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飾り絵になる


1 

 Am10時10分。
 それはきれいな時刻で、時計屋さんは大体、その時刻で時計を売るという。だけどその並びの時刻というのは朝でも晩でもどうしてだろう。大体せわしなくて、ゆったりと落ち着いているということがない。
 その並びの日にちというのも、不思議と、そうだ。
 朝まだきにわたわたとしながら、シャワーで洗ったわたしの長い髪はつややかだった。ボンヤリとした視界の中に、ふいに虹彩がまたたいていた。妻さんが買った、サンキャッチャーというのか、ぶらさがったガラスの球が、陽光を部屋の中にばらまいていて、虹の断片がそこかしこに散らばる。それを踏むと、足の甲に虹が散らばる。
 光を、どこかでいつか目にしている。カウンターキッチンのカウンターに置いていた、金魚鉢に映った光彩。ホログラムみたいに、高いところの窓の光を、鉢の側面に映している。その光がはいる窓は勝手口の上にあって、妙なブラインドのようなパーツがついている。鎖をひくとどうかなるみたいだけど、ひいたことはない。
 鉢に映るホログラムは、うすく四角に浮世絵のように発光して。わたしの顔みたいにも見えた。その光そのものが顔のような気がした。虹の色のような鏡のようなもの、それがわたしの顔だったらどんなにか面白いだろうか。
 この鉢は、妻さんが小魚を飼いはじめた頃、いつかふいに通販で買って届いたもの。それまで使っていた四角い鉢より、何か存在感がかわいらしく好ましかった。

 今日は雨の音すらきれいに、聞こえてくるようなところで一瞬に、わたしは鉢の虹をただ見つめている。虹の中、わたしの手足も映りこむ。第二関節。第一関節。爪。爪の手前の、こないだ食事の準備のナイフでできた傷のあと。
 その虹彩の反響は多重にフィードバックしている。思えばこの家で新しい命が生まれたことも、その反響の中にある。虹彩の中に妻さんとわたしの行き交いがあって、光が行ったり来たりする。その行き交いの中に子が生まれることになる。子としても、勝手にそんな中におかれることになってしまったが、わたしもそうだったらしい。
 子はお腹の中ですうすう呼吸をして、すこし膨らんだり、しぼんだりをしているだろう。水にくるまれて、それはどういう感覚なのだろう。覚えているはずなのに、誰にも思い出せない。死、とかと一緒なんだろうか。
 そうして光や声が交錯するなかに、生まれ落ちて、ウアとすこし泣き叫んでみる。そうしていずれ大人になって、叫んでみる代わりにくどくどと色々と、言葉を考えてみるのだろうか。考えた言葉がどのように文字になるのか。あるいは文字の言葉がどのように声になるのか。そもそも言葉なんていうもののないところから始まっていることを、覚えていてほしい。
 というのもまだわたしの頭の中の反響の中の声なわけで、実際はそうならないと分からない。あまり勝手に何かを言うものではない。勝手にそんな、自分の考えのうちにしないで、という声もある。そうした声と声が反響してキリがない。イメージをわたしが勝手に使っているとしても。イメージというのは、誰かのモノになるのか? 

