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2.京都盆地の複合扇状地を理解すると地下水が豊富な理由がわかります。

京都盆地は太古は湖の底だったの?

 『京都盆地は、太古は湖の底だった。やがて湖底が隆起し現在の京都盆地ができた。かつてあった巨椋池《おぐらいけ》は太古の京都の姿を伝えるもので、神泉苑《しんせんえん》もそのひとつである。』というようなことが古い京都の本には書かれていたりします。しかし地学の論文や専門書などで京都盆地の地層をみるとそのようなことがなかったことは明らかなのですが、その詳しい話はまた今度にして今回は地下水に関係のある扇状地についてのお話です。※上の写真は神泉苑。御池通の由来はここからきています。

京都盆地の地形図に等高線と世界遺産の位置をプロットしています。(カシミール3Dで作成)

 京都盆地北部を等高線で見ると北東から南西にむかって緩やかに傾斜していることがわかります。ちなみに京都駅の標高は25m、上賀茂神社が標高85mになるので、標高差は60m。20階建てのビルの高さが60mと言われますので京都盆地は南北でかなりの標高差があることがわかります。

治水地形分類図と地形図を重ねています。

 次に治水地形分類図を見てみましょう。治水地形分類図とは河川流域の扇状地や自然堤防、旧河道などを示したもので土地の成り立ちを読み解くことができます。黄色い部分が扇状地、オレンジ色が段丘面、青いシマシマが旧河道です。東部では鴨川周辺に扇状地が広く形成され、西部では桂川の氾濫原が広がって扇状地の扇端部を削り取っていることがわかります。桂川が扇状地を形成しなかったのは、上流の亀岡盆地で土砂を吐き出して土砂をほとんど含まない水が、狭い保津峡を通って一気に平坦地に放たれたからです。旧河道がたくさんつくられたのは、桂川が暴れ川であった痕跡です。

扇状地の詳細地形図「平安遷都と鴨川つけかえ(横山卓雄)」に加筆

 京都盆地の扇状地の詳細地形図を見てみましょう。わかりやすいようにそれぞれの河川がつくった扇状地に色をつけてみました。京都盆地の北部は、複数の河川がつくった扇状地が重なる複合扇状地になっています。これを見ると鴨川流域には賀茂川(鴨川)扇状地が大きく発達したことがわかります。天神川も大きな扇状地をつくりました。2つの河川が作り出した扇状地の上につくられたのが平安京です。
 扇状地について簡単におさらいしておくと、扇状地とは狭い山間地を流れる急流河川が広い平坦地に出た時、流れが弱まることにより運ばれてきた土砂が扇状に堆積した土地のことです。扇状地の頂点を《せんちょう》、中央部を扇央《せんおう》、末端を扇端《せんたん》といいます。扇頂から流れ出た水は、扇央部では伏流水となり、扇端部で湧き出します。ですので扇端部では集落ができることが多いのです。
 上の図でみると、今も堀や池に水が蓄えられている二条城や神泉苑は、扇状地の扇端に位置していることがわかります。平安京がつくられた時代は湧水が湧き出して天然の池を作っていたのでしょう。また土地を掘削すると水が湧き出すので堀の水を蓄えるのにも都合が良かったと考えられます。

明治期の地図と御土居を重ねた詳細地形図

 さらに明治期の地図と御土居の範囲を重ねてみました。京都盆地は土地が広いにもかかわらず明治期まで居住地が御土居周辺から広がっていなかったことがわかります。御土居があったエリアは2つの扇状地が重なる場所で、人が暮らすのに都合の良い場所だったのでしょう。特に井戸水が手に入りやすかったことが考えられます。現在の御所があるあたりの地下には砂礫層が広く分布していますが、1mも掘れば良質な地下水が湧き出したと言われています。御所ができるまでは貴族や高級官僚の屋敷があり、豊富な地下水を利用して庭園や池が作られていました。都が明治維新まで1000年以上も京都盆地に置かれた理由もこの扇状地が理由のひとつかもしれません。

余談ですが「鴨川つけかえ説」のお話も

鴨川つえかえ説の旧流路

 「鴨川つけかえ説」とは、平安京の造営時に、鴨川を4キロ以上掘削して川筋を変更したというもの。上の図でいうと黄色い流路がそれ以前のもので、AとBの河川が人工的につくられたという学説です。「鴨川つけかえ説」が広く受け入れられた背景には科学的根拠に基づいており説得力があったといわれています。たとえば、京都盆地の地形は全体が北東から南西に傾斜しているのに、今の鴨川の流れは不自然であるという指摘。もちろんそれだけではなくいくつかの根拠が挙げられていました。
 この説が見直されるきっかけは、同志社大学の横山卓雄教授が出版した「平安遷都と鴨川つけかえ」という本です。そもそも「鴨川つけかえ説」は昭和6年に提唱されたもので、新たなこともわかってきたことから横山教授は著書でひとつひとつ「鴨川つけかえ説」を潰していかれました。中でもインパクトがあったのは、船岡山からつづく硬い岩盤が地下5メートルという浅い場所で見つかったこと。地下鉄工事の時に偶然見つかったもので、調べていくと船岡山から岩盤が尾根のように続いていることがわかりました。「鴨川つけかえ説」にとって極めて不利なもので、この本がきっかけで今の鴨川の流路は平安京の前からあったというのが現在では定説になっています。ただし、縄文時代以前には賀茂川が平安京域を流れていた時期もあったようです。実はこの論争にはまだ続きがあるようで横山説にも反論が出ています。大事なのは地形を楽しむ私たちも知識をアップデートしていくことかもしれませんね。

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