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新訂 間違いだらけの現代文①

〈例1 センター本試験 1990年『空間〈機能から様相へ〉』〉
 

 閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声   芭蕉

 芭蕉によって一挙にその意味の重みが明らかにされた「しみる」という動詞は、日本の文化の性格を説明する述語のひとつである。日本人なら、まず知らない者はいないと思われるこの句は、説明の要もなく、境界についてのメタファである。実際のところ、事象が融合する様相は、美しい風景のひとつの条件として、今日なお日本人の価値観のなかに生きつづけているように思われる。

(問)「閑さや 岩に染み入 蝉の声」という芭蕉の句の、筆者の論旨に即した鑑賞として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
①「しみ入」という表現は、蝉の声が強い境界をもつ岩の深部に浸透して行く感じをあたえる。その声がひたむきであればあるほど、蝉の生の切なさを感じさせ、それがまた一生を旅に送った芭蕉の「漂泊の思い」の強さをも象徴している。
②「岩にしみ入」と感じられる声の性質からすると、一匹の蝉の声が青空に鋭く響いているのであろう。とかく騒がしいものとされる蝉の声を、「閑さ」を深めるものとしてとらえたところに、芭蕉の美学の独自性がうかがわれる。
③蝉の声は岩という強い境界をもつ物体にしみ入り、山寺の大いなる「閑さ」の中に吸い取られていく。このような事象の相互浸透性や融合性を一句の中にみごとに定着させた芭蕉の言葉づかいと高い境地を味わうべきである。
④「しみ入」という表現は、芭蕉の理想とした「さび」の境地を示すものである。また、山寺の「閑さ」にひたり自然と一体化している芭蕉の姿には、事象を融合し、境界を不明瞭にすることをよしとする日本人の美学が示されている。
⑤動中の静をとらえ静中の動を感じさせる句である。この静と動の相互浸透をよしとするのが日本文化の伝統であり、その伝統に根ざしつつ、さらに高次の「閑さ」の境地をとらえたところに蕉風俳諧の質の高さが認められる。



 こちらの問題、実は芭蕉の俳句だけを正しく鑑賞すれば事足りる設問です。岩と蝉が一体化して感じられる、という何らの変哲もない情景の句ですが、私たち日本語の使い手に意外なほどの盲点が生じることを、出題者は見事なまでに問い掛けて来ます。

 まず、蝉の状態について、私たちは映像を伴うほどのリアルな想像を為し得ないようです。それを私たちに気付かせてくれるのが ⑤です。「閑さ」を感じさせる蝉です。当然、静止状態で動かないはずです。それを「動中の静」「静中の動」「静と動」と、動く蝉としていたところに ⑤の誤りがあります。

 これ以上に盲点となりやすいのが、蝉の「声」についてのリアリティです。蝉の「声」とありますので、鳴いてはいるのでしょうが、それは「閑さ」を乱さないほどの、小さな声なのです。これを真逆の大きな声に変換して、間違いの選択肢を用意しようと思った出題者。しかし、それを直接的に示しては、その誤りを多くの受験生に簡単に見破られてしまいます。そこで、蝉の声が大声である様を曖昧に、②で「声~鋭く響いて」と、そして、①では「声~ひたむき」と敢えて表現して、間違いの選択肢としていたのです。煎じ詰めれば、②も①も大声で鳴いている蝉を示しているわけですが、特に ①に関しては、「ひたむき」と、蝉の心情に寄り添った表現で、且つ、それを視覚的盲点となりやすい平仮名書きで示したところに、作問サイドの工夫が窺えます。

 最後に④の誤りですが、これは「自然と一体化している芭蕉」の「芭蕉」という言葉に仕掛けられています。句中、「一体化」しているものは「岩」と「蝉」。何れも自然「物」です。この物質相互の融合を、選択肢 ④は自然と「芭蕉」、すなわち、物を人に変換していたのです。

 あるいは、こうも言えるのではないでしょうか。そもそも俳句は短詩型芸術の究極。五七五の十七音しかありません。ゆえに、詠み人は自身の感情の表出を可能な限り抑え、写生的な態度で景物と、季節の機微を描き出すのです。芭蕉、あるいは、正岡子規などは、その代表格。詠み人は景物に「一体化」しないのです。