2 

 Am、Pm。
 かつて、そんな名前のお店が随分あった。わたしたちは随分過ごした。知り合いの店員と世間話をしてみたり、常連客たちが話していることとか、なにかを横目にみては楽しんだ。顔見知りなどはいるけれど、大体全然覚えておらず、ただ決まった応えを返すばかりで、とくに何も覚えていない。
 ところで、マンガから教わったことはずいぶん多い。幼いころに何度もくりかえしページをめくった単行本。枠線がひかれて、そのなかに小さな世界が、どんどん日常のように、進んでいく。小さなコミックブックは子供の手にも収まりやすかっただろう。その中で繰り返される日常のやりとりに、先に世間を知ったこともある。
 わたしが生っぽいものを全然覚えていないのは頭をマンガ化しているからかもしれないとぼんやり考えていたら、今田さんはそういう人だった。あとでまた説明するけど、きみは夜中に、奇声をあげて走る人。
「どっこい、ところで」
 そんな前置きはめったにきかないが、きみはそういう話し方をする。
「わたしは人の顔を思い返すとき、だいたいマンガのような表現で思い出される。つまりモノクロの線描で、人の雰囲気はだいぶデフォルメされて回想される。だいたい週刊誌連載でだいぶ売れた人くらいの、ややリリカルな描写、細かいところは省かれるし、何なら印象が近かったらほぼ同じ人としてイメージされている」
「そうなの?」 
 そこは酒を飲む店で、今田さんには年に2回くらい遭遇している。すると、彼には世界が線描で見えているのか? 
「そうかもしれない、どっこい二歩くらい歩けば、すべてマンガになる。だからこれくらい暗い方が、無駄な線が少なくていい」
 どうも、どっこいに気をとられる。
「なるほど。ぼくも人の顔を覚えるのが苦手だから、これくらいの暗い方がいいですね。覚えてなくても当然な感じ」
「二度目に会う時は、服装と雰囲気だけで勝負している。三度目か四度目以降はだいたいいい。だけど誤って知らない人に話していることもある」
「何となく調子を合わせているうちに、どっこい、その人のことを思い出してくるということもありますね」
「……コマ割としては、いかようにも成り立つし、そこから頭のなかで展開は変わっていく。だからあなたから声をかけてくれないと、危ういこともあるかもしれない」
 コマ割。つまりシーンごとのつながりさえも大小つけて、マンガとして再生されるのだろうか。なかなか、変わっている。変わっているけど、もしかしたら一般的なのかもしれない。きみはそのことを人に話すのは、初めてだったという。言葉にして整理されるところもあった。
 危ういことというのが何か気になるけれど、そういうことをそうこうしているうちに、かれは人とうまくすれ違えないのだという。そういう話になった。それは私も同じだ。
「おれの顔とかは、どんな感じなの」
 と、カウンターの奥で眠っていたように話をきいていた店主。かれは、又寝という。
「あなたは分かりやすい。一本線の目に大きい鼻。あとアフロみたいな頭ででてきますよ。おとぼけキャラみたいな?」
 張り詰めた流れに、急にとびだしてきて、リズムをはずす関係のない人。ひたすらに、意味のない会話しかしない、にじみだすような世間話。だからここが落ち着くということはある。
 そうしてこの会話は、文字でみるとスムースに行き交うようだけれど本当は音楽のでかいなかで、何だかお互い考え込みながら話すみたいにだいぶ間合いをおいてやりとりしている。ゆるやかに。
「ぼくはそうだ、あの、とりあえず画面を見てしまう。金魚鉢に映っているのだけど、天窓の光を反射していて」
「なんですか、それは?」
「ホログラムのようなもので、あー、何かがゆらいでいるから、えんえん眺めているんです」
 わたしは口にすると全てが何も伝わらないような話し方をしてしまう。何を言っているか、よく分からない。
「そこに動くなにかがあると。なんですか、箱庭みたいなもの?」 
「箱庭。そうですね、枯山水みたいな感は、たしかにあるのかも。なんか、動いている。水っぽいからゆらめいてて。それがたまに、日ざしを浴びて大きな影絵をつくったりしている」
「なんかおしゃれっぽいな。どっこい、俺は蟻の巣に鼻毛をさして眺めるのが好きですよ。それくらいでいいでしょうよ」
 また、どっこい。
「そうですね……でも蟻の巣に鼻毛だなんて、むしろなんだかしゃれてませんか?」
「そんなこたないよ、蟻は鼻毛を近しい種族だと思って、よじ登るんです」
「はあ」
「それで登るうちにくにゃっと折れるものだから」
「はあ」
「たいして前に進まない」
 しかし、蟻の巣とは盲点だったかもしれない。ものの本ではよく出てくるけれど、ちゃんと見たことなんてない。だけど、動いていて眺められるものだったらなんでもいいのではないか。文字が流れているのもそう、色々なひとが色々な文字を書き残して流れていくのをみる。川のような流れに表に現れたものを、現れた様子を眺めて頭の中で転がしていく。
「いや、見切れてますね」
「はあ」
「……うん。どっこいしょ」
 きみはそういったが、見切れているという言葉の意味が私はよく分からなかった。みんな使っているから何となく口先で合わせてみるけれど、分からないから話もその先に進みようがなかった。何か、視界から外れているとか何か切れているということ? そこまでは分かったとしても……それを異なる文脈で使われるとどういう関係性になるのか。分からない。具体的な図式をイメージするのが、私にはむりだった。画角という言葉も、そうたぶん。
 そうして世の中にはたくさんの言葉が流れているなと思いながら私は、あほみたいな顔をしてゆっくり歩きながら帰って、ホログラムを眺めてみる。
 鉢のおかれたカウンターキッチンの向こうはリビングルームで、そこがこの家の中枢として12畳くらいあるのかな、わたしと妻さんがふだん過ごして少し余裕があるくらいの広さ。
 わたしはキッチンの丸椅子に座り込んで、あの件のホログラムを5秒くらい眺める。どうということもないが、何か脈打つように、たえまない動きをしているようにも思える。 

