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カポエラスイッチ 第15話

「カナエ」

 本郷の窓の向こう側にあった電波の右腕が持って行かれてしまった。鋭利な断面からは、血液が噴き出し続けている。本郷は電波の体を押さえると、腋窩を指で圧迫して応急的に止血した。
「救急車呼んで!タオル持って来てください!」
 俺と庵寺の頭は、状況に追いついていなかった。
 機内から意識を戻した水耕が「痛ってぇっ!」と左脇腹を押さえ、椅子の上で目を覚ました。血まみれの床を目の当たりに、倒れている電波の側に膝を折って寄った。
「大丈夫、電波ちゃん!?ああ!腕がない!」
「どいて!本郷さんが応急処置してるから!」
 水耕を押し除け、店長は持ってきた大量のおしぼりタオルを本郷に渡した。
「店長さん、ここを強く押さえて圧迫止血をしてください!これから緊縛止血をします」
 本郷に指示された箇所を押すと、切断面から露出した上腕動脈をつまんだ。滑る血に塗れて視認はできなかったが、普段から様々な食肉を調理しているため、コリコリした触感でそれが動脈だと分かるのだろう。ピュッピュッと噴き出していた出血が弱まってきた。
「まずいよ、本郷さんっ、脈が弱まってる!」
 狼狽える店長を横目に、カウンターに座る愛娘が表情なく言う。
「違うわ。治ってるのよ」
 愛娘が店長に目覚めさせた治癒能力が発動し、直接触れている動脈の切り口から細胞が再生し始めていた。苦痛に歪んでいた電波の表情が和らいだ。
 腕の再生という奇跡の業に皆が魅入った。店長が両手を添えて腕の切断端をゆっくりと伸ばす。
 ピザ生地みたいに柔らかそうな肌色が徐々に腕の形を成し、ついには指先まで完全に元通りになった。
 店長は信じられない様子で、自身の両手を確かめるようにつねった。
 わずかな安堵の空気も束の間、俺は愛娘の肩を強く掴んで訊いた。
「ママを殺そうとしたな。どういうつもりだ?どうしてカナエがハイジャックをしている?お前は何を知っている?」
 そうだ。愛娘にはおかしいことだらけだ。庵寺と電波以外の人には姿が見えていない。そのことだって気にするなと言われれば、気にならなくなり、触れただけで次々と奇妙な能力を目覚めさせた。
 そして、何より、電波に命令してカナエを、自分の母親を撃たせたのだ。
 愛娘は、枝毛を探すような仕草で素知らぬ顔で笑って見せた。
 水耕の意識は戻って来たが、電波砲を撃たれたカナエは生きているのだろうか。
「水耕、カナエは、あのハイジャック犯はまだ無事なのか!?」
「腹を撃たれた。今はまだ、多分、生きていると思う」
 水耕が自分の腹を撫でながら言った。
「もう一度行ってくれ、頼む!店長の治す力でカナエを助けられる!」
 水耕は首を振った。
「なんで助けなきゃならないんだよ。痛みまで感じるなんて聞いてねえし、もう危険は御免だ」
「頼むよ!本郷の窓からこっち側にカナエを引っ張り上げれば、店長に治してもらえるんだ」
「カポさん、すみません。自分も手伝えないっす。体が切断されるなんて、知らなかったっす。途中で指が外れて窓が閉じてしまったらと考えると……、すみません、出来ないっす」
 本郷は申し訳なさそうに言った。二人の協力を得られない俺は、愛娘に懇願するしかなかった。
「ママを助けてくれ。頼む……」
「ねえ、パパ。月には行ってみたいけど住みたくない、ってセサミストリートのアーニーが歌っていたのを覚えてる?私、小さい頃はあの歌詞の意味が分からなかったの。だって、月には空気がないから住めるわけないでしょ」
 愛娘はグラスにささるストローに口をつけてジンジャーエールを一口飲んだ。
「でも、きっと、月って憧れのことなのよね。憧れが日常になってしまうと、それはもう憧れじゃない。だから、月には住みたくないのよ」
「愛娘、何の話をしている?」
「ここにいる皆、能力に目覚めたわ。他人の意識に乗り憑ったり、霊と交流したり、空間をつなげたり、見えない鉄砲を撃ったり、傷を治したり。じゃあ、パパは?パパの能力って、何なのかしら」
「俺には何の力もない。だから、みんなに助けてもらおうと」
「違うわ。これは全部、全てを手に入れたいと願ったパパの力なのよ」
 愛娘が自分の目の下を指した。その指の動きに倣って、俺は手術で除去した黒子の跡を触った。薄皮が再生し始めていた。
「パパがその黒子を取ったから、世界が変わったのよ」
「黒子を取ったくらいで世界が変わるものか」
「変わるのよ。ねえ、パパは、私の名前を言える?」
 そんな簡単なこと。
 何を馬鹿な質問を。
