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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」#8

 俺個人のカリキュラムでは、午後からの授業は一コマだけだったので、四限の終わりに教務棟の前で明坂と落ち合うことになっていた。俺は三限目の『東洋美術史』の講義に出たあと、明坂との待ち合わせ時間まで、構内の図書館で時間を潰すことにした。

『地域研究』という全クラス合同の特別授業では、三つのグループに分かれ、それぞれの班で『京都三大祭』をテーマに発表しなくてはならない。この後、そのメンバーたちとの顔合わせがあった。
 数日前、明坂との雑談の中で、俺がうっかりそのことを零してしまったため、興味をそそられたのか、「見学してもいい?」と彼が申し出てきた。理系の明坂が文系の集会に参加しても、何も面白くないし退屈じゃないかと思ったが、彼がしつこく是非にと言ってきたので、断るのも面倒になった俺は、話を打ち切るつもりで軽く首肯した。が、明坂は本気だったようだ。

 集合は四時半だったが、腕時計を確認すると、まだ二時間近くある。
 三限の講義のあった棟を出て、どこで時間を潰そうかと考えあぐねていたとき、図書館の前を通った。そこで、翌週のゼミで個人発表があるのを思い出した。
 二人ないし三人でグループを作り、全員がひとつのテーマで発表しても良いし、各々が別々のテーマを扱ってもいいという、緩い感じの規程だったため、相方となった学生と相談し、俺ともう一人は後者をとった。本来、グループ内で資料を共有し、一緒にレジュメやスライドを作成して皆の前で発表を行うが、俺は個人で資料を集める必要があった。

 相方がどんな題目を扱うのか聞いていないが、グループ内での協議が発生しなくなった分、まだ楽だといえよう。しかしその反面、後回しにしたり受験勉強などでおざなりにしたりしてしまい、いまだ手つかずの状態にあった。
 そろそろ焦りを覚え始めていた俺は資料収集のため、学内の図書館に入った。

 初回のゼミで、担当の教授が所属する二十名ほどの学生を引き連れて、図書館の蔵書や施設について紹介してくれた。ちょうどゼミ発表の概要を聞かされた後だった。

 館内には、蔵書があるフロアのほかに、丸テーブルが並んでいるまるでカフェのような空間が広々と設けられていた。そこでは、講義の予習をしたり、レポート課題に取り組んだりする学生が多い。ちょっとした休憩にも便利で、自由に時間を過ごせるため、静かな環境を好む学生にとっては最適な場所に違いない。心地の良い芳香のような雰囲気が漂い、それが幾分緊張を和らげてくれる。初見時には、そんな印象を受けた。
 そもそも相当な理由のない限り、図書館というちょっと大きい足音を立てただけで周囲から奇異な視線を注がれそうな場所には寄りつかないのだが、レポートやプレゼンの資料を集める面倒くささを加味すると、理に適ったところかもしれない。なかなかタイミングが計れず、立ち寄る機会もそれほど多くはなかったので、空き時間を有効活用した資料収集という名目で、俺は初めて、神聖なる本の王国へと踏み込んだ。

 駅の自動改札のような機械にカード型の学生証をかざし、正面の通路を通って図書フロア内を探索した。歴史に関する書物であればテーマは何でもよかった。俺は概要を聞かされてパッと頭に浮かんだ『百人一首』について調べることにした。

 中学時代、漫画を買いに学校帰りに行きつけの書店に立ち寄った。その店頭に、『新板 百人一首』というタイトルの本が並んでおり、それが偶然目についた。古文の予習用に買ってみたところ、原文の隣に現代語訳と鑑賞(解説)が掲載されたシンプルなもので、中学生の俺にも読みやすく、意外にも夢中になって読んでいた。
 それをなんとなく覚えていたので、日本の歴史書のコーナーを探しながら、書架の間を彷徨っていると、背表紙に「百人一首」と書かれた書籍を見つけた。それを手にとって、ぱらぱらとページを繰った。

「それ、今度の発表で使うやつ?」

 いきなり耳元で不意打ちを食らって、俺は反射的に、飛び退くように半歩後退した。
 顔を上げると、両手に分厚い本を抱え、不思議そうにこちらを見ている学生を視認し、俺は今の自分の行動を悔いると同時に、やや辟易した。

「摂津さん、急に声かけるの、やめてもらっていいかな? マジでびっくりするから」

「ごめん。でも、話があったから」

 心がこもっていなさそうな、恬淡な口調で彼女は答える。

 摂津さんとは同じゼミの仲間であり、よく話しかけられるが、特段仲が良いわけではない。どちらかといえば俺の苦手とするタイプである。知り合ってからまだ一ヶ月にも満たないが、それでも苦手だと自覚させられるほどには苦手である。
 基本的にいつも無愛想で、ふてぶてしい態度をよくとるので、高圧的に見える。それは俺が彼女に忌み嫌われているからではなく、誰に対しても同じように振る舞うので、彼女の性格によるところだろう。彼女の笑顔など、まだ一度も見ていないのだ。

