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共通テスト2021年 真相

共通テスト 2021年 真相

 …「私」と同じ出版社で働くW君が病で休職していた間、「私」は何度かW君の下を訪ね、同僚から集めた見舞金を届けていました。その後、会社に復帰したW君から、世話になったお礼の意味で、「私」は上質な絹織物をもらいます。「私」はそれを呉服屋で羽織に仕立ててもらっていました。…

 貧乏な私は其その時ときまで礼服というものを一枚も持たなかった。羽二重はぶたえの紋付もんつきの羽織というものを、その時始めて着たのであるが、今でもそれが私の持物もちものの中で最も貴重なものの一つとなって居る。

 妻は、私がその羽織を着る機会のある毎ごとにそう言った。私はW君から貰ったのだということを、妙な羽目からつい言いはぐれて了しまって、今だに妻に打ち明けていないのであった。妻が私が結婚の折に拵こしらえたものと信じて居るのだ。下に着る着物でも袴はかまでも、その羽織とは全く不調和な粗末なものばかりしか私は持って居ないので、

『よくそれでも羽織だけ飛び離れていいものをお拵えになりましたわね。』と妻は言うのであった。

『そりゃ礼服だからな。これ一枚あれば下にどんなものを着て居ても、兎とに角かく礼服として何処どこへでも出られるからな。』私はA擽くすぐられるような思おもいをしながら、そんなことを言って誤魔化ごまかして居た。

                                 (中略)

 その後、社に改革があって、私が雑誌を一人でやることになり、W君は書籍の出版の方に廻まわることになった。そして翌年の春、私は他にいい口があったので、その方へ転ずることになった。

 W君は私の将来を祝し、送別会をする代かわりだといって、自ら奔走して、社の同人達たちから二十円ばかり醵金きょきんをして、私に記念品を贈ることにして呉れた。私は時計を持って居なかったので、自分から望んで懐中時計を買って貰った。

 『贈××君。××社同人。』

 こう銀側の蓋の裏に小さく刻まれてあった。

 この処置について、社の同人の中には、内々不平を抱いたものもあったそうだ。まだ二年足らずしか居ないものに、記念品を贈るなどということは嘗かつて例のないことで、これはW君が、自分の病気の際に奔走して見舞金を贈ったので、その時の私の厚意に酬むくいようとする個人的の感情から企てたことだといってW君を非難する者もあったそうだ。また中には、

『あれはW君が自分が罷やめる時にも、そんな風なことをして貰いたいからだよ。』と卑しい邪推をして皮肉を言ったものもあったそうだ。

 私は後でそんなことを耳にして非常に不快を感じた。そしてW君に対して気の毒でならなかった。そういう⑵非難を受けてまでも(それはW君自身予想しなかったことであろうが)私の為ために奔走して呉れたW君の厚い情誼じょうぎを思いやると、私は涙ぐましいほど感謝の念に打たれるのであった。それと同時に、その一種の恩恵に対して、常に或ある重い圧迫を感ぜざるを得なかった。

 ⑴羽織と⑵時計…。私の身についたものの中で最も高価なものが、二つともW君から贈られたものだ。この意識が、今でも私の心に感謝の念と共に、B何だかやましいような気き恥はずかしいような、訳のわからぬ一緒の息苦しい感情を起おこさせるのである。

 ××社を出てから以後、私は一度もW君と会わなかった。W君は、その後一年あまりして、病気が再発して、遂ついに社を辞し、いくらかの金を融通して来て、電車通りに小さなパン菓子屋を始めたこと、自分は寝たきりで、店は主に従妹が支配して居て、それでやっと生活して居るということなどを、私は或る日途中で××社の人に遇あった時に聞いた。私は××社を辞した後、或る文芸雑誌の編輯へんしゅうに携たずさわって、文壇の方と接触する様になり、交友の範囲もおのずから違って行き、仕事も忙しかったので、一度見舞みまい旁々かたがた訪おとなわねばならぬと思いながら、自然と遠ざかって了しまった。その中うち私も結婚をしたり、子が出来たりして、境遇も前と異ことなって来て、一層足が遠くなった。偶々たまたま思い出しても、久しく無沙汰をして居ただけそれだけ、そしてそれに対して一種の自責を感ずれば感ずるほど、妙に改まった気持きもちになって、つい億劫おっくうになるのであった。

