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2024年2月二本松探訪記~後編~

さて、2月の二本松探訪記の後編です。
前編はこちらからどうぞ!

城報館の後は、前回の訪問(23年秋)に時間がなくて訪問できなかった場所を訪れてきました。
二本松城下を自転車で走り回るのも3度目ともなると、ある程度地理も頭に入っており、今回はスムーズに走ることができました。
ちなみに今回は、城報館から供中ぐちゅうまで、「三森町通り」と呼ばれる通りを駆け抜けています。長州藩は、供中からこの通りを通って二本松城下に攻め込みました。そして、「亀谷坂かめがいざか」や「久保丁坂」に比べれば緩やかですが、この通りもしっかり「坂道」(苦笑)。郭内から行く分には下り坂なのですけれどね。

写真にはありませんが、途中、「小沢幾弥&朝河八太夫」が守っていたという「愛宕山」の側を通っています。


三浦権太夫最期の地

以前にぺれぴちさんのところでもコメントしたことがありますが、「三浦権太夫戦死の地」の碑文は、学生時代に散々通学の車窓から見ていたものです。
ただし、そもそも二本松駅に降り立つことがなかったのと、供中が二本松駅から遠かったので、訪れることがなかったのでした。

ですが、「直違の紋~」でも彼の最期の様子を描きましたし、「鬼と天狗」では初っ端から「危ない男」扱いされるなど、結構印象深い人物。そんなわけで、一度墓前で手を合わせようと思っていたのでした。

電車の車窓から見えるのはこの看板。今回はこの下にあるお墓まで足を運んできました。

というわけで、こちらが三浦権太夫義彰のお墓です。
「色々弄り倒してすみません」。そんな思いで手を合わせました。
何か、ポイントがズレている気もしますが^^;


ですが、ホントにいじり甲斐のある人物というか。

• 側近らが殿に「領地を回ってみませんか?」と城下に連れ出したのを、「もてなす農民らにしてみれば迷惑」と咎めた
• 江戸屋敷で丹波に建白書を出して丹波を怒らせた
• 揚屋に入れられても懲りずに、脛毛を抜いて作った筆で再び建白書を認めた

これらの所業が、公式文書類に記されているのですから、何かと物議を醸す人物ではありますよね。
ですが、「鬼と天狗」の鳴海と同じように、私も彼を嫌いにはなれません。「直違の紋~」を書いていた頃は、好きでなかったですけれど^^;
多分、二本松藩士の中で唯一「勤皇の志士」扱いされて(靖国に祀られています)、戦後の二本松藩士らの中でも色々取り沙汰されたとは思うのです。
それでも他の数々のエピソードを鑑みるに、本心から藩公の身を案じ、藩のために尽くそうとした案外ピュアな人物だったように感じます。

なので、元より「王政復古を念じて」いたかは、私は少々疑問です。まあ、「烏帽子に狩衣姿」でやじりのない弓を持っていた……という振る舞いから、誤解を受けるのも止むを得ないところではありますが。
ですが、本心から王政復古を念じていたのならば、出陣に際し、家族に「これで藩のために死ねそうです」なんて、言い残さないと思うのですよ。

明日散るも色は変わらじ山桜

彼の辞世の句ですが、以前にも書いたように、ここで言う「山桜」は霞ヶ城の比喩ではないか……と、私は思っていますし。
また、彼は「桜渓」という号も持っていたそうなので、ここで命を散らしたとしても、自分の心は永久に二本松藩に捧げる……とも読めます。
「勤皇の志士」としての姿と、生まれながらの「二本松武士」としての自分。三浦権太夫は、そのような狭間でずっと揺れ続けていたのかもしれません。


さて、こちらは権太夫の墓の奥にあった墓石。「南無阿弥陀仏」と書かれているだけで無名の墓石ではありますが、ひょっとすると、権太夫と共に戦った農兵のお墓でしょうか。

また、供中は二本松藩の処刑場があった場所でもあります。写真には収めてきませんでしたが、道の反対側には立派な慰霊塔がありました。
あるいは、ここにも処刑された人が眠っているのかもしれません。

安達ケ原ふるさと村

さて、鉄塔のところに見える先にあるのが、「安達ケ原ふるさと村」です。私が高校生の頃に出来た施設で、出来たばかりの頃に訪れたことがありました。
ですが、当時はその価値を理解できず……。

約四半世紀ぶりの来訪を最初に出迎えてくれたのは、蠟梅でした。

施設の一部は有料ですが、全体としては公園になっており、地域の人々の憩いスポットの一つです。子供のための遊具もあるので、二本松界隈の人々もこの施設をよく利用しているようです。


