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【連載小説】「きみの手、ばりきれい」プロローグ

 世の中の安寧を伝えるような、滔々と流れる川の音。春の温順な気候、代わり映えのない晴天。南から吹く心地良い爽風が、俺の頬を掠めていく。

 京都市山科区きょうとしやましなくから南西へ縫うように走るその川は、山科川やましながわという。京都では鴨川や宇治川うじがわ桂川かつらがわなどが耳慣れた河川として名を馳せるが、それらと比較して知名度こそないものの、山科川も心が休まる穏やかな小川である。

 遠方からうぐいすの囀りが聴かれ、川のせせらぎが日々の鬱屈とした苦悩を洗い去るように、疲弊した心と耳を癒やしてくれる。

 旧安祥寺川きゅうあんしょうじがわを支流に従える山科川は、蛇行しながら南下し、宇治川と合流する。そして八幡やわたあたりでさらに木津川きづがわ、桂川と合流し、淀川となって大阪湾へと針路を取る。

 小橋の上で、ところどころ錆びついた赤い鉄の欄干に手をかけ、下を流れる清冽せいれつな川の音に、俺は耳を傾けた。土手に沿うように茂る木々の梢は、眩いばかりの光を散らし、川筋に点在する民家は、昼間にもかかわらず、眠ったように深閑としている。

 目抜き通りからいくらか離れた場所にあるこの橋は、自動車はおろか、通行人の姿さえ滅多に見かけることはない。いつ訪れてみても、この場所はかすかな静寂を守り、俺のお気に入りの癒しスポットとして名を馳せ、ここに来ることが密かな楽しみでもあった。

 約一ヶ月半で嫌気が差してきた一人暮らしも、不毛な仮面浪人生活も、この川のせせらぎがすべて洗い流してくれそうな気がする。



 三月上旬、高校を卒業した翌日、俺は大阪高槻たかつきの実家を巣立った。入洛し、山科で下宿生活をスタートさせた。念願の一人暮らしだったが、四月に山科区大宅おおやけにある私立大学に入学したあたりから、堕落する一方の現実に思い当たった。

 一人で生活を送るというのは当然、何もかもを自分一人でやらなければならないわけで、やるべきことにも十分に満足にできず、俺は歯切れの悪い思いで毎日をだらりと過ごした。

 入学の二週間程前、再受験に当てた勉強にも疲れてきたので、気分転換がてら、ふらりと外に出た。特に行き先が決まっていたわけでもなく、「早いうちに土地勘を身につけておきたい」というもっともらしい理由をつけて、現実逃避に走った。

 実家から持ってきた愛用の自転車に乗り、気まぐれにハンドルを切りながら、府道沿いを行ったり来たりしているうち、やや狭い路地に迷い込んだ。

 そこに、小休憩にちょうど良さそうな小橋があるのを見つけた。大型ワゴン車が一台やっと通れるほどの幅しかなく、長さも幅とほぼ同じくらいである。

 橋と呼べるのかどうかも正直微妙だが、コンクリート造りの小さな橋だった。橋の両側には赤く塗られた鉄柵の欄干があり、その下を小川が清楚な音を奏でながら流れている。

 あとで調べてみると、山科川という名の川だった。

 そこのたもとに俺は自転車を停め、橋の上からじっと川面を覗き込んだ。川水は透き通っていて、薄地のカーテンのような淡い春の陽光を照り返し、真昼の光を川面に点々と撒き散らしている。その様子を眺めるうち、気疲れのせいか肩甲骨けんこうこつあたりに滞っていた倦怠感が、徐々に洗い出されていくのを感じた。

 その日以来、俺はこの場所が気に入った。大学の授業、家事、勉強……それらの雑事から一時的に逃れ、日々の疲労を回復するために、頻繁にここを訪れた。

 この風光明媚ふうこうめいびな川は、どこへ行き着くのだろうか。そんなことを時折考え、真下を行き過ぎる水の行き先に思いを馳せながら、瞼を閉じ、自然の恵み豊かな演奏を鑑賞するのが、俺の数奇な楽しみであった。

 俺がこれまで通り瀬音せおとに耳を澄ませていると、静謐せいひつの中を流れていた川面が突然、じゃぶじゃぶという、不自然な音を立てた。誰かが足で水を切って進むような、明らかに自然が引き起こした音ではなかった。その音を聞いた俺は、急に現実に引き戻されたように、そっと目を開く。

 俺の清閑せいかんなひとときを邪魔するやつは誰だ?

 そんな思いが頭をよぎった刹那、土手から川の真上へ突き出ている木の陰に、うっすらと人影が見えた。

 まさに水を差されたことによって、憤怒ふんぬの色を滲ませながら、俺は目の前の人影を凝視した。足を半分川に浸して水浴びでもしているのか、その影は飛沫しぶきを弾ませながら歩き、やがて木陰から姿を表した。

 漆黒の髪が胸下あたりまで流れ、水色のワンピースを着た、若い女性であった。足には白いサンダルを履き、背格好から、年齢は二十歳前後だろうか。

 やや気の早い装いと行動に俺は内心呆れ、その場で固まってしまった。

 しばらく茫然とその破天荒ぶりを見守っていたが、彼女がふと顔を上げたことで、俺はまた我に返る。彼女の鋭い視線が、俺の瞳孔どうこうを真っ直ぐに射抜いたのだ。そして今度は、目交まなかいの彼女との間に、何らかの不思議な力が生まれたような錯覚が、激しく俺を捉えた。

 突然のことで狼狽した俺は、まるで逃げ出すように、咄嗟に駆け出していた。橋の袂に停めてあった自転車のスタンドを蹴り上げて素早く跨がると、大きく旋回せんかいし、今しがた走ってきた道を、猛スピードで引き返した。

 あれは何だったのだろう、などと考える余裕も到底なかった。

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