 羽織と時計…併しかし本当を言えば、この二つが、W君と私とを遠ざけたようなものであった。これがなかったら、私はもっと素直な自由な気持になって、時々W君を訪れることが出来たであろうと、今になって思われる。何故なぜというに、私はこの二個の物品を持って居るので、常にW君から恩恵的債務を負うて居るように感ぜられたからである。この債務に対する自意識は、私をして不思議にW君の家の敷居を高く思わせた。而しかも不思議なことに、C私はW君よりも、彼の妻君さいくんの眼を恐れた。私が時計を帯にはさんで行くとする。『あの時計は、良人うちが世話して進あげたのだ』斯こう妻君の眼が言う。私が羽織を着て行く、『あああの羽織は、良人が進げたのだ。』斯う妻君の眼が言う。もし二つとも身につけて行かないならば、『あの人は羽織や時計をどうしただろう。』斯こう妻君の眼が言うように空想されるのであった。どうしてそんな考かんがえが起おこるのかは分わからない。或あるいは私自身の中に、そういう卑しい邪推深い性情がある為であろう。が、いつでもW君を訪れようと思いつく毎に、妙にその厭いやな考えが私を引き止めるのであった。そればかりではない、こうして無沙汰を続ければ続けるほど、私はW君の妻君に対して更に恐れを抱くのであった。『○○さんて方は随分薄情な方ね、あれきり一度も来なさらない。こうして貴郎あなたが病気で寝て居らっしゃるのを知らないんでしょうか、見舞に一度も来て下さらない。』

 斯う彼女が彼女の良人おっとに向むかって私を責めて居そうである。その言葉には、あんなに、羽織や時計などを進げたりして、こちらでは尽つくすだけのことは尽してあるのに、という意味を、彼女は含めて居るのである。

                                 (中略)

 そんなことを思いながら、三年四年と月日が流れるように経って行った。今年の新緑の頃、子供を連れて郊外へ散歩に行った時に、D私は少し遠回りして、W君の家の前を通り、原っぱで子供に食べさせるのだからと妻に命じて、態わざと其その店に餡あんパンを買わせたが、実はその折陰ながら家の様子を窺うかがい、上手くいけば、全く偶然の様に、妻君なり従妹なりに遇おうという微かすかな期待をもって居た為ためであった。

問2 傍線部A「擽られるような思おもい」とあるが、それはどのような気持ちか。その説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

①自分たちの結婚に際して羽織を新調したと思い込んで発言している妻に対する、笑い出したいような気持ち。

②上等な羽織を持っていることを自慢に思いつつ、妻に事実を知られた場合を想像して、不安になっている気持ち。

③妻に羽織をほめられたうれしさと、本当のことを告げていない後ろめたさとが入り混じった、落ち着かない気持ち。

④妻が自分の服装に関心を寄せてくれることをうれしく感じつつも、羽織だけをほめることを物足りなく思う気持ち。

⑤羽織はW君からもらったものだと妻に打ち明けてみたい衝動と、自分を侮っている妻への不満とがせめぎ合う気持ち。

問3 傍線部B「何だかやましいような気恥しいような、訳のわからぬ一種の重苦しい感情」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

①W君が手を尽くして贈ってくれた品物は、いずれも自分には到底釣り合わないほど立派なものに思え、自分を厚遇しようとするW君の熱意を過剰なものに感じてとまどっている。

②W君の身繕ってくれた羽織はもちろん、自ら希望した時計にも実はさしたる必要を感じていなかったのに、W君がその贈り物をするために評判を落としたことを、申し訳なくももったいなくも感じている。

③W君が羽織を贈ってくれたことに味をしめ、続いて時計までも希望し、高価な品々をやすやすと手に入れてしまった欲の深さを恥じており、W君へ向けられた批判をそのまま自分にも向けられたものと受け取っている。

④立派な羽織と時計とによって一人前の体裁を取り繕うことができたものの、それらを自分の力では手に入れられなかったことを情けなく感じており、W君の厚意にも自分へ向けられた哀れみを感じ取っている。

⑤頼んだわけでもないのに自分のために奔走してくれるW君に対する周囲の批判を耳にするたびに、W君に対する申し訳なさを感じたが、同時にその厚意には見返りを期待する底意をも察知している。

問4 傍線部C「私はW君よりも、彼の妻君さいくんの眼を恐れた」とあるが、「私」が「妻君の眼」を気にするのはなぜか。その説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

①「私」に厚意をもって接してくれたW君が退社後に寝たきりで生活苦に陥っていることを考えると、見舞に駆けつけなくてはいけないと思う一方で、「私」の転職後はW君と久しく疎遠になってしまい、その間看病を続けた妻君に自分の冷たさを責められるのではないかと悩んだから。

②W君が退社した後慣れないパン菓子屋を始めるほど家計が苦しくなったことを知り、「私」が彼の恩義に報いる番だと思う一方で、転職後にさほど家計も潤わずW君を経済的に助けられないことを考えると、W君を家庭で支える妻君には申し訳ないことをしていると感じているから。