 勿論、俺が彼女を苦手とする理由は、ほかにもある。それはよく露出度の高い服を着ていることだ。ひらひらしたスカートだの、短すぎるショートパンツだの、とにかく露出が激しく、目のやりどころに困る。モデルさながらの美脚に鮮烈なファッションセンスは、男子たちの欲情をすこぶる掻き立てるらしい。

 手偏差値は、辛口手評論家を自負する俺(自分で書いていてひどく語呂が悪い)の裁量では七十四となかなかの高水準だが、煽情的な風采に加え、冷徹で鋭い目つきも相まって、どことなく近寄りがたいオーラを醸し出している。それでいて、その居丈高とも思える言動や口調でよく話を振ってくるので、俺としては厄介極まりない。自分で言うのも変だが、そもそも人間関係の輪に入ること自体、もとより苦手なのだ。
 さらに言うと、この摂津さんこそが、顔合わせと称し、本日のグループ集会を企画した張本人なのである。

「何、それ」

 俺が持っている本が気になったのか、摂津さんは表紙を覗き込むようにして見てきた。俺は内心億劫に感じながらも、それと悟られまいと平静なふりをして答えた。

「来週の発表で使う資料、探してたんだよ」

「ペア、誰なん?」

西谷にしや

「一緒に発表するん?」

「いや、別々でやることにした。わざわざ時間作って、集まって内容とか考えるのもめんどいしな。……摂津さんも、資料見にきた感じ?」

「そう」

「そっちは、みんなでやるのか?」

「うん。レジュメ作るのに手頃なやつがないか探してるとこ」

 納得しかけて、ふと、彼女が俺に話しかけてきた理由についてまだ聞いていないことに思い至った。

「そういえば、用事があるんじゃなかった? 話があるって言ってたけど」

 彼女も今思い出したのか、「そうそう」と目を見開き、切り出した。

「これから、『葵祭あおいまつり』のメンバーで集まるやん? 私、OLEAのミーティングが急に入って、出られんくなったんよ。だから、ほかの子らにも言っといてほしいねんけど」

「……何だよ、オレア?」

 俺が眉をひそめてきょとんとしていると、摂津さんは少し面倒そうに歯を食いしばったような表情を作って、補足した。

「十月に、学祭あるやん? その実行委員の名前」

 どんな名前だ。それなら、ことさらややこしい名前にせず、そのまま「学園祭実行委員会」とかでよくないか? ……と思ったものの、口に出すとまた面倒な返答をされる可能性があるので、あえて言葉を呑むことにした。

「まあ、来られないのはわかったけど、なんで俺に言ったんだ?」

「メッセージ送るつもりやったけど、たまたま居ったから」

 そこにいたから適当に使った、と言われているような気がして、いい気がしなかった。使い走りをさせられているような気分になった。

 今日も彼女は露出が高めのデニムショートを履き、膝上くらいまである黒のロングソックスを穿いて、腿がむき出しになっている。俺はファッションに明るくないから、それがセンスのある装いかどうかは定かでない。

 俺はわざと彼女の目を見ないように努め、書棚を横目に捉えながら、

「理由があるのは仕方ないとして、言い出しっぺがその場にいないというのは、ちょっとどうなんですかね?」

 故意に、やや皮肉な言い方をしてみる。

「不満?」

 すかさず、彼女の鋭利な声音が、俺の耳を突く。

「いや、べつに不満ってわけじゃないけどさ。俺だってこれから急用が入らないとも限らないし、そういうことは自分からみんなに伝えておくべきじゃないかって、そう思っただけ」

「そこにいたから使っただけやし、そっちのほうが効率いいかなって思ったからよ。もしかして、話しかけんほうがよかった?」

 このとき、先程から俺が抱いていた「腑に落ちなさ」は、決して気のせいではなかったことを知った。彼女は俺の目の前で、はっきりと「使った」と言い切った。理屈も何もあったものじゃない。
 俺が摂津さんから「下に見られているんじゃないか」という懐疑。それまでは蜃気楼のように模糊として揺れているだけの疑惑が、現物の町並みが突如として眼前に現れるように、そのたった一言によって、「事実」として確かなものになった。

