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カポエラスイッチ 第05話

「妻は、どこに?」

 パリパリッと脳シナプスが短絡して、極小の電流が視床でスパークした。視界が一瞬真っ白になり、反射的にブレーキを踏む。がくんと揺れて、車は止まった。後ろのフォルクスワーゲンがクラクションを雑に鳴らして抜き去っていった。愛娘の声が遠くに聞こえる。
「ママの出張先がインドネシアだってことを忘れたの!?朝の便で成田空港に戻ってくるって言ってたのよ!」
 そうだ。そうだよ、そうだった!一昨日から妻は、ジャカルタに出張していたじゃないか!勤めている会社のプロジェクトで、今日の夕方に戻ってくる予定だったじゃないか!台風の影響で遅れるかもしれないけれど、一人で帰ってくるのは可哀想だから空港まで迎えに行こうと、愛娘と話していたじゃないか!すっかり忘れていたなんてトンテリーアもいいところだ。俺は、頭を掻き毟って、手を擦り合わせ、顔を撫で回した。煩い雨音に頭の芯をぐるぐる混ぜ回されるような眩暈を感じた。
 スースー、ハクハク、スーーハクハク。こういう時は、深呼吸だ。
「落ち着け。落ち着いて、落ち着こう。愛娘は、落ち着いてるか?」
「パパを見て、私は落ち着いたわ」
「どうすればいいんだ?」
「分からないわ。会社に連絡かしら。それとも警察かしら」
「ママに電話をしてみよう」
 スマホからカナエの携帯番号を鳴らしてみたが、お掛けになった電話は電波の届かないところにいたり電源が入っていなかったりという自動音声に繋がるばかりだった。LINEでも呼び出してみたが応答はなかった。
「ママの名刺を持っていただろう?まずは会社に確認しよう。愛娘、掛けて。俺が話すから」
 愛娘は財布にしまっておいた妻の名刺から直通番号に掛けると、スマホをスピーカーモードにした。
 呼び出し音が鳴り続けたが応答はなかった。番号を確かめてもう一度掛けたが同じだった。時計は十二時を指していた。
「昼休み中かもな。ネットで探して、代表番号に掛けてみて」
 愛娘はすぐに見つけて番号を押した。
 ワンコールでつながると、化粧下地をしっかりと付けていそうな女性の声がした。
「お電話ありがとうございます。帝和製鉄株式会社でございます」
「もしもし、私はそちらでファイナンス部に勤めている手嶋カナエの夫の、手嶋マキオと言います」
「いつも大変お世話になっております。手嶋様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「妻がジャカルタに出張に行っていて、今日日本に戻ってくるはずだったのですが、どうやらハイジャックされた便に乗っているようなのです。会社の方に情報は入っていないでしょうか」
「確認致しますので、少々お待ちください」
 保留音。エリーゼのためにが流れ始めた。愛娘が鼻唄で追いかけ、「ちなみにパパはこのことをご存知かしら?」と、ベートーヴェンが悪筆だったというエピソードを教えてくれた。
 七周ループしたところで曲が止み、先ほどの女性の声が戻って来た。
「手嶋様、お待たせ致しました。ファイナンス部に確認しましたが、手嶋という社員は弊社にはおりませんでした」
「そんなはずないですよ。帝和製鉄のファイナンス部ですよ?そうか、旧姓で働いているかもしれない。高柳カナエ。いますよね?確認してください。妻が無事か、心配なのです」
「申し訳ございませんが、弊社にはインドネシアへ出張中の者はいないと確認が取れております。お役に立てず心苦しいです。奥様のご無事をお祈りしています。失礼致します」
 終話。
「……なんだ?どういうことだ?」
「どういうことかしら」
「カナエは、帝和製鉄で働いてるんだよな?」
「働いているはずよ」
「ジャカルタに行っているんだよな?」
「行っているはずよ」
「知らぬ間に転職してないよな?」
「今は一旦、仕事のことは置いておきましょ。ママの無事を確認するのが最優先よ」
「たしかに。カナエの無事が最優先だ。こんな大事件だ、きっと政府が緊急対応本部を設けてるだろう」
「あったわ」
 ネットで見つけたハイジャック事件緊急対応本部のホットライン番号に掛け、俺は妻の名前を伝えた。一昨日からジャカルタに出張しており、GA872便で帰国する予定だったことを説明した。歳は三十四才で、身長は一六五センチで、体重は知らないけれど細身で、髪は肩より少し上の長さで、大体いつもスカートを穿いていて、二重で、笑った顔が困ったウサギみたいに可愛くて、赤ワインが好きで、マニュキュアは二週間に一度サロンで塗り直していることを教えた。
「そのような方は、搭乗客リストにはいませんね」
 冷たい声が突き放す。俺はハンドルを拳で叩いた。
「じゃあ、カナエは、どこにいるっていうんですか!?」
「件の飛行機に乗っていないのですから、きっとご無事でしょう。では、本官には重要な捜査がありますので、これで失礼するであります」
 愛娘が俺の肩を優しく撫でた。目が回る。世界が回る。
 どうやって自宅まで戻って来たか覚えていない。ハンドルを何度も切り返し、マンションの車庫に危なかしく停車するとエンジンを切った。
「もしかすると、カナエは別の国に出張していたんじゃないかな。だから会社の人も知らないし、警察のリストにも載っていなかったんじゃないかな」
「でもママは私に搭乗券の写真を送ってきたわ」
 愛娘がスマホを見せた。インドネシア航空の搭乗券、便名はGA872。報道と一致していた。
「カナエはこの便には乗っていなかったんだよ。きっとキャンセルしたんだよ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ」
「そうじゃないなら何だ?」
「もっと大変なこと。何か大変なことが起こっているのかも」
「もうどうすればいいか、俺には分からんよ」
「知り合いにFBI捜査官がいればいいのに。それも超能力チームの」
 愛娘の目は真剣だった。
「そうだわ、パパのお友達に占いの得意な人がいたでしょう?その人にママがどこにいるのか訊いてみましょうよ」
 突然、愛娘が妙なことを言い出した。占いなんてオカルティックな趣味に染まる子に育てた覚えはない。愛娘はシニカルでアイロニカルでリアリストな女子高生だ。大体、俺にそんな知り合いがいるわけもなく、この世にそんなご都合主義があるはずがない。
 いや、待てよ。そうとも言い切れない。
 たしかに、愛娘の言った通り、俺の飲み仲間に妙な特技を持つ男がいた。どういう仕掛けかは分からないが、探し物がどの方角にあるかを言い当てることができるのだ。近い場所の探し物ならば行ったり来たりするうちに正確な位置を特定できるダウジングという特技だ。敢えて特技と呼ばせてもらう。何故なら、超能力なんて俺は信じていないから。彼の特技を噂に聞いて依頼してくる人もいるが、俺は信じていない。以前、結婚指輪を店内に隠して探させたところ、的中率は一〇〇パーセントだったけれど、トリックがあるに違いないから一〇〇パーセント信じていない。
「そのお友達に、ママがいる方角を占ってもらえばいいのよ」
 妻の安否を知る手立てが他になく、報道を待つしかないのならば、愛娘の言う通り、占いだろうと特技だろうと探してもらった方が気持ちの足しにはなる。南シナ海上空を飛んでいるハイジャック機は、日本から南西だ。別の方角が示されたなら、少なくとも妻はそこにいないことになる。
 早速、藁にもすがる思いで、その男にメッセージを送信した。
(今なにしてる? 急ぎで探してもらいたい人がいるんだけど)
 返事を待っていると、すぐにスマホが鳴った。
 べべべべべべべべ、ベベべンッと、ビリンバウの音がビョビョン流れ、パンデイロがビートを刻む。入国警備官が教室に突入してきた時に流れていたのと同じ曲を着信音にしている。この曲がどうしても好きなのだ。しばし聞き入っていたが、愛娘に肘を突かれて通話ボタンを押した。
「もしもし、秘密結社カポエラの黒幕ですか?入国管理局の者でーす(爆笑)ジョークだって。あのさ、何を探して欲しいか知らないけど、依頼料はビール三杯。トグロマグマに今すぐ来な!」
 すでに酔っているらしく、男の声も背後も騒がしい。
 彼が探し物の能力を使うには、依頼者の体に直接触れる必要があるため、会いに行かなければならない。
「みんなを集めて嵐の飲み会だ!店長がヤバいの焼いてるから、急げよ!」
 トグロマグマは飲み仲間が集まる地元の串焼き屋だ。常連客の中でも付き合いの深い数人を呼んで、台風ですることがないので昼間から飲もうと言うのだろう。能天気な奴らだ。ってか、悪天気だから家に篭れよ。今は飲み会に参加する気分ではないが、妻を探してもらうために、ほんの少しだけ付き合うのは吝かではない。
「分かった。今から行くから、頼む」
 マンションに荷物を置いて家を出ると、レインブーツを履いた愛娘が後からついてきた。
「一緒に行くわ。私もイケメン占い師に会ってみたい」
「イケメン?どこからそんな誤情報が」
「探索能力者はクールなイケメンが相場でしょ?」
「違う違う。どんな人物を思い描いているのか知らないけど、会ったらがっかりするよ」
「パパのお友達なら、きっとデンゼル・ワシントンみたいなおじ様ね」
「ただのお喋り中年おじさんだよ」
「安心して、そっちのパターンも想定済みなの。じゃあ一緒に行きましょ」
 妻のことで不安になっている愛娘を家に残すのも可哀想だと思い、連れて行ってやることにした。横殴りの雨の中、強風に煽られて左へ右へと傾きながら、傘を並べて駅前の繁華街へ向かった。