③退職後に病で苦しんでいるW君のことを思うと、「私」に対するW君の恩義は一生忘れてはいけないと思う一方で、忙しい日常生活にかまけてW君のことをつい忘れてしまうふがいなさを感じたまま見舞に出かけると、妻君に偽善的な態度を指摘されるのではないかと怖さを感じているから。

④自分を友人として信頼し苦しい状況にあって頼りにもしているだろうW君のことを想像すると、見舞に行きたいという気持ちが募る一方で、かつてW君の示した厚意に酬いていない自分のことを内心やましく思わざるを得ず、妻君の前では卑屈にへりくだらねばならないことを疎ましくも感じているから。

⑤W君が「私」を立派な人間と評価してくれたことに感謝の気持ちを持っているため、W君の窮状を救いたいという思いが募る一方で、自分だけが幸せになっているのにW君を訪れなかったことを反省すればするほど、苦労する妻君には顔を合わせられないと悩んでいるから。

問5 傍線部D「私は少し遠回りして、W君の家の前を通り、原っぱで子供に食べさせるのだからと妻に命じて、態わざと其その店に餡あんパンを買わせた」とあるが、この「私」の行動の説明として最も適当なものを、次のうちから一つ選べ。

①W君の家族に対する罪悪感を募らせるあまり、自分たち家族の暮らし向きが好転したさまを見せることがためらわれて、かつてのような質素な生活を演出しようと作為的な振る舞いに及んでいる。

②W君と疎遠になってしまった後悔にさいなまれてはいるものの、それを妻に率直に打ち明け相談することも今更できず、逆にその悩みを悟られまいとして妻にまで虚勢を張るはめになっている。

③家族を犠牲にしてまで自分を厚遇してくれたW君に酬いるためのふさわしい方法がわからず、せめて店で買い物をすることによって、かつての厚意に少しでも応えることができればと考えている。

④W君の家族との間柄がこじれてしまったことが気がかりでならず、どうにかしてその誤解を解こうとして稚拙な振る舞いに及ぶばかりか、身勝手な思いに事情を知らない自分の家族まで付き合わせている。

⑤偶然を装わなければW君に会えないとまで思っていたが、これまで事情を誤魔化してきたために、今更妻に本当のことを打ち明けることもできず、回りくどいやり方で様子を窺う機会を作ろうとしている。


〈問2 詳解〉

 まずは「擽くすぐられる」ような、すなわち、くすぐったい気持ちというものに対する実感が必要です。気持ち良いような、気持ち悪いような微妙な気持ち。日常生活では、自分の身の丈以上の過度な誉め言葉に対する気持ちなどが、それに当たるでしょう。つまり、「擽くすぐられるような思おもい」にはプラス。マイナスの二つの心情が相俟っていると考えます。実際、この場面では、W君にもらった高級な絹織り物で仕立てた羽織を妻に褒められたことを誇らしく思う気持ち(プラス心情)と、自慢の羽織が、元々、W君からもらったものであることを、妻に話していない後ろめたさ(マイナス心情)の二つが窺えます。

 正解の第一要件は、この二つの心情を双括していることが求められます。この点から、まず、二つの心情を双括することなく、単一の心情だけで捉えている①が、正解から外れることになります。

 加えて、心情把握問題の定石である、それぞれの心情が寄せられる対象(相手)も正確に把握しなければなりません。プラス心情である誇らしい気持ちは羽織を褒められた自分に、また、マイナス心情である後ろめたさも、妻に本当のことを打ち明けていない自分に寄せられます。この点を選択肢で重視して行きます。

 各選択肢が捉えた心情、中でも後ろめたさに相当するマイナス心情を寄せる対象を確認しますと、既に間違いの選択肢として正解から除外した①を含め、⑤でも、「不満」というマイナス心情を寄せる対象を「妻」にすり替えています。また、④については、「羽織だけほめる」と行動だけが示されていますが、これも妻の行動であるため、最終的には、この④もマイナス心情を寄せる対象を「妻」にすり替えていると判断できます。

 ここからは、それぞれの行為についての時制判断になります。心情を寄せる対象の行動が、過去・現在・未来の何れの時制における行動であるかの判断です。本文上で、この時制について確認すると、羽織を褒められたことも、W君から貰った羽織であることを妻に打ち明けていないことも、何れも現在、少なくともこの場面における行動であることがわかります。ところが、この点について、②はマイナス心情を「不安」と捉え、妻に「事実を知られ(る)」ことと、未来における出来事に変換しています。但し、選択肢上では、「私」の行動を未来時制に変換したことを容易に見破られないよう、未来における出来事でありながら、「妻に事実を知られた場合を想定して」と、動詞の過去形を交えて表現しています。

