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自分の中の常識人間と闘った私の原体験

いい動画を拝見した。

動画でも語られているが、常識とは先人の知恵でもあり、守るべきルールでもある。しかし、自分の中の常識に固執するあまり、自分のアップデートを阻害されてはいないだろうか。

このツイートのように、結婚式自体、個人的にかなり疑問を感じる風習で、引出物も重いし(送ってくれる方もいるが)、寒~い演出が披露宴で繰り広げられるし(先日の式はそんなこともなく良かったのだが)、誤解を恐れず言えば3万円とかのコスパに見合う空間だろうか?と思っている。

先日参加した同僚の式は個人的にはそれほどストレスもなく、大変楽しい式であったので有意義で投資の価値のある時間だった。

私自身、結婚していながらも結婚式を挙げていない。参列した皆様方に金額相当の満足頂けるようなパフォーマンスの準備をする意味が見いだせないし、参列者もさほど興味無い二人に貴重な休日の数時間を割きつつ、3万円とか払いたくないだろうなという気持ちが先にあるので、どうしても抵抗感があった。

冷たい人間だな、と思われるだろう。勿論、素敵な結婚式はたくさんあるし、式自体を二人が今後幸せに歩むための大切な儀式であるという理解はあり、結婚された仲間は祝福したい。式の開催と参列に私が苦手だというだけである。

自分の中の常識人間

とは言え、自分の中でも参列しないと悪いだろうなぁという思いも少なからずある。だって常識的に誘われたらいかなくちゃいけないし、周りもみんな行くし、変な目で見られるだろうし、、、という思いはある。

この動画の趣旨は、そんな自分の中に潜む常識人間をそのままにしておいていいのか?という内容だ。

結婚式に本当は行きたくないのに行く、というはあくまで例で、自分自身に対してその類のウソをついていないか?という警鐘だ。自分にウソをついてでも、自分の信念を曲げてでも、取った行動の結果とそれを積み重ねた結果の先に幸せがまっているのか?

世界には守るべき常識で溢れている。
自分の中の常識人間はそれにすべて従えと言ってくる。
その常識人間に支配されて、本当の自分を騙し、ウソをついて、真に楽しい気持ちになるか?

常識人間と闘った幼稚園児

今でもはっきり覚えているのだが、幼稚園の頃に年長クラスの男子全員がサッカークラブに入っていた。園がスポンサーしていたのかよくわからないが、夕方になるとクラスの男子はこぞって園庭でサッカーに明け暮れるのだ。

年長になるタイミングで自分にも声がかかり、その時の内容を今でも鮮明に覚えている。

「サッカークラブに入りなさい」と当時の先生に言われ、なぜかと聞くと、「みんなやってて楽しそうでしょう?」というものだった。

その時その瞬間まで、集団のボール遊びに全く惹かれず、早く家に帰って絵本を読んだりテレビを見たり、自分の楽しみにしている遊びをしたいと思っていたので、サッカーをやれという命令が心底腹が立ったのを覚えている。

そこで幼稚園児の私は「そのサッカークラブには絶対に入らないといけないのか?」と先生に確認した。必須かどうか確認し、先生の答えは「NO」だったので、親も通さず自分の意志で「入らない」と回答した。もちろん一回も行かなかったし、また入りたいと思い直すこともなかった。考え直さないか?と言われたことは一度くらいはあったかもしれない。

その後もサッカークラブで遊んでいる友達を見てもうらやましいとも思わなかったし、自分のやりたい遊びを自由にできたことが嬉しくて、そのうちその事はすっかり忘れていたのだが、成人してから妙にそのことを思い出すのだ。

これが、私の人生で初めての、常識との闘いであったかもしれない。

常識人間と闘った小学生

小学校のころ、なんとなく友人たちがグループ化されていくことがあった。たぶんそういう年代なのだろう。気の合う友人同士でつるんで、ちょっとほかのグループの友人たちとは疎遠になるのだ。

子供にとって学校という小さい世界は、世界そのものであり、その世界の中での自分が大切だった。その世界から嫌われたくなかった私は、結構作り笑いとかして周りに合わせることが多かった。

冗談もよく言うし、なんとなく友達に行動を合わせて遊んでいた。

いつしかそんな行動が酷く疲れることに気づいたのだ。
なんで面白くないのに笑っているんだろう?
なんで行きたくないのに行かなきゃいけないんだろう?
なんでやりたくないのに遊ばなくちゃいけないんだろう?

そんな思いが、あるとき大量に吹き出し、私は一気に行動を変えた。自分に正直になり、怒るときには全力で怒った。暴力こそ(1回ぐらいしか)振るわなかったが、自分の気持ちを正直に話すことに非常にこだわった幼少期だったと思う。

自分にウソをつかなくなったことで、毎日がとっても楽になったことを覚えている。

中学生から高校生にかけては、それこそ空気を読む行動をとるようになったが、小学校のころの自分にウソをつかないことで得た自由こそ、私の原体験にあたるのかもしれない。

原体験を仕事に生かす

若手の人材と話すことが多いが、仕事だからと言って、これまでの自分とは別の自分になろうとしている人間が一定数いるようだ。

本当の自分を隠し、仕事になると演技をし、無理をして社会の歯車に成り切るという行為が仕事の一つだと思っている節がある。

もちろん集団行動であるから、ある程度空気を読んだ行動は必要であるのだが、過剰に自分にウソをつく必要はない。そこまでして無理をされて、意に反した行動をとりすぎると返って回りの迷惑になってしまうからだ。

特に目立って私が気になるタイプに、プライベートや趣味の話になると生き生きと会話するのだが、仕事の内容に踏み込んだ話になると一気にトーンダウンしてつまらなそうに話す人がいる。

そういった人には、あからさまに興味がなく、やる気がなく、言われた通りにさえやっていればいいんでしょう?といった態度を取られることが少なくない。

そのような態度を取る人がもし、周りにいたら声をかけてあげよう。おそらくその仕事はあなたの原体験とはかけ離れた業務内容なのではないかと。一度、時間がかかっても良いから自己分析する機会を作って考えてみるとよいと思う。

自己分析は、前田裕二さん著の「メモの魔力」の巻末を活用するとよいだろう。

前田裕二さんの原体験も恥ずかしいほど赤裸々に記されている。彼自身の行動理念の源泉が原体験にあること、原体験が如何に大人になってからのエンジンになるかを知るいい一冊だ。

私も幼少期の原体験を大切にして生きていこうと改めて思った。

子供のころの私自身が今の自分を見てどう思うだろうか。

自分にウソをつかず、楽しい自由な時間を仕事の中に作れているだろうか。家庭の中に作れているだろうか。

もう少し大きくなった子供たちに、胸を張って伝えなくてはいけないことがまた一つ増えた気がした。

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