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2024年2月二本松探訪記~前編~

はい、再び二本松を訪問してまいりました。
というのも、少し前(年末くらい?)に、むつみ会の会長様から「にほんまつ城報館で、企画展『製糸業と二本松~近代の二本松を支えた二本松製糸会社~』が開催されます」という案内のお手紙を頂いていたのです。

他にも、図書館でリサーチを重ねたいという希望もありまして、会期ぎりぎり、そして比較的天気が良かった2/16(金)に二本松に足を運んでまいりました。

今回も、移動手段は「電動アシスト自転車」です。
いや、電動アシストの力を借りるか、車持ちの人は車じゃないと、二本松城下の移動は不可能^^;

そんなわけで、少し早めのお昼を「杉乃家」さんで頂いてから(ついでにインタビューも受けました)、改めて二本松駅にある「電動アシスト自転車」を借りて、半日ほど走り回ってきたのでした。
杉乃家さんでのインタビューの内容については、下記の記事よりどうぞ!


城報館、再び

上記のルートの中では、途中「二本松市立図書館」にも1時間ほど立ち寄ってきました。ですが、今回は詳細は省略。ただし、「直違の紋~」の本がしっかり「地域資料室」にしまわれているのは、確認してまいりました(^^)

さて、今回のお目当ては安達地方の生糸についての考察を深めよう、ということにありました。
鬼と天狗」を読んでいただいている方はご存知かもしれませんが、主人公の鳴海と深い関わりを持つ人物として、「宗形善蔵」が登場しております。

「鬼と天狗」では、尊皇攘夷運動のきっかけの一つとなった「横浜鎖港問題」に絡めて、安達地方の生糸貿易についても触れているのですが、その一端に触れたい……という思いから、今回、城報館の企画展に足を運んできた次第です。

山田脩と梅原親固

今回の主役は、何と言っても「山田おさむ」氏です。
市史などによると、天保12年4月26日、藩士・梅原直次郎の二男として出生とありますから、「鬼と天狗」の主人公である鳴海より、8歳年下。戊辰戦争のときは、28歳だった計算です。梅原でなく「山田」の姓を名乗っているのは、山田友松の養子になったから。それだけ、優秀さを見込まれていたのでしょう。余談ですが、実兄である梅原うめはら親固ちかこも非常に優秀かつ尊敬された人物で、敗戦直後は長国公の助命に奔走。戦後は青田ケ原(現本宮市)開墾事業にも携わりました。
山田脩氏は、安部井あべい磐根いわね・梅原親固と共に「郷里の三尊」と呼ばれ、今でも地域の人々に尊敬されているそうです。

そんな山田脩氏が養蚕への道を歩み始めたのは、三菱財閥創始者である岩崎弥太郎と出会い、蚕糸さんし業を勧められたからだそう。
明治6年、三井組代理人(小野組東北地方総支配人だったとも言われています)の佐野理八や小野組代理人の古河市兵衛、実兄の梅原親固、二本松の豪商・安斎宇兵衛らと共に、二本松城三の丸跡に「二本松製糸会社」を設立。この工場は前年に明治政府が群馬県に設立した「富岡製糸場」に匹敵する規模を誇りました。

二本松城三の丸跡地に設立されたわけ

さて、山田脩らがなぜ二本松三の丸跡地に工場を作ったか。その理由は、大きく二つあります。

第一に、製糸機械を動かすための燃料源が確保しやすかったこと。
当時、使用していた機械の動力源は「蒸気機関」でした。まだエネルギー革命が起きる前の話ですから、この頃の蒸気機関の燃料源は「薪」です。工場設立のときに出た廃材を利用したのは勿論ですが、明治政府から払い下げが認められた下成田細野(現二本松市郭内)の枯木山、及び西谷山(現二本松市二伊滝)の官林から、薪を確保できたのです。

第二に、二合田用水の水が製糸に利用できたこと。
製糸作業には、大量の水が不可欠です。水の質によって糸の光沢が左右されると言われたそうですから、水の確保も大切でした。
二合田用水というのは、初代二本松藩主丹羽光重公によって普請された用水です。水源は安達太良山中腹にあり、竣工当初は幕府に内緒で工事に着手したとのこと。幕府に内緒というところが、二本松藩の「領民愛撫」の精神を感じさせます。
非常時は城の攻防に役立てるだけでなく、農業用水や防火などにも利用されました。
現在でもその一部は残っており、下記の写真は、本丸裏手を流れる二合田用水の水路です。(2023.11.8撮影)