 また、⑤に関しては、妻に本当のことを打ち明けていないという、「私」の現時点での行動を、「打ち明けてみたい」と、現時点では為し得ていない行動に変えて、現在→未来 の変換を施しています。これら②⑤と異なり、正解③は、「私」の行動を「羽織をほめられた」ことと「本当のことを告げていない」ことと、何れも現在の行動として捉え得ています。

 このように、心情把握問題では、まず、心情を寄せる対象と、その対象人物の行動の身体・頭・心の相違や時制が争点になる問題が実に多いのです。

☆心情を寄せる

  ⑴対象(相手)

  ⑵対象の行動

    ⓐ身体・頭・心の相違

    ⓑ時制(過去・現在・未来)の相違

 に注目する。

 蛇足になりますが、小説で出題される設問の8割以上が心情把握問題です。そして、そんな心情が本文上、明確な言葉で示されることは、まずもってありません。

 ここで一般予備校講師が自著の中で展開している講釈を見てみましょう。問二について、特に注目に値するのが、②と④です。まず、②について、以下のような解説が為されていました。

②は「上等な羽織を持っていることを自慢に思いつつ」が誤りです。自分で買ったものではないのに褒められているのですから、「自慢」ではありません。

                                       『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 選択肢が捉えた「自慢」は、上等な羽織を所有していることに生じたものであり、結果として、「妻君」に褒められた喜びというプラス心情と重なります。逆に、こちらの講師が指摘する「自分の買ったものではない」ことは、妻に本当のことを話していない後ろめたさというマイナス心情に相当します。こちらの参考書の著者は、「擽くすぐられるような思おもい」という傍線部にプラス・マイナスの二つの心情が含まれていることに分析が至っていないようです。加えて、プラス・マイナスの双方の心情の分別ができていないため、選択肢が捉えた「自慢(=妻に褒められた喜び)」というプラス心情の正誤を、真逆の「自分で買ったものではない(こと)」というマイナス心情の由来から見極めようとしているのです。プラス・マイナスという相対立する二つの心情の分別にさえ至らない、感情の起伏の乏しさが窺えます。

 これに加えて、倒錯が甚だしいのが、④についてです。

④は「羽織だけほめることを物足りなく思う気持ち」が誤りです。「羽織はもらいものである」という原因がふまえられていません。

                                               『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 

 ②に対する解析と同様、プラス・マイナスの二種の心情の分別に至っていません。まず、「羽織だけ」ではあるものの、それが「ほめ」られることに対して、「私」はプラス心情を抱いています。これを本当のことを妻に打ち明けていな後ろめたさの根源にある「羽織はもらいもの」であるというマイナス状況を根拠に正誤を判別すること自体、間違っています。




〈問3 詳解〉

 双括内容の把握が求められた問2の勢いをそのままに、傍線部Bについても双括内容として把握してしまいがちな表現が為されています。「やましいような気恥ずかしいような」という表現を「やましい」と「気恥ずかしい」という二本立ての内容として捉えてしまった向きも多いことでしょう。しかし、この「やましい」も「気恥ずかしい」も、何れも比喩。これらは「重苦しい」想いの「訳のわからな(さ)」を多角的に言い換えたに過ぎません。加えて、傍線部直前に「感謝の念と共に」とあることにも注意を払う必要があります。傍線部前後に、傍線部と区別すべき内容が近在しているセンター試験・共通テストお得意のパターンです。「感謝の念と共に」とあるところから、傍線部は「感謝の念」というプラス心情とは異なるマイナス心情だけを、端的に言えば、単一内容を示していると判断しなければならないのです。しかし、そこは新時代を担う共通テスト。マイナス心情だけの単独内容を、プラス・マイナス二本立ての双括内容に変換した間違いの選択肢は用意されなかったようです。

 次に注目したいのが、心情把握問題の定番である対象です。傍線部で示された「重苦しい感情」は、前段落で示された「或ある重い圧迫」の言い換えです。この「或る重い圧迫」を寄せる対象は、言うまでもなくW君。また、行動は羽織と時計を贈ってくれたことです。まず、対象をW君から自分にすり替えた間違いの選択肢が④と③に窺えます。④はマイナス心情として、「情けなく感じて」としていますが、その対象は「自分」と、直接的に示されています。この④に較べると、同じく対象のすり替えの間違いの選択肢でありながら、③はやや難解です。③は「恥じており」がマイナス心情に相当しますが、その対象については「欲の深さ」と、属性(資質や行動)しか示されていません。一段階余計に手間が掛かる選択肢ですが、ここで「欲の深さ」を有する人物がいるとするならば、言うまでもなく、「私」以外にはありません。結果、直に言葉では示されていないものの、③も心情を寄せる対象がW君から「私」にすり替えられた間違いとして消去されます。

