#164 急に読み返したくなった漫画
こんにちは、鏑木澪です。
急に、「『ガラスの仮面』の桜小路くんが仏師を訪ねていく回が読みたい!」と思いました。
こちらの記事でピックアップした曲のなかに『キッスは目にして!』があり、『ガラスの仮面』を話題していました。
この頃から、「あそこ読み返したい」と心の奥に引っかかっていました。
読んだのが、もう15年近く前なもので(当時小学生←)、記憶が曖昧なところはありますが、自分が創作活動をする時の根っこにある考え方は、この仏師のセリフに強い影響を受けています。
ここから、少し『ガラスの仮面』のネタバレも書くので、気になる方はワイド版の12巻まで読んでください!
(普通の単行本だと何巻なのかわからないけれど、たぶん34〜36巻あたりです←曖昧すぎる)
いざ、書こうと思うとどこから書けばいいのかわからない。。。
結論からいいますね。
「この木の中にいる仏がまだ見えてこないんです」
この言葉が「ストンッ」と私の中に入ってきました。
無理やり何かを捻り出すのではなくて、初めからそこにあるもの、周りについているいらないものをのけて必要なものだけを残す、そこにあるべき姿にするのが、創作活動だと私は思っています。
『紅天女』という劇中劇があります。
『ガラスの仮面』のあらすじをおそろしく雑に説明すると、この『紅天女』を誰が演じるのか、上演権は誰のものになるのかというお話だと思います。
(私は、「紫のバラの人」がどうなるのかが気になって仕方がない←)
『紅天女』の試演、黒沼脚本で桜小路くんが演じることになったのは、一真役です。
一真は仏師で、世の中に平和をもたらすため千年の梅の木から天女像を彫るよう勅命が下り、旅をしていました。
とある村で倒れ、記憶を失った彼を介抱してくれた少女と暮らすうち、互いに惹かれ合うようになっていきます。
しかし、少女こそが千年の梅の木、紅梅の精霊の化身でした。
人間から梅の木を守ることが使命である少女とその木を切り倒して天女像を彫ることが使命の一真は、互いの使命のために愛する人と闘わなければなりません。
端折りすぎて、我ながら「もうちょっとちゃんと書けない?」と思うのですが、自分なりに書きたいことを全て書くと、それだけでえげつない量になると思うので、これで勘弁してください。
(もう読んでいる人は知っていると思うし、まだの人はぜひ読んで!)
この役を演じるにあたり、桜小路くんは「彼(一真)はどんな仏像を彫ったのだろう……」と探しますが、芸術作品として素晴らしいものを見ても、”一真の仏像”とは思えません。
仏像を探して歩き回り、途中で体調を崩していたところ、声をかけてくれたおじいさんの庵で一休みしますが、そこに置かれていた仏像を「一真の彫る仏像はこれだ」と見留め、これを彫った仏師の海慶に会いにいきました。
海慶のもとでその暮らしぶりを演技の参考にしようと訪ねたはずが、海慶、本名・山本清二は、普段、役所勤めをしている普通のサラリーマンで、そのあまりにも平凡な暮らしぶりに拍子抜けします。
それでも、海慶のもとで学ばせてほしいと通いつめて、少しの間、居候する形になりました。
……ここからが、本題です!
(ダメな読書感想文の典型みたいなの書いてら←あらすじは感想じゃない)
仏像を彫るための木はあるのに、海慶は仏像を彫らず、手慣らしばかりして過ごしており、桜小路くんは「仏像は彫らないんですか?」と訊ねます。
ここで、「この木の中にいる仏がまだ見えてこないんです」と海慶が応えます。
形が見えてから「彫り出したい」のだ、と。
一見平凡な日々が流れていくなかで、ある日、木の中に仏の姿が「みえました」と海慶はいいましたが、彫り始める気配はありません。
今度は木の中の仏像が、はやく表に出たいと叫び出すのを待っているのだとか。
私の印象に残っていて、読み返したかったのはこのシーンでした。
というより、この場面で印象に残っていたのは、「仏像を彫るというのは、もともと木の中にいる仏を誰にでも見える状態にすることなんだ」ということです。
”クリエイティブ”などいうと「無から有を生みだす」イメージが強いけれど、本当は、
無(何もないかのように見えているところ)から
有(本来そこにあるものが多くの人に見える状態)を生みだす
そういう意味なのではないかと思っています。
ここで止まっていたんです、私。
海慶は仏師として生きても生活には困らないはずですが、普段は役所で戸籍課の課長をしている山本清二です。
それは、なぜか?
「はじめはふつうの人と同じ生活をしていてこれでいいのかと考えることもありましたが、今は毎日の生活の中にこそ人間として仏師としての修業があると思っています」
自分のこころが穏やかでなければ、穏やかな表情の観音像は彫れない。
人間としての毎日の生活は修業であって、仏を彫るために自分の心を仏に近づけていく鍛錬の場である。
私は現在、極端に人を避けた生活を送っています。
仕事も、基本的に私ひとりいれば完結する状態にしていますし、実家の手伝いも呼ばれた時に決まった部分をするだけなので、家族以外の人と面と向かって話すことなどないといっても過言ではありません。
他人と関わると、絶対に良くないことが起きる。
これまでの人生、「他人と関わらなければどんなによかったか」と思うことはいくらでもありますが、「あの人と出会えてよかった」と思ったことは殆どありません。
素敵な人との出会いを期待して積極的に人波に飛び込んで、煩わしい人間関係に押しつぶされ、息もできなくなるくらいなら、ひとりで暮らしたほうがよほど幸せだと思っています。
それで、結局「ひとりは淋しい」とかいってるので、世話がないですが。←
天秤にかけるなら、
「他人と関わる煩わしさ」より「孤独」を選んだほうがマシだろう。
その考えが、もう行くところまで行ってしまって、我ながら「私って、こんなに人間嫌いだったかな?」というところまで来ています。
もう、道で全然知らない人とすれ違うだけで、怖くて、背中に汗をかくようで、気持ち悪くて、家の外に出たことを後悔します。
誰にも会いたくない。
ただまぁ、こんな状態で「人の心を動かす作品」を作ろうというのは、どう考えても無理があります。
私は、他人のことを知らなすぎる。
いつまで逃げてんだ
そろそろ、ちゃんと向き合え
そういわれたような気がしました。
(自分の内なる声的な? いや、神の声?←)
急に、昔触れた作品にもう一度触れたいと思った時って、私は「あのシーンをもう一度」と特定のシーンを思い浮かべていることが多いけれど、実はその前後に「そうか、だからここはこの展開になったのか」と思わせる内容が必ずあって、そちらのほうが、今の自分に必要なものだったりします。
いや、全部、私の妄想なんですけど。←
たまにね、「今、私が欲しかった言葉はこれだ!」みたいなものが舞い込んでくる瞬間があって、「昔は何も思わなかったのに」「ずっと触れてこなかったのに」
そっか。
これは”今”、必要だったんだ!
そう思えるものがあると、すごく救われた感じがするというのか、「よし、まずはこれを意識してやってみよう」と動き出すきっかけになります。
まだ、昔のものに縛られてるのかって思う時もあるけど。。。
まぁ、私は占いを見たら、自分にとって都合のいいことだけ信じるタイプなので、勝手に都合よく解釈していこうと思います。(笑)
ではでは〜
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