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カポエラスイッチ 第02話

「愛娘とプール」

 夕方、実家から電話があった。飼っていた猫が死んだ、と母が涙声で言った。十八年生きた猫だった。その夜中にはトルコリラが大暴落したというヘッドラインが流れ、さらに、深夜に中東でテロによる爆破事件が起こり、夜明け前には台風が進路を変え、東京を目掛けて北上し始めた。
 いつもより世の中が些か不穏なのは、もしかすると俺が黒子ほくろを取った影響だったりして。次々と耳に入るニュースに、俺の心は不謹慎にも躍っていた。「スイッチオン」と妻のカナエが、毎朝ワンプッシュしていた黒子は、実は世界平和を起動していて、思いつきのプチ整形により、世界は制御不能に陥っていくのだ。
 なんて、いやいや。そんなバカな話がアルカイーダ。こんな俺でも、現実とエゴい空想を区別する分別はあるさ、そうさ。しかし、一度意識し始めると、頭の中から完全に追い出すことは難しいわけで。気になるあの子の無意味な挙動に期待しては落胆する能動的ヒロイズムにも似たるわけで。だって、どうしたって人生の大半はそんな幻で構成されているのだから仕方ないわけで。
 マンションの外壁を巻く風音が強まってきた。右目の下を人差し指で触る。紫外線に当てないためにクリニックでもらった肌色のテープを貼っているが、焼跡に痛みはなく出血もない。俺はソファに斜めに寝そべって、スマホでニュースを見ていた。ジャカルタで飛行機がハイジャックされたらしい。ごくり、唾を飲む。また一つ、不穏の種が――
「パパ、準備出来た?」
 競泳水着の愛娘がリビングへ入ってきた。花柄の浮き輪を肩に背負っている。泳欲溢れるその姿を見て、午前中に屋内プールへ行く約束を思い出した。窓の外に目をやる。雨は降っていないが、風が吹き荒れている。悪天候の中、出掛けるのは気が進まなかった。
「やっぱり、今日は止めにしようか」
「あら、どうして?」
「こんな天気だし、それに、その、ほら、あれだ、牛久のおばあちゃんの猫が死んだんだ」
「まあ、タイガーが死んだの?それは可哀想ね。おばあちゃんもさぞ悲しんでいるでしょう。けれど、プールに行く約束に関係ないわ」
「トルコリラが大暴落して」
「無職の分際で外貨投資をしているなんて、ママにバレたらどうなるかしら。いいわ、黙っててあげるからプールに行きましょう」
「中東でテロが」
「対岸のテロね」
「台風が関東直撃コースで」
「だから午前のうちに行って、帰って来る予定だったのよね」
「分かったよ。全部愛娘の言う通りだ。準備をするから五分ください」
「了解。話せば分かるパパが好きよ」
「俺も。話されれば分かる自分が好きだよ」
 ジャカルタで飛行機がハイジャックされた、という最新ニュースを言い加えようとしたが、どうせ軽く一蹴されるだけだろうから舌を引っ込めた。
 低気圧で重くなった五体をソファから起こそうと捥がいていると、愛娘が両手で掴んで引っ張ってくれた。立ち上がると、並んだ二人がイケアで買った姿鏡に映った。愛娘は俺より頭半分だけ背が低かった。
「背が伸びたね」
「一六九センチよ。クラスの女子で一番大きいわ」
「ママにそっくり」
「ママの子だからよ」
 クールな彼女は長い足をすらり伸ばしてリビングから出て行った。ダイニングカウンターに置かれたカレンダーに目が止まる。二日前から今日の日付まで線が引かれ、(ママ出張)と書かれていた。愛娘がドアの隙間から顔を覗かせ、上目遣いでこちらを見て言った。
「早く支度してね」
 マンションから市民プールまでは徒歩十分。まだ降り始めていなかったが、帰りのことを考えて車で出掛けた。
 愛娘は消毒シャワーの洗礼をさっと通過すると、助走をつけて流れるプールに飛び込んだ。「走らないでくださーい!」とメガホンを口に当てた監視員に注意されたので、保護者の俺が代わりに頭を下げた。愛娘は浮き輪をすっぽりかぶって、水の流れるままに浮き流された。
「温いわね」
 愛娘が水飛沫を投げつけてきた。俺はビート板に顎を乗せ、索敵中のワニのように水面から顔を出して愛娘の後をついて流れた。流れるプールは校庭のトラック一周ほどの大きさで、内側エリアには全長三十メートルのウォータースライダーがあった。
 一組のカップルが一つの浮き輪に二つの体をねじ込み、窮屈に重なって流れされていた。彼女の着ているビキニは繁華街のネオンサインみたいな紫色をしていた。瞳孔が散大して興奮している彼氏から良からぬものが溢れ出て、川下の愛娘に到達することを心配した俺は、水面下でダブルラリアットして水流をかき乱した。愛娘は浮き輪をぎゅっと握り、細目でカップルを観察していた。奥二重のジト目が、深めにかぶる紺のスイムキャップと平行になっていた。
 俺は、その冷たい目つきにうっとりと魅入って、プカプカと浮き続けた。黒子の手術痕を覆う肌色シールは少し濡れていたが剥がれはしなかった。


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

【カポエラスイッチ 目次】
第01話「プロローグ」:https://note.com/juuei/n/n7880bd39740a
第02話「愛娘とプール」:https://note.com/juuei/n/nfbaaedc8834f
第03話「教室、廃業」:https://note.com/juuei/n/nd97c69d0937e
第04話「ハイジャック」:https://note.com/juuei/n/n190dfdfc128a
第05話「妻は、どこに?」:https://note.com/juuei/n/ndd18ccb14c7f
第06話「トグロマグマ」:https://note.com/juuei/n/n14a7884db4fa
第07話「三庵寺」:https://note.com/juuei/n/nd9c2ea1951f0
第08話「超能力」:https://note.com/juuei/n/n5b2a9cc920fc
第09話「見えない、JK」:https://note.com/juuei/n/nf41bd6adbe0e
第10話「能力、開花」:https://note.com/juuei/n/n9f0acf63b57f
第11話「電波砲」:https://note.com/juuei/n/nd410e71f1a4e
第12話「犯行声明」:https://note.com/juuei/n/na30bf186cac5
第13話「Netflixの見過ぎ」:https://note.com/juuei/n/n8db9f11e2e7a
第14話「本当に、撃つのか」:https://note.com/juuei/n/n2024e7fc7c82
第15話「カナエ」:https://note.com/juuei/n/nd70dc3f025d8
第16話「スイッチ」:https://note.com/juuei/n/nb16dea34d890
第17話「エピローグ」(最終話):https://note.com/juuei/n/n7271740ff234

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