 先に紹介した参考書は、まず、④について、以下のように解説します。

④は「W君の行為にも自分へ向けられた哀れみを感じ取っている」が誤りです。W君は「哀れんで」送ってくれたのではなく、「私」に「感謝」して贈ってくれたのです。

                                                『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 

 

 確かに、W君が「羽織」や「時計」を贈ってくれた動機の核心には、「私」に対する「感謝」があります。しかし、その根底には、高級な衣類や時計を持ち合わせていない私の不憫さに対する「哀れ(み)」があったとも考えられます。そもそも「感謝」も「哀れみ(=同上)も、相手に対する好悪自体はプラスですから、十分、許容範囲となります。リアルな感覚と共に、人間の想い(心情)を受け止める姿勢の欠損による倒錯です。人の想いを受け止めるためには、まず、自身が豊かな感情を持ち合わせていることが欠かせません。

 ここからが難解です。傍線部で示された「重苦しい感情」を寄せる対象人物はW君ですが、そんなW君の行動は「私」に「羽織と時計」を贈って来たことです。よって、ある意味で、この「重苦しい感情」は、W君から贈られた「羽織と時計」と単純化することもできます。この点に双括内容が絡むことを出題者は着目したようです。先に会社を辞めることになった「私」に、餞別として「時計」を贈った際、W君は会社の同僚たちから、あらぬ邪推や非難を受けました。しかし、この周囲からの批判や非難は⑵「時計」にのみ関わることであって、⑴「羽織」には関わらないことなのです。

 ところで、傍線部はどうでしょう。傍線部手前に「羽織と時計…」とあるところから、ここで示された「重苦しい感情」は⑴「羽織」と⑵「時計」の双方に対して抱かれた感情なのです。これをW君の行動に置き換えるなら、【高価な品物を贈って来たこと】とすべきであって、もし、これを【周囲からの批判を受けながら、高価な品物を贈って来たこと】とすると、⑵「時計」だけでなく、⑴「羽織」を贈った際にも周囲からの非難を受けたことになってしまうのです。「周囲からの批判」を受け、W君が「評判を落とした」ことは、⑵「時計」にしか当てはまらないのです。この点に着目して作成された間違いの選択肢が、②、そして、③⑤です。

 この②と⑤に対する間違いの仕込み方は、双括内容の欠落です。正解要件は、傍線部手前で「羽織と時計…」とされている通り、⑴「羽織」と⑵「時計」の双方に当てはまる内容です。これを②のように「評判を落とした」としたり、③や⑤のように「批判」を絡めたりすると、「羽織と時計」の双方ではなく、その一方である⑵「時計」にのみ該当する内容になってしまうのです。実に難解な間違いの設定です。参考までに、正解①の内容を確認すると、周囲からの「批判」や、W君が「評判を落とした」ことには触れず、「手を尽くして贈ってくれた」「厚遇しようとする」と、専らW君の行動と心情だけを捉えています。

②の「W君がその贈り物をするために評判を落とした」と、③の「W君へ向けられた批判」は、本文ではともに「感謝」の原因となっていましたが、この選択肢では「申し訳ない」の原因になっているため、誤りです。

                                                『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 

 件の参考書の倒錯した講釈です。W君に対する「私」の「感謝」というプラス心情は、「羽織と時計」を贈ってくれたことに由来します。逆に、そんなW君に対して、「重苦しい感情」というマイナス心情が生じた理由は、自分の身の丈以上の高価な物品を贈られたことですが、中でも周囲の「批判」を受けながら、贈り物をしてくれたということに関しては、格段申し訳なさを感じているのです。②に窺える、W君が「私」に贈り物をするために「評判を落とした」ことも、③が示す「(W君に対する)批判」も、何れも「私」がW君に対して、マイナス心情を抱く原因として捉えられている点では、決して間違っていないのです。W君が「評判を落とした(②)」ことや、「批判(③)」を受けたことが、どうして、「感謝」の原因になるのでしょう。相手がマイナス状況に陥ったことに対して、「感謝」の念を抱くほど、「私」は身勝手な人物ではないでしょう。

 ②については、「私」が時計に「さしたる必要を感じていなかった」という点を誤りだと考えた人も多いでしょうが、こちらは間違いではありません。小説の舞台である時代背景も併せて考えると、少なくとも出版勤めで生活が安定していた「私」に時計を買う経済的余裕がなかったとは考え辛い。「私」は特段、必要性を感じていなかったために、時計を所有していなかったのでしょう。生活必需とまでは行かないまでも、ささやかな贅沢品として戴いておこうというのが、懐中時計を「望んで」「買って貰った」理由でしょう。