 おい、嘘だろ。
 どうして愛娘の名前が思い出せないんだ。
 愛娘が、ほらね、と微笑んだ。
「私の名前はカナエよ」
「カナエは、ママの名前だろ」
「私もあの人も、どちらもカナエという同一の存在なの。パパの目の下にあった世界スイッチで観測が確定するまで、私と私達は全ての可能性として存在していたのよ。パパのスイッチを押す度に、様々な私が存在する世界に生まれ変わってきたの。娘、妻、姉、妹、お隣さん、先輩、後輩、同僚、友人、幼馴染。パパの願いなのか、神様の気まぐれなのかは分からないけれど、皆、パパを愛してた。だけど、世界スイッチが焼かれてから、私とママ、二人のカナエが同時に存在し始めたの。世界のバグね。でも、私にとって、ママのカナエは本当のママでもあり、私でもあることは矛盾してないのよ。ママも私も、世界から不完全に観測されている存在にすぎないわ」
「あのハイジャック犯は、本物のカナエなのか?」
「そう、私と同じ本物。妻がハイジャック犯だなんて、普通に起こりうる可能性の閾値を超える事象だけど、スイッチが壊れたのだから仕方ないわよね。犯行声明の要求事項にはびっくりしたわ。カポエラをオリンピック正式競技にしろだなんて本当に馬鹿げてる。でも、もし私がハイジャック犯になったとしたら、同じことを要求したでしょうね。結局、ママは、パパのカポエラ教室が閉鎖したことが悲しかっただけなのよ。パパの好きなことのために命を捧げて、本望だったんじゃない?」
「妻のカナエが死んだら、お前はどうなる?」
「パパの娘という私の存在が確定するわ。それから、辻褄合わせに世界が少し作り変えられるでしょうね。少なくとも、そこのおじいちゃんと、電波ちゃんは消えてしまうわね。パパから生まれた私の能力で作られた人達だから」
 庵寺が膝をポンと叩いた。手に付いた電波の血がジャージのズボンに写った。
「わしと電波が消えるじゃと?わしらが、嬢ちゃんの能力で作られた存在だと?はんっ!何を馬鹿なことを。おい、水耕、店長。この嬢ちゃんに言ってやるんじゃ。わしらの付き合いの長さを」
 水耕と顔を見合わせ、店長が申し訳なさそうに口を開いた。
「カポさんの娘は俺には見えないし、声も聞こえないから、何の話をしていたかはよく分からない。けど、皆が変な、というか、すごい力に目覚めたのは事実だし、二人が能力で作られた存在だなんて嘘みたいな話だけど、あながち嘘とも思えないかな」
「俺も店長と同意見だ。庵寺、あんたとは十年以上の付き合いだ。飲んで悪ふざけして、よく喧嘩もした。電波ちゃんには、恥ずかしい話、こっぴどく振られたこともあった。でも、この記憶すら作られたものってことだな?」
 愛娘が頷き、俺もそれに倣って頷いた。
「まっ!気を落とすな、じじい。お前が面白い奴だったってことは俺達が知ってる。この先もどこかで図太く、元気でやることだろうよ」
 水耕は庵寺の肩を叩いた。庵寺は力なく椅子に座った。本郷は目を覚まさない電波の手を握り祈っている。水耕は喉の奥を詰まらせながら、庵寺と電波との思い出をぽつりぽつりと語っていた。
 こうしている間にも、刻一刻と妻のカナエは死んでいっている。もう打つ手が残されていない。
 俺は頭を抱えてテーブルに顔を伏せた。
 突然、人影もなく店のドアが開いた。
 雨も風も吹き込んでこない。嵐は嘘のように止んでいた。
「どうして?どうしてここに来れたの、ママ?」
 愛娘は、憎々しく視線を落とした。
「そう、タイガーね。ママを連れて来て、悪い子ね」
 庵寺が、おいでおいでと手招きをして呼んだ。庵寺の目線を追うと、幽霊猫が彼の膝上に跳び乗ったと分かった。
「ひどい傷ね、ママ。もう死んでいるのかしら?それとも死にかけ?幽霊になってまで、本当に、ご苦労様ッ!」
 娘が溶岩石で出来た不恰好な皿を、入り口に向かって思い切り投げ付けた。
 皿は、衝撃を受けたように宙空で砕け弾けた。
「残念だけど、ママがいくら叫んだところで、パパには聞こえないわ!ママはハイジャック犯で、死に損ないの幽霊なのよ。パパのことは私に任せて、消えてくれる?」
 俺の目には何も映らないが、娘の言葉から、ここにカナエが来ていることは伝わった。庵寺は口をぽかんと開いて、店の入り口と愛娘を見比べている。
「本郷、窓を開いて、庵寺に向けてくれ!」
 電波を膝枕したまま、本郷が両手の指を繋げ、小さな円を作って庵寺に向けた。庵寺の視界が窓に映し出された。後ろに回って窓を覗く。軍服のような服を着た妻が娘と対峙していた。電波砲で撃たれ、赤く染まった脇腹を片手で押さえている。
「カナエ!」
 その時、俺のスマホの着信音が鳴った。

