カポエラスイッチ 第04話
「ハイジャック」
プールを出たのは午前十一時五十分。台風は確実に関東に接近し、風雨は強まっていた。妻が現金一括で購入した軽自動車を停めてある駐車場まで、俺と愛娘は息を切らして走っていた。
「どうして傘を、持ってこなかったのかしら。パパは本当に、アレね」
「家を出た時は、まだ降って、いなかったし、二人とも、水着を、着てたから、濡れても、いいやと、思って、はあ、息が、はあ、苦しい」
「帰りは着替えるのだから、傘は必要よ。パパは本当に、アレなのね」
車に飛び乗ると、素早くドアを閉めた。車内にこもった雨音が逃げ場をなくして一層大きく鳴り散らす。穴を空けてしまいそうなほど、雨が激しくルーフを叩いた。俺は呼吸を整えながら濡れたタオルで顔と頭を拭いた。
「本当に凄い雨だ。コースアウトしない台風を甘く見てた。いや、本当にアレですまなかった。……ところで、アレって何だい?」
「トンテリーアよ」
「んふっ!」
トンテリーアは、ポルトガル語でおバカさんを意味する。俺にぴったりの言葉だ。
「喜ばないで。べつに面白くないわ。本当のことよ」
エンジンを掛けるとFMラジオが台風情報を伝えた。大型の台風八号は紀伊半島に上陸し、北東に進行中。瞬間最大風速は秒速四十五メートル、中心気圧は九六五ヘクトパスカルとのことだった。
「授業で教わったことだけど、昔はヘクトパスカルじゃなくて、ミリバールという単位だったのよ。ミリバールの方が呼びやすいのに、どうして変えちゃったのかしらね」
「何か理由があったんだろう、国際規格に合わせるとかさ。全てのことには理由があるからね」
「そんなことないわ。理由がないものだって、この世には山ほどあるのよ」
窓の外を見やり、愛娘は小さな溜息に混ぜて、そろそろかしら、と呟いた。
何のことかと訊いても返事はなく、愛娘は黙って窓ガラスにぶつかってくる雨粒を睨みつけていた。愛娘の視線の先を追うと、プールで密着していたカップルが傘を落として雨に打たれていた。二人は向かい合って口喧嘩をしていた。車内まで彼らの声は届かない。女はビニール傘を拾うと膝で折り曲げ、男を殴り、ひん曲がった傘を投げつけた。号泣する彼氏にケンカキックを見舞うと、白いデニムパンツにスニーカーの足跡が写った。
「さっきまではベッタリだったのに、すごい喧嘩だ。彼氏は、よっぽど何かやらかしたね」
愛娘が鼻で笑った。生意気に笑う仕草もやはり可愛い。
「パパは存外お子ちゃまね。あれはプレイよ」
「プレイ?プレイとは?」
「少し品のない言い回しだったかしら。言い直すわ。あれは愛情表現よ」
言い直されたところで、理解に苦しむ。あれは暴力だ。
「どんな自分も受け入れてほしいという思いと、どんな相手も受け入れようという意志。実際、あの子が怒ってる理由なんて、他の人からしたら些細なことでしょうね。まあ、心底どうでもいいので、ちょっと静かにしましょう」
愛娘はまた口をつぐんだ。走り出した軽自動車のワイパーが忙しく、じゃばじゃばと雨水を撥ねた。ラジオのアンカーパーソンが台風の被害を紹介し終えると次のニュースに移った。
……今朝未明、ジャカルタで発生したインドネシア航空GA872便の航空機乗っ取り事件、いわゆるハイジャック事件の犯人グループがインターネット上で犯行声明を出しました。声明によりますと、今回の事件はISのメンバーによる犯行であり、現在アメリカ当局に収監中とされるスリジャヤナ・ホメニロ氏の釈放を含めた三つの要求をしているとのことです。ホメニロ氏はアフガニスタンの連続爆破テロの首謀者として国際指名手配されており、昨年八月に逮捕されました。現在は、公にはアフガニスタンの刑務所に収監されていることになっています。アメリカ側は、ホメニロ氏の米国本土での収監は事実無根と真っ向から否定した上で、もし仮に本当のことだったとしても、テロリストのどのような要求にも一切応じない強い姿勢を示しました。航空機は現在南シナ海上空を旋回中という情報が入っています。専門家によりますと離陸から十五時間後には燃料が切れる見込みということで、日本時間の本日午後六時が実質の回答期限となります。米国を始めとする同盟諸国間で首脳級の電話会談を行い、事件の収束に向けて協力するとしています。インドネシアの日本大使館では、日本人乗客の安否確認を急いでいます……
「そうそう。今朝、ハイジャックがあったんだよ。怖いね」
「どうしよう……」
愛娘の声は震えていた。
「大丈夫だよ」
「大丈夫?どうしてそんなことが言えるの?」
「さすがに東京までは来ないでしょう」
「まるで他人事ね」
きっ、と俺を睨む。先ほどまでの軽妙な皮肉屋とは異なる愛娘の視線に狼狽える。他人のためにこんな表情が出来るようになったのかと感心した。
「もちろん心配すべきことだとは思ってるよ。乗ってる人達には何の罪もないわけだし、怖い思いをしているだろうから気の毒に思う。全員が無事に帰れることを願うよ。だけど、ハイジャックをするテロリストなんて頭のネジというネジが外れているような奴らだろうから、どこかの高層ビルに突っ込むまで止まらないかも知れない。そのことも考慮に入れると、公海上での戦闘機による撃墜も辞さない強気の構えで」
「ママが乗っているのよ!」
強気の構えで、えー、断固たる、えー……えっ!?
#創作大賞2024 #ミステリー小説部門
【カポエラスイッチ 目次】
第01話「プロローグ」:https://note.com/juuei/n/n7880bd39740a
第02話「愛娘とプール」:https://note.com/juuei/n/nfbaaedc8834f
第03話「教室、廃業」:https://note.com/juuei/n/nd97c69d0937e
第04話「ハイジャック」:https://note.com/juuei/n/n190dfdfc128a
第05話「妻は、どこに?」:https://note.com/juuei/n/ndd18ccb14c7f
第06話「トグロマグマ」:https://note.com/juuei/n/n14a7884db4fa
第07話「三庵寺」:https://note.com/juuei/n/nd9c2ea1951f0
第08話「超能力」:https://note.com/juuei/n/n5b2a9cc920fc
第09話「見えない、JK」:https://note.com/juuei/n/nf41bd6adbe0e
第10話「能力、開花」:https://note.com/juuei/n/n9f0acf63b57f
第11話「電波砲」:https://note.com/juuei/n/nd410e71f1a4e
第12話「犯行声明」:https://note.com/juuei/n/na30bf186cac5
第13話「Netflixの見過ぎ」:https://note.com/juuei/n/n8db9f11e2e7a
第14話「本当に、撃つのか」:https://note.com/juuei/n/n2024e7fc7c82
第15話「カナエ」:https://note.com/juuei/n/nd70dc3f025d8
第16話「スイッチ」:https://note.com/juuei/n/nb16dea34d890
第17話「エピローグ」(最終話):https://note.com/juuei/n/n7271740ff234
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