3 

 pm10時。
 今田さんというのは、全体にまん丸い感じをしている。もさっとした髪をして、もさっとした歩き方をする。その今田さんと会った薄暗い店にいくと、まずわたしは、寄木細工みたいに凹凸していて妙なかたちをしたドアを、いつもどう開けるのだったか忘れながら、押したり引いたり、どうにかして開けて店に入る。人がよってきたアラームに気づいて又寝が開けてくれることが大抵だったが、早い時間はそうでもないこともあった。
 で、開けて、まだ夜の始まりだというのにもう薄暗い。開いたばかりだから客は誰もおらずストーンと抜ける感じで浅めのテクノなんかが流れている。窓は空いていてその下から電車がたまに駆け抜ける音がする。いいな。小さなカウンターには4つイスが並んでいて、わたしは奥から二つめくらいに腰掛けて、店の雰囲気を眺めてみる。
 店の準備がだいたいすむと、又寝は何か自分の飲み物を手元において座っている。うすくした、ジュースか、水割りだろうか。最近内臓をおかしくして倒れたというから薄めの飲み物を飲んでいるらしい。
 わたしはとりあえず、ビールを一本もらう。冷えたグラスと冷えた瓶をひとつ。とりあえずそれでいい。それでどうするかというと、とりあえずぼんやりする。薄暗いお店に置かれたぬいぐるみや机の汚れなどを眺めながら。
 部屋に入ってそうして静かな気配が流れているときに、わたしは落ち着いている感じがする。それはどこか、静かな音楽のようでもある。誰かが楽器や何かで演奏しているわけではなくて。あるいは、自分が音楽になりたいのだろうか。
 この店は、Mという。ああどうも、と又寝とあいさつのように会話した後にぼんやりうつろに考えていると、いつしか隣に客がくる。二人組で、えんえんと最近見た動画の話をしている。
「××××の新しい番組が始まってて、あれ見ました?」
「あ、そうなん。今見てみようかな…………、あ、ちらっと見てたかもしれん。××××って、あれだよね、○○と前つきあっていて……」
 相手方が応えると、その倍くらいの量の言語を流暢に話す。ここは「文学系」のお店で、文学に興味があるという人が一定数集まるところだった。文学というのも、音楽と一緒で得体のしれないものだけれど、少しく人は集まるみたいで、その二人連れと隣の人とは、文学をテーマに商いをする映像の人の話をしている。その界隈ではそこそこ知られた人らしいが、界隈がスモールなので、説明がないとほぼ誰もわからない。そこでも男女? の仲というのは耳目を集める話題らしい。
 店主の又寝もそれに何となく耳をかしている。又寝がやっているから店名がMなんだという。それは伏せ字のM。又寝はわたしよりすこしだけ世代が上だ。
 よくしゃべるお客、正直うるさいなとわたしは思っているのだけど、又寝と馴染みみたいで、カウンターの中にいる又寝と、ねぇ、なんてたまに相槌を求めたりして、又寝もそうねと何となく応えたりしている。
 わたしも又寝に水をかけてみる。いやこの言い方はあっているのか。向けてみるのではないか。ええと、それは水でいいのかな。
「あのじぶりの新作、見ましたか」
 条件反射なのかアホなのか。うるさい客と全く同じパターンで話しかけてしまった。
「え、何それ」
「はやおの、十年ぶりの」
「ああ何かお客が言ってたな、見たの?」
「みました」
「絶対見ないから、内容全部おしえてよ」
「長くなります」
 そうしてだらだら中身のないこと話しているうちも隣客はどうも声色がたかい。
 わたしはその客とたまたま隣に居合わせただけで、直接会話をしているわけではない。声がすこし高めで、早口なもので、聞いていると、だんだんとうるさい。もう少し、ペースを合わせてみてはどうだろう、この店の雰囲気とか、酒を飲むペースとかと。声が大きい、大きい声で、神経質な甲高い感じが、わたしが落ち着かない。なんかうっとうしい。
 又寝からたまに全然噛み合わない相槌をもらうのだけど、それくらいで丁度いい。