 ◯ 
 
 摂津さんが去ったあと、俺は苛々とモヤモヤを胸の内で竜巻のようにぐるぐるさせて、図書館の書棚の間を無駄に何度も往復していた。

 少々昂ぶった気持ちを落ち着かせるため、席を探して、窓際の椅子に腰を下ろした。結局、『百人一首』を手に持ったまま歩いていたことに、座ってから気がついた。今から店に戻しに行くのも面倒くさくなり、俺はまた適当なページを開いて、ゼミ発表の参考になりそうな箇所を目で探した。
 初めは内容を目で追っていくだけだったが、読み進めていくうちに、なかなか興味深いことが書かれていた。

 たとえば、
『春すぎて夏来にけらし白妙しろたへのころもほすてふあまのかぐ山』
 この持統天皇が詠んだ歌は、「万葉集」では、
『春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山』
 となっている。

 微妙に詠み方に変化があり、短歌に奥行きをもたせている。なぜ、編纂へんさん者の藤原定家ふじわらのていかは元歌をそのまま収録しなかったのか。なぜ、若干の改変を施す必要があったのか。これは考察の種になろうか。
 そんなことをぼんやり考えていると、俺は不意にまた後ろから肩をつつかれた。背もたれに寄りかかっていた俺は、急いで身を起こした。まさか摂津さんが戻ってきたのかと思い、いささか戦慄しながら振り向くと、そこには、満面の笑みで俺に話しかけてくる学生がいた。

「手フェチくん! これ、うちに忘れていったでしょ?」

 蓮実さんは両手に「歴史学入門」を持ち、胸の前に掲げた。
 俺は動揺を隠すのに腐心しつつ、それを受け取った。

 昨日、蓮実さん宅を辞するときに、俺はその本をリュックに仕舞っただろうか? もはや、記憶がない。……ということはつまり、入れ忘れたという可能性が高い。……いや、可能性が云々ではなく、間違いなく入れていない。「彼女が持っていた」という事実があるのだから、それ以外にどんな可能性があるというのだ。

 昨日あった出来事を頭で順を追って整理していき、己の失態に辿り着いた俺は、ややきまりが悪くなったが、届けてくれた彼女に対して、誠心誠意の感謝を伝えた。

「ありがとう、わざわざ」

「どういたしまして。あ。それ、すっごく面白かったよ! 内容も興味深いし、君と同じ学科を受けたらよかったって思っちゃった」

 蓮実さんは、俺が受け取った本を指しながら満面の笑みで語るが、「そんなによかったか?」という感想しか湧かない。社交辞令に思えなくもないが、まあ悪い気はしない。

 彼女も歴史が好きなのだろうか。それならば共通点ができて、会話が弾んで、互いにもっと仲良くなれそうだ。
 そういう妄想を俺がしていると、次に蓮実さんは、窓辺のテーブルの隅に置かれた本に目を留めたのか、

「百人一首も持ってるの?」

 と尋ねてきた。

 それは彼女がここに現れる前、俺が時間を消費するため。漫然と読んでいたものだ。

「ちょっと調べ物。そこの本棚から持ってきたやつ」

 俺は彼女の後ろの書棚を目配せで示しつつ、答えた。
 一方、彼女も理解したように、小さく首を上下に振る。

「そうなんだ……。百人一首にも興味があるの?」

「興味があるっていうか、今度、ゼミ発表があるから、資料を探しに来てたんだ。題材は何でもいいらしいから、昔ちょこっと読んでた百人一首にしようと思って」

「へえ。私、好きな歌があるんだよね。たしか……、春過ぎて、夏来にけらし、白妙の……」

「衣ほすてふ、天の香具山」

 上の句を詠む彼女に続いて、俺は下の句を詠んだ。

「そう、それ!」

 蓮実さんは小さい子のように目を輝かせながら、こちらを指さした。

「私ね、小さいころ、お正月のたびに親戚で集まってかるたをするのが楽しみだったの。それ自体は全然下手だったんだけど、その歌だけは取り逃したことないから、思い出に残ってるんだよねー」

 まるでその頃に戻ったように朗らかに語る彼女を見て、「可愛いな」と微笑ましく思ったが、その気持ちはすぐに別の思念によってかき消された。
 矢継ぎ早の彼女からの言葉攻めに気圧されて、思考を中断していた感は否めないが、考えるとやはりおかしい。

 俺は意を決して、蓮実さんに声をかけた。

「あの、話の腰を折るみたいで非常に申し訳ないんだけどさ、なんでここに俺がいるってわかったの?」

「えっ。偶然いたから、声をかけたんだけど」

「偶然って……、そんなふうには見えなかったけど。俺がいるのを予期して声かけてきたように見えたっていうか……」

 こんなことをきいても詮ないが、どうにも釈然としない感じがした。出会って間もない俺を部屋に上げようとしたり、さも当然であるかのように話しかけてきたり、彼女の一挙手一投足が腑に落ちない。

 彼女が急に真面目な顔を作って俺を見つめ、こう言った。

「だって、私が行く先に君がいるんだもの」

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