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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#10

 午後十二時過ぎ、ゼミ授業がある第八棟に着いた。
 個人発表で配るレジュメは行きがけに印刷するつもりだったが、立ち寄ったコンビニのプリンターにUSBを挿し込んだところ、当該ファイルの拡張子は出力対象外らしく、外部デバイスからは印刷できなかったので、俺はげんなりと肩を落としつつ大学に向かう羽目になった。

 教室に入ると、前列の席でノートパソコンを開き、作業をしている摂津さんがいた。彼女のほかには、学生の姿は見えない。
 集中している様子だったので、無視してそのまま席に着こうかとも思ったが、二人きりだとどうにも気まずい感じがするから、俺は何気なさを装って、彼女に声をかけた。

「それ、発表の準備?」

「スライドと原稿の確認」

「最終チェック?」

「今、やっとー」

 摂津さんは画面を注視したまま、どこの方言かもわからない返事を寄越した。それで会話が終了するかと思いきや、「そっちは?」と反問してくるので、俺は返答に詰まった。

「え……と。発表で使うレジュメ、コンビニでプリントしようとしたんだけど、USB刺してもなぜか出力できなくてさ、まだ印刷できてないんだ。だから、どうしようかなって……」

 最悪、資料はなくても、原稿を読み上げるだけで発表の体は為せる。半分、諦めの気持ちも芽生え始めている。「発表をおこなった」という事実承認をちゃんと得られれば、そこまで単位には響かないだろう。
 ……ということを漠然と心に思い浮かべたとき、摂津さんは急にパソコンをパタンと閉じ、立ち上がりざまに俺のほうへ目を向けた。

「これから、軽川かるかわ先生のところでプリンター使わせてもらおう思うねんけど、よかったら一緒に来る?」

 こんな彼女からの助け舟は想定していなかったが、断わっても不都合なことに変わりはないので、俺も同伴することにした。

 教授の研究室でレジュメを印刷し、教室に戻ってきたが、まだ誰も来ていなかった。
 摂津さんは、人数分の資料が手もとにあるか数える作業に入っていた。俺もそこから数列離れた後ろの席に座り、相方が来るのを待った。

 五分ほどしてから西谷は来た。よく眠れていないのか、大口を開けて欠伸をしながら、悠然とこちらに歩いてくる。彼は俺の隣の席につくと、机に突っ伏して、呻いた。

「えらいわぁ、帰りたいってぇ、やばい」

 二日酔いのようなことを言いつつ、机に頭を擦りつけて唸る。それは駄々をこねる小学生のようにも見える。

「どうした、発表できそうか?」

 俺は西谷の背中を軽く撫でながら、声をかけてみる。

「一応やってきたけどぉ、前に出るのめんどいし、にかくダルい」

 西谷は鐘を吊り上げるがごとく、大仰に重そうに上体を起こし、椅子にもたれかかるように伸びをした。そこで、初めて摂津さんがいることに気づいたのか、彼は、

「お、摂津さんやん。発表、何やんの?」

 と軽く声をかけた。しかし摂津さんは振り向きもせず、返事もしなかった。聞こえていないのか相手にしていないのかはわからないが、おそらく後者だと思われる。その反応に当然西谷は気分を害したらしく、小さく舌打ちをし、また机に顔を伏せた。

「ダルいって。ほんま帰りたい」

 そんなことを繰り返し、また喚いた。しかしそれもすぐに止んだ。
 妙に静かになったな、と思うと、寝息が遠く聞こえてきた。彼の均一な呼吸に合わせ、俺は意気消沈する。

 俺は『百人一首』についての考察をまとめることにしたが、前日までほとんど白紙状態で、重い腰を上げてようやく取りかかったのが昨晩、正確には当日の深夜二時頃だった。それから約二時間半後にレジュメと原稿は一通り完成したものの、完遂した実感がなかった。
 したことといえば、歴史的背景と編纂へんさん者について数行ずつまとめ、あとは有名な短歌を何首か取り上げて、原作から変改のあった理由を少し推考しただけだ。発表の質としては我ながらお世辞にも高いとは言い難い。