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

【カポエラスイッチ 目次】
第01話「プロローグ」:https://note.com/juuei/n/n7880bd39740a
第02話「愛娘とプール」:https://note.com/juuei/n/nfbaaedc8834f
第03話「教室、廃業」:https://note.com/juuei/n/nd97c69d0937e
第04話「ハイジャック」:https://note.com/juuei/n/n190dfdfc128a
第05話「妻は、どこに?」:https://note.com/juuei/n/ndd18ccb14c7f
第06話「トグロマグマ」:https://note.com/juuei/n/n14a7884db4fa
第07話「三庵寺」:https://note.com/juuei/n/nd9c2ea1951f0
第08話「超能力」:https://note.com/juuei/n/n5b2a9cc920fc
第09話「見えない、JK」:https://note.com/juuei/n/nf41bd6adbe0e
第10話「能力、開花」:https://note.com/juuei/n/n9f0acf63b57f
第11話「電波砲」:https://note.com/juuei/n/nd410e71f1a4e
第12話「犯行声明」:https://note.com/juuei/n/na30bf186cac5
第13話「Netflixの見過ぎ」:https://note.com/juuei/n/n8db9f11e2e7a
第14話「本当に、撃つのか」:https://note.com/juuei/n/n2024e7fc7c82
第15話「カナエ」:https://note.com/juuei/n/nd70dc3f025d8
第16話「スイッチ」:https://note.com/juuei/n/nb16dea34d890
第17話「エピローグ」(最終話):https://note.com/juuei/n/n7271740ff234



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