 このように間違いの選択肢は、基本、何かしらの点において正解基準(正解の選択肢がこれを完全に満たしていることは、まずもってありません)の逆の内容を有しています。些細な相違(ズレ、イイスギ等)ではありません。正解以外の選択肢は、圧倒的に間違っているのです。



 設問の真相を確認して戴いた上で、市販の参考書・問題集が、どのような解説を展開しているかをご覧ください。みなさんがびっくりするほどの間違いが、そこには溢れ返っています。

『センター試験 過去問研究(通称、赤本)』 教学社
①は「芭蕉の『漂泊の思い』の強さ」が、②は「閑さ」が、④は「『さび』の境地」が筆者の理解からはずれているので、不適切である。


 全くもって、素っ気ない解説です。これで何が分かるというのでしょう。それどころか、選択肢の誤りとして指摘すべき箇所を誤っています。言葉を選ばずに言えば、「分かっていない」のです。それなのになぜ、このような書物、学習ツールが、あるいは、それに類する予備校講師たちの授業が、受験生の支持を得ているのでしょうか。

 その答えは簡単です。よほど聡明な受験生(経験上で言えば、全体の一割にも至りません)でない限り、思考が麻痺したまま、分からないことを「眺める」。それでも、「なんとなく」の漠然とした納得の上に、取り敢えず、正解の番号だけは確認しておく、ということが、国語(現代文)の授業にけるスタンダードな受講態度と化しているからなのです。


 次に派手なタイトルで、おそらく多くの受験生の感情を捉えて離さないであろう売れ筋の参考書の解説も見てみましょう。

『センター現代文のスゴ技』 角川書店
①は「その声がひたむきであればあるほど」と「蝉の生の切なさを感じさせ」が、本文に書かれていない余計な情報だからダメ。
②は「蝉の声が青空に鋭く響いている」が、本文の「事象が融合する」と合わないため✕。
④は「『さび』の境地が、本文に書いてないので✕。
⑤の「静中の動」と「動中の静」が誤り。少なくとも岩は「静中の静」のはず。
 

 世間一般で広く、間違いの選択肢の説明として言われている「書いてないから✕」説のオンパレードです。もし、「書いてないから✕」が正論だと言うのなら、正解③はどうでしょう? この俳句が、果たして「山寺」なのか否かは、断定し得ないのではないでしょうか。また、俳句、一首だけで「(レベルが)高い」と評価し得るでしょうか。高い・低いなどといった価値判断は相対的。比較対象がなければ、為し得ないはずです。本文は芭蕉の俳句、一首のみを引用していますので、(レベルが)高いも低いも、言い得ないはずです。つまり、これら「山寺」や「高い境地」などは、本文に書かれていない内容なのです。しかしながら、これは間違いなく正解の選択肢。「書いてないから✕」は、この時点で、矛盾が実証されてしまうのです。

 「枕を濡らす」と言います。しかし、この言葉は、「枕が濡れたという結果以外に、言外(話されていない、書かれていない)で、その原因である涙を、さらには、その先に、悲しいことが起きたことまでも意味しています。国語(現代文)の真髄がここにあります。国語(現代文)の本領は、書かれていることを、新聞記事のスクラップのごとく、断片的に抽出(つまみ食い)することではありません。複雑、煩瑣な人間関係の中で、疲弊した、あるいは枯渇した、私たちの感情。感情の稼働を失った思考では現実は見えて来ません。人間の真に有機的なコミュニケーションには、他者の言葉を平易な言葉に咀嚼(言い換え)すること。加えて、言葉に表象しない内容を補填すること。さらには、言葉に相当する例証(サンプル)を現実世界から摘出する、すなわち、自身の経験から釣り上げることが欠かせません。そして、これこそが、学校で、塾・予備校で看過されて来た本当の読解なのです。

☆読解には
   ⑴内容の取捨選択(要約)
   ⑵表現の言い換え
   ⑶省略内容の補填
   ⑷言葉の具体化(経験・現実の添加 → 映像化)
 が不可欠。

 特に、⑷は論理学の世界で「演繹」と呼ばれ、人間の思考過程に最も欠かせない営みとして重視されますが、今日まで、脈々と続いて来た国語教育の指針の中で、見事なまでに忘れ去られているのです。その結果、国語は、平板な活字を、冷ややかに「眺める」だけの時間と化しているのです。