安達地方の暮らし

この安達ケ原ふるさと村と隣接している場所に、「安達ケ原の鬼婆」で有名な「黒塚」があります。
黒塚は能の演目の一つにもなっていますが、今回はパス。ただし、黒塚には鬼婆が使っていたと言われる石包丁なども残されており、こちらは高校生のときに見学しました。
「安達ケ原の鬼婆」はなかなか興味深いエピソードですので、次回の二本松訪問のときにでも再訪しようと思っています。

さて、今回この場所を訪れたのは、「武家屋敷」が再現されているという話を伺っていたから。とは言っても、再現されているのは中級クラスの武士の屋敷ということで、拙作で言うと「白露」の主人公である笠間市之進クラス(70石)の屋敷ということになります。

また、それだけではなく、当時の農家のイメージを膨らませたい、という思いもありました。要するに、これも「鬼と天狗」のための現地取材の一環です。

絹の家

最初に訪れたのは「絹の家」。「兜づくり」と言われる養蚕のための造りは、県北地方に多く見られたとのこと。

中は、入るとすぐに土間になっています。奥には竈もありますね。

農家ですから、居間は板敷き。冬場は寒かったでしょうね。
ここに円座わろうだや茣蓙を敷いて、色々と作業をしていたのではないでしょうか。囲炉裏があるのが、個人的には懐かしかったです。
→何と私が青森で暮らした家にも、囲炉裏がありました。

兜づくりと言われるこの様式は、天井が高いのが特徴ではないでしょうか。
吊るし棚も見られ、ここに保存食などを置いていたのかもしれません。

居間の隣室は、「中の間」という札が掲げられていました。もっとも、養蚕期間中(春~秋)は蚕室に転用されたとのこと。
このことからも、かなり養蚕で忙しかった様子が伺えます。

両脇の棚には、無造作に積まれた養蚕の道具が見えます。
手前の藁で編まれたものは、恐らく「蚕蔟かいこまぶし」。蚕の繭作りのための道具で、熟蚕をまとめて蔟に移し、繭を作らせるのだそうです。

不思議なのですが、繭を作ろうとする蚕はしばらく徘徊した後に、自然と一頭一頭枠の中に入って繭を作るのだそう。しかも、形の良い繭が出来るそうですから、蚕蔟は重要な養蚕の道具だったのでしょうね。

ちなみに、「鬼と天狗」の「針道の富豪」で出てくる宗形善蔵について。文久3年5月に彼の屋敷のところから出火して大火事になったのですが、そのときに「蚕蔟」に引火したのが、出火の原因だったとされています。
そんなわけで、蚕蔟を撮影してみた次第です。

こちらは、機織機はたおりきですね。
安達地方で「絹織物」が作られていたかはわかりませんが、綿との混織物である「太物」であれば、作っていそうな気もします。
いずれにせよ、この辺りの婦人は武士の妻でも「機織り」をしていましたから、農家でも現金収入を得るためのマストアイテムだったのでしょう。

富豪の生活

一方、こちらは明治時代初期の農家と言われています。

が、明らかに先程の「絹の家」と比べて大きいです。
諸々の市史や町史の記録から鑑みるに、「富豪クラス」の農家だった気がします。

というのも、針道地方(旧東和町)の富豪だった宗形善蔵ですが、隣村の木幡こはた村の「名主」であった「紺野氏」の屋敷の写真が、「東和町史2」に掲載されておりまして。
それが、結構広大な屋敷なのですよ。
宗形善蔵も針道村の名主を務めていましたから、同じくらいの規模の屋敷に住んでいたのではないでしょうか。

(画像出典:東和町史2)

写真にあるのは紺野氏の分家の方ですが、それでも、とても農家とは思えない位の立派さです。まあ、紺野氏は「農家扱い」とは言え、伊達政宗の「小手森城の撫で斬り」で生き残った名族なので、これだけ立派な屋敷だというのもあるのでしょうが……。
恐らく安達ケ原ふるさと村の「農村生活館」も、これに匹敵するクラスの農家だったのではないかと、推測されます。

さて、ここの土間には「縄綯なわない機」がありました。その右横には、藁沓わらぐつが。
藁沓がある点は、やはり東北、という感じがしますね。
そして、明治になれば既に藁を綯うのも機械を利用して合理的に行っていたのでしょう。

