を明坂のほうへ向けた。

「なんでわかる。……じゃなくて、なんでそう思うんだよ」

「今、しれっと肯定したね? 君は顔に出やすいから、気をつけたほうがいいかもね」

 明坂は頬を若干吊り上げ、苦笑いを浮かべた。

「それで、そのストーカーとはどこで会ったの?」

「ストーカーじゃない。……最近、よく会う人がいるっていうだけだ」

「それだけ?」

 少し意外そうな顔で、明坂は片眉を上げる。
 こいつは俺に何を求めているのだろう。ゴシップ好きの傾向がある彼としては、物足りないのかもしれないが、俺としてはあまり掘り下げられたくはない。個人的心理を突っつかないでもらいたい。

「……あと、言っておくが、べつにそんなことで悩んでたわけじゃないからな。ゼミの発表の資料がなかなか決まらなくて、それで悩んでたんだ」

 見苦しい言い訳だと自分でも少し思ったが、図星を指されたことを認めるのも癪だった。

「ふーん。じゃあ、その子の部屋に呼ばれたりとか、忘れ物をしてそれを届けてもらったりとか、そういうのは特になかったわけだね!」

 明坂はそう言って、納得したように頬を緩めた。だがその一方で俺は、背中を電気が迸ったような悪寒を感じた。
 
 
 俺はオカルト信奉者ではないが、最近わりと本気で、明坂にはそういう人の心を読む特異な能力があるのではないか、という疑念がつき始めた。どう考えても、ここまで正確にピタリと物事を言い当てることは、人間に可能だとは到底思えない。いずれにせよ、妄想の域は出ないのだけれども。

 もうひとつ、俺が気に入らない点として、当の彼からはそんなオーラが微塵も感じないことだ。それが絶妙なほど、気味悪さに拍車をかけている。

 ひとまず、俺は蓮実さんとの経緯を忘れることにした。あちこち蜘蛛の巣のように張り巡らせた妄想の糸から脱し、精神の安定を図った。結局のところ、考えるのをやめることが一番の薬だと思うのだ。

 俺は明坂と目を合わせないようにしながら、彼を連れて学生食堂に立ち寄った。これから、グループメンバーがここに集まる、はずだ。摂津さんの欠席については既知の通りだが、何人同じグループに所属しているかまでは俺も詳しく聞いていない。
 
 第一、俺が平日意外に大学に来ることは滅多にない。ポータルサイトによる通知確認でさえ尽くサボり、挙句の果てには受験勉強を盾にとって、「どうせあと一年で辞めるんだから最低限の単位だけ取ればいい」という考えを押し通してきた。
 そうして学外授業だの、集中講義だのを等閑視していた結果、先日、摂津さんのアカウントから「あなたをグループ『葵祭』に招待しました」という通知が突然来た。

 何の説明もなしにそんなよくわからんグループに招待されたので、「なんのこっちゃ」と思いつつ、彼女に確認をとると、どうやらその日に全ゼミ合同授業のガイダンスがあったらしい。「京都三大祭」についてそれぞれ調査を行い、プレゼンをしなければならず、俺は「葵祭あおいまつり」のグループに入れられたというのだ。

「京都三大祭」は「祇園祭」「葵祭」「時代祭」のことで、グループ分けの際、祇園祭に希望者が偏ったため、時代祭と葵祭が手薄になってしまった。なかんずく葵祭に至っては、摂津さんのほかに三人しか集まらず、欠席者を補完してようやく役割分の人数を確保できた。俺もその日は欠席していた、というよりそんな授業があったなんて露ほども知らなかったため、そういう経緯もあり、『葵祭』のグループに引き入れられたということだった。

 勝手に決めるな、と心底思ったが、通知を見ていなかった自分も悪い。仮に見たとしても、大学へ向かったかどうかはわからないが。それにしても、過程くらいは説明するべきじゃないのか。
 そうやって、なぜか摂津さんが指揮をとり、第一回目のミーティングを計画したのだ。その当人が今日になってドタキャンとは、先行きが危ぶまれるどころの話じゃない。