 ところが、件の参考書は、この予想を遥かに上回る、とんでもない解釈を施します。

⑤は「頼んだわけでもないのに」が誤りです。自分で時計を望んだのです。

                                                『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 

 選択肢⑤が「頼んだわけでもない」こととして捉えた内容は、「自分のために奔走してくれ(た)」こと、つまり、会社の同僚たちから「醵金きょきん(金を集める)」してくれたことです。選択肢⑤は、「頼んだわけでもない」ことを、時計を買ってもらったこととして捉えてはいません。この程度の簡易な選択肢の内容にさえ、著者の理解は及んでいないようです。

 選択肢⑤に仕込まれた間違いが、あまりにも難解であったためか、⑤にはもう一つ別の角度から間違いが仕込まれていました。それは「見返りを期待する底意をも察知している」という部分です。言うまでもなく、傍線部は「私」の心情です。これに対して、「私」に時計を贈ったW君に見返りを期待する意図として『あれはW君が自分が罷やめる時にも、そんな風なことをして貰いたいからだよ。』と邪推した、すなわち、「…底意をも察知」したのは会社の同僚たちであって、「私」ではありません。本文で言うところの「邪推」という行動の主体のすり替えです。加えて、「察知」にも問題があります。「察知」、すなわち、知ることは事実に対する確定的な認識ですが、本文上で示されている同僚たちの行為は「邪推」。つまり、不確実な推定に過ぎません。

 

 この点についての、件の参考書の講釈は以下の通りです。

「見返りを期待する底意」も誤りです。「私」はそのような見方に対して不快感を抱いています。

                                                『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 

 間違いの看破に差し掛かってはいますが、今ひとつ釈然としません。間違いの選択肢の作成手法について、体系化し得ていないことが原因です。確認ですが、この⑤の後半に活用された間違いの仕込み方は、主体のすり替えと、行動の確実性の有無についての逆の内容への変換です。「見返りを期待する底意」を疑ったのは会社の同僚たちであって、「私」ではありません。また、彼らの行為は「邪推」、すなわち、予想に止まる不確実なものです。確実な事実認識である「察知」とは異なります。但し、この「邪推(想像)→「察知(現実認識)」の変換については、作成サイドは意識していないと推測されます。

 


〈問4 詳解〉

 「私」が「妻君」の眼を「恐れた」のは、随分と長い間、W君と疎遠になっていることを「妻君」に責められることを予想(=「邪推」)していたからです。W君の「寝たきり」の病状や生活状況を気に掛けながらも、W君を訪ねることがなかったことに対して、「私」は後ろめたさを感じていたのです。

 出題者が最初に設定した間違いは、小説の定番である身体・頭・心の分別スケールを活用した、選択肢③です。「妻君」に責められるであろう「私」の行動は、W君に対して疎遠になっていたこと、妻君の言葉で言えば、「一度も来なさらない」「見舞いに一度も来て下さらない」、あるいは、それ以前の「私」のモノローグ中の言葉で言えば、「無沙汰」になっていた、「足が遠く」なっていたことです。これは明らかに身体を伴う行動です。それを③は「忘れてしまう」と、頭の行動に変換していました。但し、この「忘れてしまう」という部分に示された「私」の行動を、この長尺の選択肢から焦点化して抽出するのは、大変なことです。また、「私」がW君のことを「忘れていた」という把握自体には誤りはありません。本文上で「訪おとわねわねばならぬと思いながら」「偶々たまたま思い出して」とある通り、「私」は環境の変化と多忙さから、しばしば、W君のことを忘れていたのです。

 参考書の説明をご覧ください。

③は「妻君に偽善的な態度を指摘されるのではないか」が誤りです。

                                                『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 誰もが思わず、頭を抱えてしまうほどの倒錯です。長年、疎遠にしていたW君の下を訪れたなら、妻君に今さら何を…的に、その訪問自体を「偽善」と疑われるのも、致し方ないでしょう。③の「妻君に偽善的な態度を指摘されるのではないか」は、何ら間違っていません。説明した通り、③は「私」の行動に関して、身体的行動を、心の動きに変換した誤りです。

 また、「私」は「羽織と時計」を贈られるという恩恵を受けたW君の家を訪ねるべきだったのですが、私がW君の家を訪ねることに、見舞い以外の意味はありません。パン菓子屋を営んで、「やっと生活して居る」という生活状況のW君ですが、その困窮ぶりを「私」に助けてもらいたいなどとは思っておらず、また、「私」の方も、W君を経済的に援助しようなどとは考えていません。ただ、W君の様子を伺いに行くことが、W君が施してくれた恩義に酬いることなのです。