 この飲み屋の路地には色々な文化圏の店が集まっている。その店はオジサンから若い人まで……、なんていうと曖昧だけれどまあ、いくつかの世代が集う店だった。Mは文学系らしいから年代物のカウンターには文庫本が並んで壁には単行本のぎっしり詰まった本棚などがあって、そう、本が好きな人が集まるお店なのだろう。
 又寝というのは一切本というものを読んでる気配はなくて、むしろ音楽の方に精をだしていた。だからそうわたしが先ほどいった静かな音楽という感じが近いのがこの店じゃないかという感じがあった。いいかな、そこにある本が静かな音を出しているみたいと言っても。
 音楽自体がいいもので、部屋のサイズに比して大きめのスピーカーからテクノのようなのや、何か生っぽい音でもオーガニックなミックスされたのなどが、わりに大きい音で流れている。けれどその音をうるさく感じることはそうなかった。木の壁が音を吸い込んでいるのか……。いつしかそのビートなどお構いなく、人と人は飲み物をあおりながら、話し込んでいる。
 それは、その場は、小さな音楽。無音ではないし、うるさいわけでもない。
 いつか、そんな演奏をする人を見た。広い木造の、平家の本屋の一角で、イスにすわって小さい音でギターをつまびいていた。うすく、手元で魚をさばいているくらいの音量。魚といっても小魚ではなくて、小ぶりのアユくらいのもので、時折、青緑にきらめくお腹をみせてばしっと跳ねたりしている。それを連れの園内さんと一緒に、聞くともなく聞いていた。
 園内さんというのはこのあとよくでてきて、この話にはつづきもあるけれど、そんなことを思い出す。

4 

 Am1時。
 店で、川の話をきいた。川の向かい側とこちら側とで、何か動きをしてそれをパフォーマンスとして収録するのだという。
 鱒々川は古来から近郊から江戸への物流の主流として使われて、一方では水葬のメッカでもあり、あ……、何かの由縁と「わたしたち」がもつテーマが組み合わされて、その行動が計画されているみたいだ。途中からよう聞いていない。
「川とか対岸という距離感は、よく思う。ぼくもよく、あのぼくの家の対岸にいる二人住まいのギャルのことを考えます」
「ああ、あの、金髪とめがねの」
「そう彼らと同じよりどころをもっているわけだから、何かお話をしたら面白いんじゃないかなと。でも道端であっても……きっかけはいるよね」
「縁がいる、のかな」
 まだMにいて、そこにいた人とぼんやり話していたら何かそういう話になっている。わたしはすでにだいぶ曖昧で、タバコを吸い散らかしながら、ゆっくり、うすいお酒を飲んでいる。その人がわたしのことを知っているように話すのは、同じ話題が二度以上くりかえしているということなのだろう。
「あ、あ、忘れたころに、そういうできごとはあるんじゃないかな。大体、そうでしょう」