二本松製糸会社の発展

明治7年、出資者の一人であった小野組が経営から手を引きます。この小野組ですが、江戸時代は京都を本拠地として活躍した糸割符商人・両替商です。明治維新の際に、新政府を援助した関係で官金出納に従事、後に三井組と共に第一国立銀行を設立しました。以後、様々な事業を展開しますが、岩崎弥太郎率いる三菱との争いなどに敗れ、1874年に破産。二本松製糸会社から手を引いたのは、この破産の関係でしょう。

以後、二本松製糸会社は二本松の人らが経営権を握ります。明治7年3月には、梅原・山田兄弟に加えて安斎徳兵衛が支配人となりました。
さらに、梅原は渋沢栄一らと日本蚕種会を設立し、副会頭、会頭に選出。その関連でしょうか、同8年2月には蚕種業の視察のために、イタリアに旅立ちます。それに伴い、山田は副社長に就任しました。

明治10年12月、山田は単身渡米。洋学・洋語の知識がほとんどなかったにも関わらず、不嶢不屈の精神でニューヨークに支店を開き、海外での生糸直販に成功。工場を拡張するに至ります。

また、翌年には旧藩主であった丹羽長裕ながひろ公の工場視察もありました。長裕公は米沢藩公上杉家の出身でしたが、戊辰戦争の敗戦後、継嗣のなかった丹羽家の養子となり若くして藩主となった人物です。
(長国公は敗戦の責任を取って隠居させられていました)

長裕公は「心づけ」として金1円30銭を製糸会社役員に与えたとのことですから、彼なりに、戦後期の混乱の中で丹羽家の家督を継いだ者として、旧藩士・旧領民らの生活を気にかけていた様子が伺えます。

二本松製糸会社の設立がもたらした影響

さて、二本松製糸会社は戊辰戦争の旧二本松藩領の生糸産業にも、大きな影響を与えました。

1.製糸技術の向上により、生糸の品質が向上
明治以前から、二本松領は養蚕の盛んな地域でした。拙作「鬼と天狗」でも、鳴海の「生糸に関する講師役」として、中島黄山(蚕種・種紙商)や宗形善蔵(生糸問屋兼貸金業者)が登場していますが、安達地方の生糸は国内でもトップクラスの品質と輸出量を誇っていました。
だたし、幕末の頃の製糸は手作業であり、個人の習熟度により生糸の品質に差が生じていました。当時、二本松藩管内で生糸の一等品とされたのは、小浜産や針道産の生糸です。これらは「針道糸」と名付けられ、ブランド品扱いされていました。この「安達地方産生糸のブランド化」に大きく尽力した一人が、宗形善蔵というところでしょうか……。

ですが、明治に入り製糸工場が設立されてからは、手作業で製糸する針道糸よりも、高品質の生糸を安定的に供給できる「二本松産」の生糸が高く評価されるようになります。

工場設立当初の「利害得失取調書」によると

• 福島県産高約1万個(生糸の荷数)のうち、安達郡内で五千個を生産
• 品質第一等が二本松の生糸

とありますから、相当利益を上げていたに違いありません。
実際、会社としても約60万円の利益を上げていたとのことで、この金額は当時、米約3万俵が購入できるものだったそうです。

2.二本松の地に雇用を生み出した
製糸工場の生糸生産従事者は、その多くが旧二本松藩領や福島県内の女性だったと言われています。もっとも、遠くは東京や新潟から就職した例もありますが、工場が作られた当時の二本松は、敗戦後、収入源を絶たれた士族で溢れていたことでしょう。明治4年(1871年)には廃藩置県、同6年(1873年)には秩禄奉還の法、そして同9年(1876年)には秩禄処分が行われ、藩という仕組みそのものがなくなったのですから。
二本松製糸工場の設立は、士族授産の側面もあったに違いありません。

二本松製糸会社の職工の数は、約250人。当時としては大工場の部類でした。
拙作関連では、大谷鳴海の娘(ふさ)が二本松製糸会社で働いていたようです。彼女の父である鳴海は明治8年に43歳の若さで亡くなっていますが、彼女のように若くして父や兄弟を失った女性らも、数多く働いていたのではないでしょうか。何せ、戊辰戦争では三百人以上もの藩士が戦死していますから……。

