カポエラスイッチ第16話

2024年5月3日 17:35

「スイッチ」

　南シナ海のハイジャック事件から8年が経った。その後、事件は犯人が全員逮捕されて幕を閉じた。ハイジャックされた旅客機の燃料が切れるまで、政府はテロリストに対する強固な姿勢を崩さなかった。飛行機は海上に胴体着陸をしたが、奇跡的に死者はゼロだった。光る猫が安全な道を示して助けてくれたと、何十人も証言したことが話題となった。
　それ以上に世の中を騒がせたのは、大手日系企業の社員がテロに加担したというセンセーショナルなニュースだ。日本人女性テロリスト逮捕が報じられると、一夜にして手嶋カナエは時の人となった。
　刑務所服役中に書いた手記は、賛否の強風を真正面から受け、天高く飛ぶように売れた。手記には、カポエラをオリンピック公式競技に、という例のトンデモ要求についても書かれていた。もっともらしく綴られた妻の過去と動機と思想は、俺の記憶の中の妻とは一致しなかった。
　それでも俺はカナエを待ち続けた。
　カナエの面会帰りに、久しぶりにトグロマグマに寄った。頭がぐらぐらするほど蒸し暑い日だった。カウンターに座ると、ビールと溶岩皿が置かれた。
「はい、こちらお通し。カピバラの豚足」
「カピバラは齧歯類だから豚足じゃ……、まあ、いいか。店長も好きなの一杯飲んでよ」
「さすが、カポ社長。景気がいいね」
「カポエラがオリンピック競技になって、生徒が爆増したから」
　カナエの手記に影響を受けた世界中のフォロワーが世論を後押しして、カポエラをオリンピック正式競技にまで押し上げた。俺はホセとアドルフォをブラジルから日本に呼び戻して、カポエイラ教室を再開した。
「奥さんは元気だった？」と店長が聞いた。
「元気だったよ。あと12年で出られる。そしたら旅行に行こうと思うよ」
「あれからもう8年か。あの時、俺には見えてなかったけど、ここにカポさんの娘が来てたんだよね」
「それ、覚えてるの店長だけだから。水耕も本郷も完全に忘れてる」
「庵寺さんのことも、電波ちゃんのこともはっきりと覚えてるよ。治癒能力の影響かな」
　庵寺と電波は、娘のカナエが言っていた通り、消えていなくなった。
　水耕は相変わらず水耕農家をやりながら、占い師みたいなことを続けている。本郷は能力を失い、自分がそんな力を持っていたことすら覚えていない。電波が消えたショックが大きかったのだろう。今では二人とも年に一回トグロマグマに顔を出すくらいだ。毎日のように一緒に飲んでいた日々が懐かしい。
「あの頃は楽しかったよね、カポさん。今、店に来るのは治療目的の客ばかりで、俺のことを神様みたいに崇めるんだよ。常連さんからマスターとも呼んでもらえなかった俺がだよ。そうかと思えば、SNSでは詐欺とかインチキとか叩かれるし。ほんと、ろくなことがないよ」
「店長も大変だな」
　俺はカピバラのグロテスクな足を箸で摘んだが、マジマジと眺め、やっぱり食べるのをやめた。
「だけどさ、聞いてよ、カポさん。俺、最近急に分かっちゃったんだよね。あの事件のこととか、カポさんの奥さんのこととか、なんで今の世界がこんななのかとか」
「どういうこと？」
「俺だったんだよ。あのハイジャックの首謀者は。スリジャヤーナ・ホメニロは」
「は？」
「手嶋カナエが二人いた世界は今もまだ引き続き混線してるんだよ。手嶋カナエや俺だけじゃない。姿も年齢も違う自分のドッペルゲンガーがあちこちにいるんだ。そして、片方が死ぬと残った方の存在が確定する。先週、突然そのことに気が付いた。恐らく、ホメニロが死んだんだろうね」
「そんなことって」
「あるんだよ。だけどさ、俺が欲しかったのは戦争でも勝利でもなくて、あの頃の日常なんだ。だから、カポさんに一つ頼みがある」
「なんだよ、あらたまって」
「それを治させてくれ」
　店長が手を伸ばして俺の目の下に親指を当てた。手術で除去された黒子の細胞が再生された。
　（スイッチ、オン）
　その指で、スイッチが押し込まれた。
　肌が感触を思い出した。
　多分、これは、初めて起こったことじゃない。

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カポエラスイッチ 第16話

「スイッチ」

カポエラスイッチ第16話