 この点を②④は、間違いの仕込みどころとしています。まず、②は「経済的に助けられない」という部分に誤りがあります。これでは「私」がW君を経済的に助けようとしていることになります。②は「経済的に助けられない」という内容の裏で、「私」にW君を「経済的に助け」ようとする意志があることを示しているのです。

 これとは逆に、W君の方に「経済的に助け」てもらいたいという思いを持たせたのが④です。「私」の予想・判断に止まる内容ですが、「頼りにもしている」とすると、W君が「私」の援助を期待していることになります。事実として、W君は「私」の経済的援助を当てにしていないばかりか、「私」の方でも、W君が自分を頼りにしているなどとは思っていません。これら②④は、経済的な関わりを求めているか否かという観点における心情の有無に着目した間違いの選択肢です。経済的な相互扶助については、「私」もW君も考えていません。

 

 件の参考書は、この②④に関しても、間違いを見抜けていないようです。中でも、④に関する説明の誤りには凄まじいものがあります。

④は「妻君の前では卑屈にへりくだらねばならないことを疎ましくも感じている」が誤りです。

                                                『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 

 本文上の「妻君の眼を恐れた」を、選択肢が「疎ましく感じている」とした点に問題はありません。また、長い間、疎遠にしていたことに後ろめたさを感じている「私」が妻君の前で、「卑屈にへりくだらなければならない」と思うのも、至極、当然のことでしょう。こちらも至って正しい内容です。

 ②④の延長線上に、⑤の間違いがあります。②の誤りを見抜くことに先行して、こちらの間違いに気付いた方も多かったことでしょう。⑤はW君の窮状を「救いたい」が誤りです。②④で確認した通り、「私」が後ろめたさを感じているのは、W君の下を訪れなかったことであり、その行動には見舞い以外の意味はありません。端的に言うなら、「私」は経済的に、W君を助けようとも、救おうとも思っていません。「私」がW君に対して為すべきこととして考えていた行動は、W君の生活状況に対する心配から、ただ立ち寄るだけです。「私」は自身の行動に経済的な効果があるなどとは、あるいは、それ以前に、「私」がW君に対して、経済的な援助ができるなどとは思っていません。経済的な援助が可能か否かという行動の効果の有無の観点で、あるいは、経済的な援助について意識しているか否かという心情の有無の観点において、選択肢④②は、本文の逆の内容になっているのです。

⑤は「苦労する妻君には顔も合わせられない」が誤りです。

                                                『ゼロから覚醒 読解力完成 現代文』かんき出版

 こちらが、⑤についての、件の参考書の講釈です。至って正しい内容なのですが、これの何が問題だというのでしょう。

 本文上の「妻君の眼を恐れた」を、選択肢が「顔も合わせられない」としたことには、何ら問題はありません。まさか、「やっと生活している」だけのW君の妻君を、「苦労する妻君」とした点が誤りだとでも言いたいのでしょうか。世間、大注目の共通テスト初年度の問題ですから、相当、力を入れて解析しているはずなのですが、察するに、選択肢から取り上げた部分が、なぜ、間違いであるのか、明確に見極められなかったのでしょう。そのような錯乱した輩に、果たして、居丈高に参考書で講釈を宣う資格はあるのでしょうか。





〈問5 詳解〉

 選択肢の構成要素を確認しますと、W君の家を直接、訪ねなかった「私」の心情が各選択肢で捉えられていることがわかります。「私」が直接、W君の家を訪問することをためらったのは、先の問4で考えた通り、「妻君の眼を恐れた」からであり、「羽織と時計」という二つの贈答品を贈られるという恩恵を受けながら、会社を辞めて、病気を患い、ギリギリの生活を営むW君を見舞うこともなく、疎遠になってしまっていることに対する後ろめたさを感じていたからです。

 そして、敢えて直接、W君を訪ねることなく、妻に店の様子を窺わせるために「餡あんパンを買わせた」のは、長い間、疎遠になっていたW君に直に対面することが憚はばかられたからなのです。この心情を、選択肢判別のスケールとするなら、「私」の遠慮や気遣いは、W君に向いているということになります。この点を、対象のすり替えの観点で、間違いを設定したのが②です。「妻」に「悩みを悟られまい」とする思いが、選択肢②が捉えた「私」の心情ですが、これでは「私」の心情を寄せる対象が、W君から「妻」にすり替わってしまうことになります。