3.海外との販路を築けた
二本松製糸会社の生糸は、当初は横浜居留地の外国人商人に向けて、販売されていました。いわば、横浜の外国人商人らは「仲買人」の役割を果たしていたわけです。
ですが、ここでの販売利益を自分らの懐に入れるべく、二本松産のかなり安く買い叩かれていたのではないでしょうか。というのも、「青天を衝け」では、渋沢栄一らが横浜でだぶついていた生糸を敢えて燃やし、値崩れを防いだエピソードが登場するからです。
設立当初の二本松製糸会社は思うように利益を上げられていなかったため、業を煮やした山田は単身渡米し、海外支店を立ち上げて直販ルートを開拓。仲買人を経ずに二本松の生糸を海外に向けて販売できるようになった結果、二本松製糸会社の経営は安定し、生糸の販路も拡大したのでした。


二本松製糸会社の終焉と双松館

ですが、その後二本松製糸会社は、世間の物価下落などにより生産量が落ち込みます。物価下落の背景には、大隈財政時にインフレが勃発。その対策として後継者である松方正義は、緊急財政縮小と紙幣整理を中心としたデフレ政策に踏み切ったという事情がありました。その結果、今度は米や生糸の価格が暴落。生糸の場合、明治13年には700ドル/斤近くの値がつけられていた生糸が、明治17年には400ドル/斤ほどまで価格が下落しました。
加えて、二本松製糸会社は機械設備の修繕費なども増大。諸々の負担が重くのしかかり、明治19年には、会社が解散します。

ですが、ここで終わらなかったのが山田氏の凄いところです。工場を買収し、新たに「双松館そうしょうかん」として、スタートを切りました。

それだけにとどまらず、明治30年には三代目二本松町長に就任。政治家としても、地域の産業振興などに尽力しました。
大正2年には、県内の製糸会社組合によって優良養蚕家らが表彰されましたが、その中には、塩沢・岳下・石井・杉田など二本松の村々が含まれていました。
このことからも、当時二本松の養蚕業は非常に高く評価されていたと分かります。

大正10年(1921年)、山田脩氏が亡くなった後も会社はしばらく存続し、大正14年(1924年)に操業停止。さらに、昭和4年(1929年)に不審火で双松館は消失し、現在はその面影を見出すことはできません。
ですが、今回の原稿を書いていて思い出されたのが、「直違の紋~」のスピンオフの一つである「父の背中」。この中で、剛介の息子である貞信さだのぶが、剛介に連れられて旧本丸に向かう途中で、双松館の敷地の端を通っている場面がありました。

家を出るとすぐに松が植えられた公園のような敷地があり、その一角には工場らしきものがあった。中からは、ブーンと機械の回る音がする。建物を迂回するように、父は山の上の方へ続く道を辿った。あちこちに石垣が残っているところを見ると、燃え尽きてしまった二本松の霞ヶ城の跡だろう。

このスピンオフは、明治21年頃の話。剛介が晩年を過ごしたのは、実はこの双松館のすぐ目の前の敷地でした。戊辰戦争後に今村家があった場所は、元々大谷彦十郎家の持ち物だった土地です。「二本松少年隊ゆかりの方ならば」ということで(鳴海の弟の衛守が木村砲術隊の副隊長でした)、特別に土地を譲り受けたとのこと。
その逸話を元にして、「父の背中」の上記の場面を描いたのですが、書いた時点では「双松館」の存在はよく分かっていませんでした。一応、製糸工場があったのは2021年冬に現地取材をして分かっていたので、その知識をフル活用した次第です。ですが、振り返ってみると、なかなかリアリティがあるワンシーンではないでしょうか。
「父の背中」は完全にフィクションですが、もしかしたら、剛介もこの建物を目にして毎日を過ごしたのかもしれません。

生糸生産の道具

さて、「生糸」はどのようにして生まれるのでしょうか。
どうやら二本松育ちの人は、学校の授業の一貫として、「蚕」の世話をしたことがある人も、珍しくないようです。
もっとも私は、20年ほど前に行われた「うつくしま未来博」で養蚕を見たことがあるくらいでしょうか。
そんなわけで、今回、初めてその概要を知りました。

まず展示されていたのは、「桑こき」。県北地方を訪れると、今でも時折「桑畑」を見かけますが、桑の葉は蚕の餌です。どうもお蚕様は、桑以外の食べ物は食べないらしいのですよね。
で、その桑の枝を刈ってきて葉をこそぎ落とすのが「桑こき」というわけです。その横には、蚕を飼育するむしろと蚕のモデルが展示されていました。