 そうして帰る。いつもの道をふらふらと歩いて、周りにたつ樹木の様子などをながめてア、あきと言ったりして、15分くらい歩いた先のとある行き止まりの道の右側にそのアパートはあって、奥の方にいってひそやかに階段をのぼると家はある。するともう部屋は暗くなっていて、はいると、
「ところで、次いくところは、ケチャップの」
 そういって妻さんが寝入ったところだった。というか、寝入っていたからそう言ったのか。
 ケチャップというのは、チューブに入った赤い調味料。酸味や甘味のバランスそれと塩辛さなど、そのゆくすえは多岐に及ぶのだろう。私は個人的な好みから概して興味はないのだけど、だからこそ逆にケチャップのもつ世界観というのは気になるかもしれない。知らないからこそ、無責任に広がりを考えられるというか。逆ケチャップ、というのもあるのかもしれない。本来フタが下向きについている独特の思想のプロダクトだけれど、そこではフタが下じゃなくて、絶対に上向きにある。
 そんなケチャップをどうするのか、とても気になって、すこし、何もしないでそこに立ち止まっていた。
「粒度や舌触りによって、見える景色も変わっていきます。あとやっぱり赤の色味。そして、用いるときのあなたの気分。それによって、ケチャップにおける住む場所の家賃とか階級のようなものまで決まってしまう。だからいいケチャップを、使いたいものですね」
 ケチャップの世界はシンプルだけれど奥深く、その中に入って出られなくなる人もよくいるのだという。
 あ、お腹が動いた。