『べべべべべべべべン、べべべン……』
 弦をリズミカルに弾くビリンバウの音。 パンデイロの打音に合わせて、クラップ、クラップ、クラップ。パラナエーパラナエーという伸びのある歌声。

 流れるカポエラの曲に合わせて、妻と娘はジンガのステップを踏み始めた。自分の顎に肘を巻きつけるほど大きく腕を振り、クラウチング気味に脚を交互に後方に伸ばし、大胆なストロークでリズムを刻んで互いの様子を窺う。
 先に仕掛けたのは娘だった。妻の顎先を狙って蹴り上げるケイシャーダ。そのままメイアルーアジフレンチに繋げ、頭部目掛けて虹の弧を描くように外側から内足を回した。
 妻は両手で床をタップして蹴りを躱すと背を向け、真っ直ぐと伸びた右脚を逆袈裟の軌道で踵から振った。メイアルーアジコンパーソだ。
 娘は前腕で防御したが、半長靴の重みと遠心力で勢いのついた衝撃を受けてよろめいた。
 続け様に妻がパラフーゾ、体全体を錐揉み状に回転させて飛びながら繰り出す回し蹴りで空襲した。
 娘は片手でバック転をするマカコの動きで逃れると、壁を二歩駆け上った。空中で体を屈め、オーバーヘッドキックを妻の脳天目掛けて打ち下ろす。ホーリャというアクロバティックな大技だ。
 雷槌のような蹴撃を、妻は両腕を十字にして受けた。バランスを崩して片膝をついたが、すぐさま足払い(ハステイリャ)で、娘を転ばせた。
 両足が浮いた娘は片手で体を支えると、アウーバチドゥで上段蹴りを返しつつ、側宙で距離を取った。蹴りをまともに食らった妻がよろめいて退がる。
 なんと、美しいジョーゴだろう!いや、正確には組手ではないのでジョーゴとは言えない。カポエイラの試合では実際に攻撃は当てない。
 俺は二人の死合う動きに目を奪われた。
 スマホの着信音が鳴り止むと、二人はジンガを止めた。画面には、『着信1件 ホセ』と表示されていた。
「カポエラの腕は、私の方が上みたいね」
 愛娘が再びジンガを始めると、妻は懐から取り出したピストルの銃口を愛娘に向けた。
 涙を流していた。妻にとって、愛娘が娘であるということも事実なのだ。相反して矛盾する真実だ。娘に銃を向ける苦しみに焼かれていた。
 愛娘が不規則な動きで射線を撹乱しながら、椅子からテーブルに跳ね乗ると、回って飛んだ。宙を舞い、脚を鞭のようにしならせて振り落とす。
 だが、その死神の鎌が妻の首に到達するよりも先に、火薬が赤い炎を放った。撃ち出された3発の銃弾は、娘の胸の真ん中を貫いた。彼女の軽い体は重力に従順に崩れ落ちた。
 妻は声もなく謝ると、旋風のように消え去った。
 本郷が窓を閉じた。
 俺は愛娘に駆け寄って体を抱き起こした。血液が溢れ出る傷口を必死で押さえた。
「店長、頼む!娘を治してくれ!」
 即死、という語が脳裏を過ぎった。いや、諦めるな、救えるかもしれない。
 店長は戸惑った表情で、首を横に小さく振った。彼には娘のことが見えていないのだ。
 窓の能力を使えばあるいはまだ、と本郷を頼ろうとしたが、彼は射撃音で目を覚ました電波に顔を擦り付けて号泣していた。もともと娘が目に映らない彼らに、俺の祈りは届かなかった。
 こうして妻のカナエは、この世界でハイジャック犯としての存在を確定させた。 娘の死と引き換えに。


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

【カポエラスイッチ 目次】
第01話「プロローグ」:https://note.com/juuei/n/n7880bd39740a
第02話「愛娘とプール」:https://note.com/juuei/n/nfbaaedc8834f
第03話「教室、廃業」:https://note.com/juuei/n/nd97c69d0937e
第04話「ハイジャック」:https://note.com/juuei/n/n190dfdfc128a
第05話「妻は、どこに?」:https://note.com/juuei/n/ndd18ccb14c7f
第06話「トグロマグマ」:https://note.com/juuei/n/n14a7884db4fa
第07話「三庵寺」:https://note.com/juuei/n/nd9c2ea1951f0
第08話「超能力」:https://note.com/juuei/n/n5b2a9cc920fc
第09話「見えない、JK」:https://note.com/juuei/n/nf41bd6adbe0e
第10話「能力、開花」:https://note.com/juuei/n/n9f0acf63b57f
第11話「電波砲」:https://note.com/juuei/n/nd410e71f1a4e
第12話「犯行声明」:https://note.com/juuei/n/na30bf186cac5
第13話「Netflixの見過ぎ」:https://note.com/juuei/n/n8db9f11e2e7a
第14話「本当に、撃つのか」:https://note.com/juuei/n/n2024e7fc7c82
第15話「カナエ」:https://note.com/juuei/n/nd70dc3f025d8
第16話「スイッチ」:https://note.com/juuei/n/nb16dea34d890
第17話「エピローグ」(最終話):https://note.com/juuei/n/n7271740ff234


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