 件の参考書の②に関する説明は、「②は『逆にその営みを悟られまいとし妻にまで虚勢を張る』が誤りです。」と、実に淡白なものでした。「誤り」とする判断根拠が示されていないことも問題ですが、それ以前に、指摘箇所自体、大いに間違っています。一部の受験生が違和感を感じたであろう予測される「妻に~虚勢を張る」は、本文上で描かれている「私」の「妻に命じて」「買わせた」という、後ろめたさに不釣り合いな毅然とした態度から、十分、読み取れます。②の「その営みを悟られまいとし妻にまで虚勢を張る」は断じて、誤りなどではありません。

 ①は「自分たち家族の暮らし向き」を「演出しようと(する)」という点に誤りがあります。まず、「私」がW君との直接的な対面を避け、妻にW君やW君の家族の様子を窺わせようとしたことを焦点に解析を進めます。「私」の行動は、本文の叙述を抽出するなら、「陰ながら家の様子を窺(う)」ことです。「私」が直にW君に対面することはありません。となれば、当然、「私」の生活状況がW君に見えるはずもなく、貧富の度合いを含めて、生活状況を「演出」することもできないのです。

 併せて、同様の観点で、④の「誤解を解こうとして」の誤りも見抜きたいところです。①の「演出(する)」ことと同様、「誤解を解(く)」ためには、「私」がW君に直接対面して、対話に及ぶ他ありません。結果として、④①共に、行為の有無という実にベーシックな観点で仕込まれた間違いですが、誤りであることを明確に見極めるのは、決して容易なことではありません。

 ④の「誤解を解こう」という部分について、間違いを疑った人も多いでしょうが、この「誤解」は誤りではありません。「私」の推測に止まる内容ではありますが、W君の「妻君」は、「私」に対して「薄情」な人間と思っていました。しかし、真相は違います。「私」は単に多忙なため、W君と疎遠になっていたに過ぎないのです。少なくとも、「私」の思い込みの中では、W君の「妻君」は、「私」に対して「誤解」しています。

 この④に関して、件の参考書が抽出した範囲は、「④は『W君の家族との間柄がこじれてしまったことが気がかりでばらず、どうにかしてその誤解を解こうとして稚拙な振る舞いに及ぶ』が誤りです。」と、選択肢の内容の、実に大半に及びます。また、こちらに関しても、この内容を間違いとする理由は、一切、示されていません。

 件の参考書は、①について、「①は『かつてのような質素な生活を演出しよう』が誤りです。」と、正しい指摘をしていましたが、その根拠については、一切、触れていません。また、摘出した範囲も長過ぎで、最終的に、どこが間違っているのか、釈然としません。間違いの選択肢の内容が、基本、正解要件の逆であり、また、その要素が単語に凝縮し混入されることを知らないのでしょう。

 理由を示さないままに「誤り」と言われて、誰が納得するのでしょうか。しかしながら、このような根拠もなく、ただ選択肢の中の問題箇所を摘出するだけで真っ当な説明とする指導が、現代文という科目の標準であり、また、そこに疑問を感じ得ない多くの受験生によって、この科目の浄化は長きに渡り、為されて来なかったのです。また、摘出した範囲も長過ぎで、最終的に、どこが間違っているのか、釈然としません。

 ②①以外の間違いの選択肢に活用された誤要素の仕込み方は、従来の小説の出題とは一線を画したアナログなものになっていました。これが新傾向と言うのであれば、正直、あまり感心できるものではありません。③にはパンを買うという行為の意味において誤りが仕込まれています。W君の店で妻に「餡あんパンを買わせた」のは、「私」の代わりに、W君の様子を窺わせるためであって、パンを買うこと自体に経済的な意味はありません。にも関わらず、③は「買い物をすること」がW君の「厚意」に「応える」ことになると、すなわち、少なからずW君を経済的に助けることになるとしています。問4で考えた通り、「私」がW君の家を訪ねることの意味は、見舞い以外にはありません。経済的な援助をしようなどとは、「私」は考えていないのです。W君の店でパンを買うことに、経済的な意味はありません。問四の②⑤にも活用された行為の意味・効果の有無の観点です。確かにこれらは、新傾向と言える間違いの仕込み方でしょう。

 この③についても、例の参考書は、他の選択肢と同様、「③は『せめて店で買い物をすることによって、かつての行為に少しでも応えることができれば』が誤りです。」と、これまた、選択肢から冗長な範囲を散り出して、ただ「誤り」と指摘するだけで、その理由に一切、触れていません。当の本人にも、これがなぜ間違いであるのか、「なんとなく」にしか感じ得なかったのでしょう。このような浅薄な思考を繰り広げる書物を、果たして、参考書と評するべきなのでしょうか。

                                                              現代文・小論文講師  松岡拓美


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