蚕は何度か脱皮を繰り返し、やがて、糸を吐き出して繭を作ります。
この繭を「毛羽けば取り器」の上で転がし、毛羽を取った後に繭を選別して「生繭」として販売することもありました。
蚕の繭1個から取れる糸の長さは、約1,000~1,500メートルほど。一貫分(約3.75kgほど)の生糸を取るためには、繭約20kgほど、個数にして12,000個ほどが必要だったそうです。
ちなみに、先の写真の糸取鍋は、「用糸取鍋」の刻印が見えます。この鍋の中で繭を茹で、繭の中のさなぎを殺してから生糸を取るのが一般的だったと思います。

繭は専用の櫛のようなもの(確か)で撫でて糸端を見つけ出し、それを手がかりに繭を解いていったと記憶しています。その専用の道具が、右の糸車のようなものなのでしょうね。
解けた糸は、糸枠に巻き取っていきます。持ち主の名前や住所などが記されていることもあるそう。

細い糸のままではまだ商品にならず、糸車を使って何本かを撚り合わせます。大きな輪とツム(紡錘)という軸を紐で結び、細い糸を引き伸ばしながら、繊維の筋に沿って撚りをかけ、強い糸にしていくとのこと。

これは工場ではなく、家庭内手工業で使われていたのでしょうが、恐らく、安達地方~県北に掛けて、多くの農家でこのような蚕飼育や生糸生産のための農具を備えていたものと思われます。

幕末の二本松藩における生糸の扱い

というのも、郡山市史3巻に、郡山の有力な豪商であった「小野屋」の記録が残されており、太物(絹と木綿の混織物)の売上が、年々増加していることが伺えるからです。安達地方は生糸生産が盛んな地域であり、当然郡山の商人らも安達地方の生糸類を扱っていたことでしょう。
「鬼と天狗」では文久2年~元治元年にかけての歴史を扱っていますが、文久3年の頃は大幅に売上が伸びていますよね。

もっとも、嘉永の前天保13年(1842年)は生糸が不作だったらしく、福島県内の生糸業者は、「福島ニ而者店々仕舞之者大ニ御座候」と、倒産が相次いだとのこと。ですが、その後持ち直したということでしょうか。
幕府が開国に踏み切ったのが、安政元年(1854年)。その後、万延元年(1860年)以降、幕末の貿易額は急増し、66年頃まで輸出超過の状態が続きました。その輸出品の8割以上が生糸と蚕卵紙で、横浜港の扱高が70%以上を占めたと言いますから、生糸や蚕卵紙の主力産地であった二本松藩は、やはり相当にこれらの収益を歳入の当てにしていたのではないでしょうか。
(生糸や蚕卵紙を商売で扱うには、免許税を納税しなければなりません)

ちなみに、少し遡って嘉永6年(1853年)の頃の小野屋の取引先は、江戸だけにとどまらず、京都や大阪の商人の名前も見られます。


余談ですが、この一覧にある「柳沼恒五郎(守山藩南小泉村出身)」は、自分でも繭を生産しつつ生糸に加工、横浜商人と直接取引をし、明治に入ってから、郡山で最初の製糸会社「正製社」の創立に携わったそうです。

二本松藩の商人たちの生糸関連の取引相手も、開国前は江戸や京都などの大都市圏在住の商人が中心だったのに対し、開国後は横浜の売込商(外国人への輸出商品を扱う商人)が主要取引先になっていったのではないか……というのが、私の推測です。
文久~元治年間の頃の京都なんて、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れまくり、「贅沢品を扱う大店」はよく尊攘派志士らの襲撃のターゲットにされていましたしね。とても上方相手の商売をするどころではなかった、思われます。

太物も含めて生糸関連産業が儲かったとすれば、やはり二本松藩としては、それらの流通が止まるというのは、かなりの痛手だったに違いありません。

そんなわけで、今回の企画展は、直接的には幕末の養蚕業の参考にはならなかったものの、色々と「鬼と天狗」のバックボーンを考察する上でのヒントを頂いて来ました。

そして後半はあの人物●●●●に縁のある場所も含めたレポをお送りしたいと思います。

<参考資料>
二本松市史9
郡山市史3
詳細日本史図録(山川出版/第2版)
にほんまつ城報館パネル 
青天を衝け 他

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