明治に入っているからかもしれませんが、床が板敷きではないですね。ですが、吊り棚があるところは、「絹の家」と一緒です。

中の間の奥には、雛人形が見えます。結構立派なお雛様ですね。
遠くにあるので詳細は見えませんが、何となく享保雛かなあ……という気がします。

興味深いのが、二階というか屋根裏が利用されていたらしいことでしょうか。いずれにせよ、家も大型化し、屋根裏で蚕を育てていたのかもしれません。
というのも、私が青森で住んでいた家がこんな造りで(築80年の家でした)、私と妹が利用していた二階部分は「蚕室として利用していた」と聞いたことがあるのです。
青森と福島では大分事情が異なりますが、似たような家の造りということは、維新後も養蚕が活発だったと推測されます。

お座敷。ここで、家族が集っていたのでしょうか。

上段の間。もしかしたら、上客のもてなしはこちらで行っていたのかもしれません。
拙作で言うならば、宗形善蔵が鳴海や衛守をもてなすような、そんなイメージが沸いてきます。
※若干ネタバレ気味になりますが、鳴海&衛守が宗形善蔵の屋敷を訪ねる場面があります。

武家屋敷

最後は、武家屋敷です。
もっとも、案内板にあるように「中級クラス」の武家屋敷とのこと。
先程までの農家と違い、屋根が藁葺きではなく瓦葺です。塀もあり、ぐっと高級感が増します。例えるならば、何となく現代のサラリーマンの住宅っぽいでしょうか。

ちなみに私が「中級クラス」のモデルとして笠間市之進を想定したのは、案内板に「下男、下女を一人ずつ置くことが義務付けられていた」とあったため。
白露」の執筆後、別の手記から笠間家にも「下男」がいたことがわかったため、「70石は中級クラス」と判断しています。

詳細はさておき、門もあるなかなか立派な屋敷構えです。
東和町史には旧安部井あべい家の門の写真も載っていましたが(65石)、やはりこのような感じの門構えでした。恐らく中級の家柄としては、これくらいがデフォルトだったのでしょう。
彦十郎家など大身の家柄になれば、もっと大きな屋敷なのでしょうが……。

客間。数えたら、8畳ありました。お客様用に、火鉢もあります。どのような人々を迎えたのでしょうね。

暗くてピンボケしましたが、茶の間。中央には囲炉裏も見えます。奥には、台所もありました。

台所、と言う割には竈などが見えないので、「うーん」と首を傾げざるを得ません。
もしかしたら、ここで調理の下拵えをして、土間の竈で煮炊きをしたのでしょうか。
囲炉裏では火力が弱すぎて、短時間の煮炊きには向かないですし。
→実生活で経験済み^^;

お風呂。小さいですが、ちゃんと浴槽もありました。ここで、家の主らは城勤めの疲れを癒やしたのでしょうか。
毎日使っていたのかは不明ですが、「入浴はどうしていたのだろう」という疑問が解消されました。
今後小説の作中で使うかはわかりませんが、このような細々とした場面は意外と資料が乏しく、考察が難しいのです……。

下の間。ひょっとしたら、武士の子供たちはこのような部屋で勉学に励んでいたのかもしれません。
ここは10畳。結構広い居室です。


上の間。下の間と良く似ていますが、床の間がある点が大きく違います。
主にふさわしく、床の間には刀がありました。そして、ミニチュアの「戒石銘」が。

床の間の拡大。
ミニチュアの戒石銘は、本当に各藩士の家にあったかもしれません。まあ、父親らは登城すると嫌でも目にすることになっていたでしょうが……。
→本物はお城のすぐ脇にあります。

庭先。四季折々の木々が植えられ、家人の目を楽しませていたのでしょう。また、先の看板にあるように、家庭菜園を拵えている家庭も多かったと思われます。
城報館の階段裏にある「丹羽図書」(掃部助)の屋敷跡からは「畑」を作っていた様子が伺えますし、「黒田傳太回顧録」にも庭先で葡萄を栽培していたとありますしね。
※丹羽図書も黒田傳太も、二本松藩では大身の部類です。

閉園時間も迫ってきたので(冬期は午後4時閉園)、急いで「絹の家」を外側からパチリ。水車小屋が、いい感じです。当時は、ここで穀物を挽いたり、脱穀に利用したのでしょう。

最後に、ふるさと村のシンボルになっている五重塔。由来は忘れましたが、造られたのはふるさと村の開園時で、結構新しい建物です。
それでも電車の車窓からも楽しめ、春は桜を背後に従えている姿は、なかなか風情があります。大学に通っていた頃、私がお気に入りだったフォトスポットでした。


以上、今回は前編・後編に分けて「二本松レポ」をお届けしました。

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