 単位取得にたいした差はないかもしれないが、それでも周りからの評価は一定の体裁を保っておきたい。最悪、四年で卒業できるくらいの基準を満たしていればいいのだ。
 それはそうと、西谷のほうが心配だ。葵祭の集会以降、ろくすっぽ顔合わせもしないまま、興味があるものについて、各自で調べていただけだ。ことさら集まって、互いの進捗を確かめ合うこともしなかった。

 授業開始の十分前になり、出席確認のために俺は席を立った。その頃には、すでに教室には大半の学生が集まってきていた。とはいっても、十五名ほどしかいないのだが。

 壁に設置されたカードリーダーに向かおうとすると、上体を伏せたままの西谷が、俺の腕に学生証を押し当ててきた。「代わりにピッとしてきてくれ」という意味だと理解したが、なぜ俺がこいつの出席確認も請け負わねばならないんだ、という気もする。
 ただ、脱力しきった今の状態の彼を見れば、無視するわけにもいかない。仕方なく、俺は彼の学生証を受け取ると、自分のものと一緒にそれをかざしにいった。

 各教室に備え付けられた機械は、「出席太郎」という名で学生や教員の間で親しまれている。現在の時刻と今が何限であるかが表示され、そこにICチップが埋め込まれた学生証をかざすと、「ピッ」という音とともに、データベース上の自分の学籍番号と紐付けられ、出席率に反映される。

 自分と西谷の学生証を「出席太郎」に近づけると、カードを通すタイミングが誰かと重なり、俺はとっさに手を引っ込めた。

「あ、ごめんね」

 と、相手も躊躇ったように静止したが、俺の顔を覗き込んで、安心したような顔になった。俺も玉城さんと目が合い、苦笑いでカードリーダーを目で示し、彼女に譲った。彼女がカードを通すと、俺も二枚分の学生証をかざして出欠をとった。

「あ、そうそう。昨日はごめんね。尾倉くんから聞いていないかな。うち、昨日の話し合い、参加できなくって」

 思い出したように、玉城さんは申し訳なさげに話す。彼女も『葵祭』グループのメンバーだということを、俺もここで思い出した。

「いや、大丈夫。ほんとに顔合わせだけっていうか、何も決めずにすぐ解散したから」

「そうなん?」

「メンバーも半分くらいしか集まらなかったし」

「そうなんだぁ……。難しいよね」

 まるで他人事のような口振りで話し、玉城さんは席に戻っていった。

 彼女が尾倉とバイト先が同じだということを、俺は今日聞いた。無論、彼女本人からでも、尾倉からでもない。俺がこういう類の話を知っているのは、十中八九、明坂が発信源なのだ。……あの男はどこからそんな情報を仕入れているのだ? 考えれば考えるほど、不安になる。
 

 ゼミは予定通りに進んだ。『日本書紀』をテーマにプレゼンしていた連中に対し、スライド中の「持統天皇」の文字が「特統天皇」になっているのを教授が指摘した際、急に西谷が吹き出して笑ったので、俺もつられて笑うと、前方から視線を感じた。笑いを収めて俺は前を向くと、振り返ってこちらを見つめている摂津さんと目が合った。俺はとっさに憮然とした表情を作り直し、やり過ごそうとしたが、彼女からの鋭い視線の気配は消えなかった。

 俺と西谷は個人発表を無難に乗り切り、摂津さんのグループがこの日の最後に発表をおこなった。彼女のところは、一つのテーマをみんなで発表する形式をとっていた。メンバーの春崎さんがモニターにスライドを映し出し、それに合わせて原稿を玉城さんが読み、摂津さんが他学生からの質問に答えるなど、役割分担もしっかり考えられていた。教授からのフィードバックも、ほかのグループと比べ、一番まともだった。

 三十分ほど時間が余ったので、教授が数人の学生に菓子や飲み物を買いに行かせ、その後で皆で長机を円形に並び替えて向かい合った。入学からまだ一月弱しか経っていないことから、「互いのことをもっと深く知ろう」という教授の提案のもと、学生が順に自己紹介をする流れになったのだ。
 あまりの自由さに俺は愕然としたが、勉強ばかりさせられていた高校時代と比べ、大学生活も満更悪いことだけではないという気にもなった。