5 

 Am1時。
 今日のわたしは普段に変わらず曖昧で、この時間にもなれば正体を失うか失わないかという状態を保ちながら、Mで飲んでいる。顎関節症がだらしなくなり、顎がカタカタとゆれ続けている。カ、カタ、カタ。
 そういえばこのMでは、前置きが随分コレクションされている。ただ……前菜の前の突き出しだったり、サンドイッチ、前菜の前の前のお茶だったり、その茶と次の茶の間にはさむ余興とか……それか食事の前の入念な断食とか、界隈のどこの店でもそうであるようにMでは儀式めいたことは一切なく、カウンターにおかれた駄菓子をつまみながら、酒を飲むだけだから。前置きがあっても、眺めるほかない。けれどだからこそ、前置きは前置きとして認知される。わたしたちはそれを眺めることもできる。
 気づくといつもの騒がしい、カウンターの先客らはもうおらず、音楽のボリュームはずいぶん大きい。何か人の手で作られているようなビートが、延々と響いている。でも人の手で作られていないビートというのは、もう何だろう、雨の音とかなのだろうか。ああ、電車の音か。電車はときおり、その窓の下でガタガタと走っていって、すこし空気を揺らして、心地いい。心地いい感じがする。
 カタ、カタ。
 そのビートの裏で一人の男性が、くだけた調子で又寝と話している。わたしも時々話をふられて、話を返したりしている。彼はプログラミングなどを生業にしているのだけど、時々、文章などを書いてみたくなるらしい。なるほど、話す話にも筋道がきれいに立っていて、微細に細やかに、分かりやすい。
 わたしはしがない編集者、紙の本や雑誌なんかを作ることを生業にしているのだけど、わたしの話は曖昧で長く時間がかかり、分かりやすさとは一線をかくす。原稿も自分で書くと、人の目に触れるために直す方が時間がかかる。この客のような人なら、何か原稿を書いてもらっても分かりやすいだろう。最初に概要をクリアに書いて、各論に入っていって、結論。出だしのヒキは万全。随所にキャッチーなフレーズ、馴染みのある固有名詞などが散らされて読者を飽きさせることはない。言葉は歯切れよく、そう長々した言葉は使わないし、比喩は必要な時だけつかって、誰が読んでも誤解を生むことはなく明晰に……。筋の通らない寄り道も、もちろんしない。
 え、だけどそんなもの面白いのか? 
 彼は、カウンターに置いてある大箱のマッチを擦って、タバコに火をつける。タバコはふだん吸わないらしいけど、たまに酒のときに吸いたくなるそうで、さっき買ってきたと。わたしのようにダラダラと酒と交互に吸うでなく、そういう吸い方というのは好ましいし、羨ましい。
「さっきから話を聞いていたのだけど」
そうふとわたしに水を向ける。水というかアルコールか。
「ライターなんですか?」
「はい、ライターですね」
 そうわたしは応えて、襟なしのシャツの、胸ポケットに入れていたライターをだして示した。安い量販品だけれど、あまりこの国では売ってないタイプの、リップクリームみたいなかたちをしたライター。わたしはけっこう好んで、店頭でみかけると買って集めていた。小さな筒状で、そのときのは黒い色をしたプラスチックだった。擦る歯車状の石が大きくて、かわいい。せっかくなので、そのライターでタバコに火をつけてみる。
 彼は黙ってわたしがつけたタバコの火を見つめている。流暢さが途切れたのは何かあったのか。わたしは何かを間違えたのか。
「ライターというのは、火をつけるためだけの道具だけど、こうポケットに入れるとちょうどいいですね。手持ち無沙汰のときに、役立つ」
「そうですね、出る音とか、火花がたって着火する感じもいい。誰かに合図したりね。だけど……」
「あー」
「……」
「ライターというのは、もしかして、ものを書くライターですか。あの、文筆といいますか」
「べたべたやんね」
 又寝が口の端ですこし笑った。彼は、何だかよくわからない、関西弁のような言葉で話す。つまり男は、わたしを物書きとか、そういう文章を扱う人だと思ったらしい。それはまあ、しがない編集者ではあるのだけど、そんなこと言われるなんて思ってなかった。わたしは、なにを話していたのだったか。
 今日はそんなカウンターにいて、この時間になるといつだってボンヤリしていて、話は進まない。けれど進めるとはつまり、何なのか、そこに時間が流れるということなのだろう、アップテンポに、スローリーに。前に歩むのか、右に左に、ゆるりらと揺れているだけか。
 語りや語り合いというのはどう進むのか。
 話のうまい人というのはいる。まずつかみで自分という人のキャラクターを示す、相手の受けを注視しながら、芸人みたいにテンポよく話題を展開していく。料理がうまいみたいに、淀みなくチューニングを重ねては話は途切れることはない。あれこの話、似たようなことさっき言わなかったか?
 カタ、カタ。
 話す二人の時を埋めるのは、顎がうっすらなる音と、果てしない気配と途切れがちな雑談。音楽と溶け合った、そこにある空気。
「そうじゃない?」
「そうかもしれませんね」
 何を話していたのかは忘れているがきっと何も言ってない。
 気配の音楽がつづいていることで、景色は揺れている感じがする。ゆったりと眠くなってくる。赤子は揺らされてようよう眠るけれど、それと同じことだろうか。彼らはそう、インダストリアルな白い嬌声でだって眠るだろう。無数の響きで圧されて、もういい寝ようってなる。そこに電車の走りが交錯する。
 あとどうもこの部屋は、建物の性質上どことなく傾いていて、トイレなどに立つたびに揺られる思いがする。経年劣化で構造がどうもあやしい。劣化。わたしの好きな作家もよく使っていた。揺られるから響きが、立体的に交錯する。そうななめにななめをかけて、人もななめになって、揺れているのだった。傾きすぎてもう丸くなっているかもしれない。
 カタ、カタ、カタ。

6 

―― 歩くのって楽しいよね
―― そうだね気候がいい、風がきもちいいから
―― 景色がかわるのがいいね。あなんか喉かわいた。喫茶店はいりませんか?
―― 古そうだね。いいじゃない

 ふと、いつだか園内さんと歩いていて、交わした会話を思い出した。歩きながら話しているから実際はもっと話の流れる要素があるわけだけれど、歩くのって楽しいよねとは何だ。もうちょっと言うことがあってもいいけれど、歩くのって楽しいよね、それはそう。
 でもわたしはまだMの店で流暢な男と話している。
「ああ、いい」
「いいですね、こう、やわらかいけど、なんか芯のある感じ。アジアの国でこういう音を聞いた気がする」
 ライターとわたしを呼んだ人とわたしは、なんとなく流れる音に反応しながらゆらめくように会話している。ひずんだアコースティックギターの音が、なんかファジーに反響している。それが1分も2分もつづいている。店主はもう半分寝ている、自分が流した音で。
「いいですね」
「いい感じ」