 また、間違いの選択肢の作成には一定の基準があります。それは、「イイスギ」や「ズレ」などといった曖昧なものではなく、また、書かれた、あるいは、話された言葉以上の現実や想いを、常に言葉の彼方に伴うという言葉の本質を無視した「書いてないから✕」などという荒唐無稽なものでもありません。間違いの選択肢の作成には、厳然とした基準があり、だからこそ、何万人、何十万人の人生を大きく左右する大学入試の整合性が保証されるのです。


 間違いの選択肢は、基本、何らかの点において、正解要件の逆の内容を有します。但し、その作成にはいくつかの手法があり、それを知っておくことは、誤選択肢の解析、判別に、絶大な効果を発揮します。是非とも熟知しておいて戴きたい、大学入試現代文の不文律です。数多の大学入試問題を、ただ、場当たり的に「解く」のではなく、その背景を支える整合性を、それぞれの設問でいかに担保しているか、という観点から追究した結果、明らかになった基準です。

☆間違いの選択肢は本文、あるいは現実(叙述外)の
  ⑴ 逆の内容への変換
  ⑵ 分別内容へのすり替え
     ①対立内容
     ②主体・対象
     ③前後内容
  ⑶ 双括(総括)内容の欠落、または単一内容の双括化
でのみ作成される。


 これら間違いの選択肢の基準や作成手順の解明に至っていない指導者たちが、いかに場当たり的な解説を提供しているか、他の参考書の言い分も見てみましょう。こちらは、大手S予備校で名高いトップ講師の方が、お書きになっている参考書です。

『現代文読解力の開発講座』 駿台文庫
①は論旨と違っており、「一生を旅に送った芭蕉の『漂泊の思い』の強さ」などと、本文にない知識が添えてある点で誤り。
②は「とかく騒がしいものとされる蝉の声を、『閑さ』を深めるものとしてとらえた」などと、論旨を踏まえない常識的な判断
に頼っている点で誤り。
④は「また、山寺の『閑さ』にひたり自然と一体化している芭蕉の姿」では、「事象が融合する様相」の説明にならないから、絶対にダメ。
⑤は「その伝統に根ざしつつ、さらに高次の『閑さ』の境地をとらえた」が明らかにダメ。論旨に即していない。ここでは日本
文化の伝統が問題となっている。

 

 先に紹介したカジュアルな語り口の参考書より、さらに酷くなっているのではないでしょうか。ことごとく、「書いてないから✕」の解説に終始しています。中でも ④の「一体化」は正しく、「融合」に相当するのですが、なぜ、「説明にならない」と言うのでしょうか。さらに言えば、⑤の「日本文化の伝統に根ざしつつ」は、正に本文が言うところの「日本文化の伝統」に相当するはずなのですが、なぜ「論旨に即していない」というのでしょうか。

 繰り返しますが、この参考書は、老舗大手予備校のトップ講師の手によって書かれたものです。ということは、普段の授業もこれに準ずるほどの多くの間違いが含まれていると予想するのが筋というものではないでしょうか。「それでも、某大手予備校から、東大・京大をはじめ、難関大合格者が大量に出ているじゃないか」と、人は言うでしょう。ここが、国語(現代文)の、そして、基本、選択肢五択のセンター試験をはじめとした入試問題の悩ましさがあるのです。


 五択ゆえ、相当な確率で、偶然、正解を「当てる」ことが可能になります。何より、そこに使われているのは、私たちに馴染み深い日本語です。しかも、センター試験をはじめとした大学入試問題は、設問、及び、選択肢が良質なため、正解の選択肢の気配が「なんとなく」感じられることが多いのです。断言しますが、東大理科三類トップ合格者であったとしても、センター試験 現代文の設問の全貌を見極めた、具体的に言えば、正解以外の間違いの選択肢の誤りを見切った受験生は皆無と言っても過言ではないでしょう。


                    現代文・小論文講師 松岡拓美

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