 短い雑談のあと、特にすることもなくなったので、四限終了の約二十分前に解散となった。五限の講義が始まるまではまだ余裕があるので、俺と西谷は食堂で適当に時間を浪費することにした。次の「日本史概説」は西谷も履修しているのだ。
 ただ、何をするわけでもなく、文字通り「時間を潰す」だけなのだが。ほかに思いつく場所もない。平生から食堂に集うことが多いので、惰性的に決めただけに過ぎない。

 俺と西谷は窓際の席に座った。西谷は無言でスマートフォンにイヤホンを繋ぎ、それを耳に挿して恒常に倣ってゲームを始める。

 彼は終始無口で、ゼミでグループを作るときも余りもの同士で組まされたのだ。俺もどちらかといえば彼と同じタイプなので、一緒にいたところで、友達とはとても思えないほどの微妙な距離感が出来上がる。

 こうして無駄に時間が過ぎることに、次第に焦燥を覚え始めた。仮面浪人の身の上でもあるので、何もしていない時間が続くと非常にもどかしく感じることがある。
 単語帳でも開こうかな……と逡巡していると、不意に耳元で甘い声が囁いた。

「こんにちは」

 どこかで聞いたことのある声だと思いながら顔を上げると、柔らかい微笑を湛えた蓮実さんが立っていた。

「授業、終わったの?」

 相手は気さくに話しかけてくれるが、こんなところで彼女に会うとは露ほども思っていなかった俺は、戸惑いを隠せずにたじろいだ。

「奇遇ですね、こんなところで」

 思わず敬語に戻る俺に対して、彼女は愉しそうに笑った。

 すると、俺と蓮実さんが話しているのを不審に思ったのか、ふと西谷が目線を上げて、彼女のことを指さした。

「こいつ、誰?」

「先輩を『こいつ』呼ばわりするな。あと、人を指さすな」

 こういう苦言は俺に似つかわしくないが、それは決して女性の前で格好つけようなどという卑しいことを考えているからではない。友を注意して相手の気を惹こうという器の小さい男だと思われるのは遺憾である。

 一方、西谷はこちらの心中など察する様子もなく、「先輩なん?」と目を見開いて、俺と彼女を見交わしている。それが俺にはやや意外に思われた。他人対して彼が興味を抱くような反応を見せるところを、初めて見たのだ。

「どうも、こんにちは。蓮実といいます」

 蓮実さんはにっこりと、まるで太陽の申し子のごとき晴れやかな笑顔で、西谷にも軽く会釈をした。
 けれども、先ほど俺が西谷に感じた心象は思い違いだったか、彼は興味を喪失したように、再び手もとのスマートフォンに目線を戻していた。それでも蓮実さんは顔色一つ変えず、さも自然な感じで、俺の真向かいに着席した。
 あまりにも予想外の行動だったので、俺は反射的に居住まいを正す。

「あ、えっと……。何か用ですか?」

「ちょっとお話してみたくなって」

「はあ」

 状況についていけずにあたふたしている俺と対比して、彼女の目は泰然自若たいぜんじじゃくとしている。

「順調? 勉強のほうは」

 何の邪念も感じさせないような穏和な口調で、蓮実さんは質問する。ここでの「勉強」とは、大学での勉強のことだろうか。それとも、受験勉強のことだろうか。

 俺は気づかれぬように、横目でちらりと西谷の挙動を窺う。彼は小刻みに頭を動かし、イヤホンから入る情報以外は全く聴こえていないように、ゲームに勤しんでいるようだ。
 彼女が、「受験勉強」ではなく「勉強」とぼかしたのは、西谷のことを思慮してのことだろうが、なぜ俺が彼に仮面浪人のことを話していないとわかるのだろう。ただの偶然か?

「まあ、ぼちぼちっすかね」

 俺もあまり深掘りはされたくないので、適当に言葉を濁す。
 蓮実さんは「忙しいもんね」と自己解釈したように笑い、次いで西谷を見た。
 俺も、なんとなく彼女の視線を追ったが、西谷は依然として端末の画面に夢中で一向に顔を上げる気配を見せない。

 彼のマイペースぶりに俺が内心呆れていると、蓮実さんはいきなり、

「私、もう行かなきゃ」

 と少し慌てたように言って、立ち上がった。

 俺が引き止める間もなく、彼女は食堂に集まる学生たちを足早にすり抜けて去った。
 彼女が俺に声をかけてきた理由について、結局のところ釈然とせず、わずかなモヤモヤだけが尾を引いた。

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