 歩きながら視線を巡らせ、空いている席を探した。すると、ちょうど窓に面した数人掛けの席に、顔を伏せて座っている男子学生が目についた。逆立てた金髪に、センス皆無の柄シャツを着ている。その風貌は、現代風の言い方をすれば、さながら「DQNドキュン」のようである。
 片耳に有線イヤホンを当て、一人で携帯端末を黙々と操作している。俺はその様子を見て、ゲームをしているのだろうと目星をつけた。

 俺はことさら急ぎもせず、かといって露骨に速度を落とすわけでもなく、ごく一定の速度でそいつに近づいた。
 一方、そのDQNは俺と明坂が来たことに気づいているのかいないのか、顔を上げようともせず、ひたすら指を動かし続けている。ゲームに夢中で気づいていないらしい。構わず、俺はその男の正面の椅子を引いて、そこに掛けた。

 ようやく、DQNは顔を上げてこちらを見た。
 明坂も俺の隣に腰掛けると、

「やあ。大変だね、人間って」

 と、意味ありげなようでそうでもないことを呟いた。

 向かいに座っていたDQN――西谷にしやが、イヤホンを外しながら明坂を指さし、開口一番、

「これ、誰?」

「人間を『これ』呼ばわりするな、明坂だよ」

「だから、誰やねん」

 俺と西谷のそんな応酬を横で聞いていた明坂が、急に声を立てて笑い出した。
 その反応が少しばかり癇に障った俺は、テーブルの下で明坂の足を踏んづけると、「ぎゃっ」と彼は小さく悲鳴を上げた。

 俺は何事もなかったように、西谷に向き直ると、明坂を軽く紹介した。

「英語のクラスが一緒なんだ。今日のミーティングのことを話したら、興味あるからって勝手についてきちゃったんだ」

「勝手についてきちゃったって、薄情なことを言うね。ちゃんと君に伝えて、許可をもらったというのに」

 明坂は唇を尖らせ、不満気に言う。火男ひょっとこみたいに尖らせるので、それごと掴んで黙らせようかとも考えたが、俺は大人なので、そんな子供のような真似はしない。何事にも寛容的になるその人間味こそが、俺の信条なのだから。なお例外は除く。

 西谷は西谷で、その後俺や明坂のことは無視し、無言でゲームを再開していた。

 最初のゼミのときに、俺は西谷と知り合った。彼を初めて見たのは入学式前日のガイダンスだったが、関わる機会はほとんどなく、どことなく他人を遠ざけている雰囲気があったから、俺からわざわざ話しかける理由もなかった。

 髪を染めている学生は同じ学科にもそれなりにはいるが、金髪なのは彼だけだった。初め、その外見も相俟って近寄りたくなかったが、初回のゼミで、グループもしくはペアを作るようにと指示が出されたとき、互いに組む相手がおらず、已むなく彼と組まされたのだが、話してみると案外、見かけによらず極めて「普通」の少年だった。
 いわゆるコミュニケーションが奥手の人間であり、受け答えは淡白だが、面倒くさがり屋という点だけを除けば、どちらかと言うと真面目な学生である。

 手偏差値は五十三。可もなく不可もなくといった塩梅あんばいで、ところどころ掻きむしったような痣があること以外は、至って標準的な手だと言える。

 待ち時間を潰す意味合いも兼ねて、俺はゼミ発表のことも互いに共有したかったので、西谷に話を振った。

「個人発表、そろそろテーマ決めたか?」

 しかし当の本人は手元の画面に注視したまま、ただ頷くだけだった。

 会話は早くも途切れ、さらに気まずさが増す。
 片や明坂はというと、「気まずい」の「き」の字もない調子で、周囲の学生の様子を観察しているのか、軽食を取りながら雑談やトランプにはしゃいでいる食堂の中の連中を、ただ黙って眺め回している。こいつに関しては、悪く言えば面の皮が厚く、よく言えば西谷とは異なる点において、どこか達観したところがある。変幻自在のカメレオンのごとくいつの間にか周囲に馴染んでいるので、はたから見れば彼も、俺や西谷と同じグループなのかと思われるだろう。

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