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今こそ、「異質平等論」をおさらいしよう

突然ですが、皆さんは「男女平等」または「ジェンダー平等」という言葉について、どのように考えていますでしょうか。

実質的には単なる女性優遇でしかない、あるいはそれを言い換えているだけだ、男も女もその性別による不利益を受けないことではないのか、などなど、様々な考え方があると思いますが、その中には

「男女の役割を同じにすることは不可能だが、その中で利害を公平にしていくことこそ、真の平等なのではないか」

という考え方があります。これを前面に出している代表的な論客には月々氏などがいます。これを「異質平等論」といいます。

「女の地位の平等を目指す思想としてのフェミニズム」が「敗北」した今、この議論は反フェミニズム側からも、批判的に見ていく必要があるのではないでしょうか。

現状の男女共同参画局は公式見解として「異質平等論」を否定している

「異質平等論」について述べられているネットメディアは、さほど多くはないのですが、以下の東洋経済の記事では比較的詳しく掘り下げられています。

この文章の中に、たとえば「男女の特性を無視することなく」といった文言が一言入ってしまえば、この法律の根底的な考えが崩壊してしまいます。「男女は違っているが対等だ」というこの立場は、「異質平等論」と呼ばれるもので、母性神話や性役割分業規範を肯定するのは、その典型例です。現在、ジェンダー論の研究者の中で、この立場に立つ人はほとんどいません。社会学者まで広げても、かなり少数でしょう。

この男女共同参画社会基本法は、ジェンダー論の議論を背景としつつ、異質平等論を明確に否定しているのです。

まあ、これは当然の話です。月々氏の論を含め、多くの異質平等論では男性の地位的優位の必要性が謳われています。これは「女の地位の平等」を是とする第3波までのフェミニズムとは建前上●●●相容れない思想です(それがダブルスタンダードに満ちているという点については、本項では置きます)。

もっとも、この見解がいつまで続くかは全く不明です。引用した東洋経済の記事も些か古いものです。

「性別役割分業」を壊すのではなく、その問題点を洗い出すという発想

第4波フェミニズムは「下からのフェミニズム」とも呼ばれ、これまでの言論の枠組みとは全く異なる、主婦など本当に「草の根の階層」からダイレクトに発信されているものであり、それ故第3波までのフェミニズムよりも「反知性的」で「被害者意識の強い」主張になっていることは、今更言うまでもないでしょう。ではここで、問題です。

「主婦」という立場からフェミ的主張をする彼女らは、本当に「性役割分業の解体」を望んでいるのでしょうか?

そんなわけないんですよ。そもそもそれが一気に「解体」されちゃったら、彼女らも路頭に迷うことになりかねません。そのくらいはいくら「無能」でも自覚しているはずです。むしろその「役割分業」が彼女らにとっても「望ましいもの」にするために「その問題点を洗い出す」という発想でしょう。全く支持はできませんけどね。

また、かなり前の記事で取り上げましたが、フェミニズム・ジェンダー研究の現場においても、このような「性役割を重視する」女性たちの存在は知られていました。

そして、(引用者注:性役割を重視するポストフェミニストは)その個人的領域においては、「女性ならではの役割」や「女らしさ」を楽しみたいという主張を持っている。だが、このような主張内容がフェミニストによって批判されていると思い込んでいるために、フェミニズムに反対している。
つまり、ポストフェミニストは、女であることによって社会的に不利な扱いを受けないことと、女らしさの享受とを「当然のもの」として要求している(もしくはすでに実現されていると認識している)ことがわかる。

以上のようにポストフェミニストたちの主張を整理することで見えてくるのは、「女らしさ」の享受と「女であることによって社会的に不利な扱いを受けないこと」を当然視するポストフェミニストの主張は、根本的には、現在フェミニズムが目指しているものと齟齬するところがないのではないか、ということだ。
例えば、フェミニズム原理に近いハッシュタグ運動#MeTooは、「女性的魅力」の発揮(例えば、女優という職業)と、セクシャルハラスメントにあわずに職業生活を全うできるような社会的環境の両方を要求したものといえる。

ただしこの記事で述べたように、「女らしさの享受」とは「女性的魅力の発揮」ではありません。むしろ「女であるがゆえに周囲が立ててくれること」であると言えます。そもそもそういう形でなければ「享受」などできるはずがありませんし。

こうした考え方にも、「性役割を彼女らにとっても望ましいものにする」という発想が根底にあることは間違いないでしょう。つまりこれらも、「異質平等論」の一種と言えるわけです。

ただしアンチフェミとフェミニストの説く「異質平等論」には大きな相違点もあります。前者は地位的優位を「導出される結論」として捉えているのに対し、後者は「自明な前提」として捉えていることです。弱者男性(その定義はこの記事を参照してください)の話に置き換えるなら、前者はその地位の向上女からの奪還を呼びかけているのに対し、後者ではそもそも「いないことにしている」と言ったほうが分かりやすいでしょうか。

「公平な利害」の何たるかを知る者などいない

これでなぜ「男女平等」または「ジェンダー平等」が実質的には単なる女性優遇でしかないのか、という説明も付きます。すなわち、それが彼女らの望む「性役割」だからです。

つまり男はあまねく女に忠義を尽くすべきであり、それによって生じた問題について女側は一切責任を負うことはない、そしてその忠義はたとえ女に性欲や愛情を抱かないとしてもなされるべきである、それが女たちの考える「性役割のあるべき姿」なのです。

そしてこれを「ただしい」ものとしているのは、言うまでもありませんが、女の「子供次世代を産み育てる能力」が現状でも(人工子宮が実用化されれば変わるかもしれませんが)代えがたい能力であることそのものです。

結局「公平な利害」なんて誰が知るものでもないのです。「男女の思考は本質的に異なる」ならなおさらです。このため私は、逆説的に「男女関わりなく同じことができること」こそ、平等と言うべきなのではないか、と考えます。だからこそ「人工卵子・人工子宮」なのです!!

多様性主義は異質平等論と親和性が高い

そしてここで、「多様性」主義の理念を見ていくと、意外にそれが「異質平等論」と親和性の高いものであることに気付かされます。その理念として一般的に言われていることは、次のようなことでしょう。

それぞれの「違い」を認め合い、互いを尊重し、共に生きられる社会を目指そう

この理念に則るなら、男女の本質も、全く異なっている(ことをフェミニズム側が認める)ほうが都合がいいはずです。「『男女の思考は本質的に異なる』からこそ意思決定の場に女が必要だ」、「『性役割分業は社会の持続のために必要だ』からこそその分業は女にとっても望ましいものでなければならない」そういう理屈を導き出すこともできるのですから。

真面目な話、これだけは忘れてはいけない

以上、私がこの記事で言いたかったことは、

「性役割分業が『女の都合のいいように』運用されることも『ジェンダー平等』の一表現である」

ということです。しかし、どうも読者の皆さんには、このことを真面目に捉えていない人が多いように思えます。

だからこそ、この記事の読者の皆さんには、冗談抜きで●●●●●、このことを決して忘れないでほしいと思います。どんなに性分業・権利制限・性差別が必要で、あるいは必然で、あるいは正当であっても、それがフェミニズムないしは女性主導で実行されては、意味がないのです。