 ここではない頭の端っこで、とても静かで精妙な音が流れている気がする、ゆーったりしたジャズギターに、ひそかにサックスや、管楽器の音がからむ。ひそやかな森で流れているような音楽。大きな、ふあふあしたリズムがあるようで無調なようで。どこか哀しく、からりとしている。そうした音にたまらなく焦がれるときがある。子守唄のようでもある。
 でも今はシンバルの音のはなしをしている。うるさすぎて鼓膜が閉じてしまうようで逆に静かだと思えば思える、と。眠れない夜のえんえんと続くもやもやとか、歯などを激しく治療された長い痛みみたいに。そんなの、いいのかな。
「すべての音階を出し続けているというのは。何だろう、聞いているときは単にうるさいだけでも、続いているうちにだんだんうっとりしてきて」
「 眠くなったりしますね」
「ああいう眠みはいいね、溶けていくみたいな」
 重なっている音の下地に流れている、通奏低音? ヘリコプターみたいに流れている、ふと流れる電車の轟音みたいな音……。
 ゆっくりゆっくりと話すのだけれど流れている音量がでかいものだから、区切りながら、けっこう声を張ってお互いに話している。工事現場の端っこにいる、汚れた鳥みたいに。
「そうかもしれないね、しかしうるさいな、ここは。いや。うるさいけど、静かな感じもする。壁がうまく音をすっているのか。音の周り方がいいのか」
 そうやって、煙草の灰が灰皿にえんえんと積もっていき、酒のグラスもえんえんと空いていく。おつまみ代わりに置いてある器の駄菓子も、えんえんとそのフクロが、器のそばに盛られていく。そのままクシャとなったものもあれば、丁寧に結ばれてスキマに差されたものもある。店主は時折、むくり、と活性化して、あいたカウンターのそこをさっと片付けている、うすく割った酒を片手に飲みながら。
 それもまた、音響や旋律なんだろうか。音をききながらわたしたちは何となく反応をかえして、それが水面でこだまするみたいに、跳ね返して、跳ね返して、何となく時はたつ。時刻はそう、3時すこし前くらい。いろいろなテクスチャーのテクノが有機的なリズムを刻んでいる。うっそうと暗くて、森みたい。
「ただうるさい音、というのもある、ほんとにある。人の気持ちを逆立てようとして逆立てている」
「こないだの日曜の、昼下がり。街宣車というのか、うるさい輩がきていました。でかいラッパの音楽を鳴らして」
「昼は下がるものですね」
「そうですね」
「しかしそれって、ぼくもきいたかもしれない、少し遠くで。こだまのように跳ね返ってきて」
「奇遇ですね。わたしはその目の前の家で。あれは何。だまって放っておくのがいいのか。しかしまあ、パフォーマンスとしてやっている感もあった。二人がそれぞれのカーにのって、『そうだ、そうだ』と区画をはさんで、相槌を打つんです。こだまみたいに……漫才みたいに。きっちり2時間、くるくると周囲をめぐって、帰っていって」
「BGMには、ならなかったですか」
 たまに二人は目線を交わす。まっすぐみるのではなく、暗がりに相手の意識を確かめるように。
 小さい部屋はえんえんと循環しているように見える。たまに人が出たり入ったりして、レイアウトが変化していく。グラスがあいて、駄菓子の袋が散らばって、無責任な言葉が散らされていくだけ、動きの少ない金魚鉢の中みたいゆるやかに時間が。
「音がいい」
 男は一人何となく話している。
 あ。なんだかどこかで、わたしはあせっている。うるさい人の声がうるさいのか、眠いのか、疲れたのか。ここにいても仕方ないような気がしている。だから、酔いの中の最後の勢いで席を立って、お勘定する。
 又寝が小さな紙切れをだす。サインペンで書かれたお会計。いつもながらの安価に安堵する。
「どうも、でした、また」
「お。またね……」

 カタカタ、カタ。
 時刻は3時、もうすこし過ぎで眠い。もうわたしの閉店にむけて気分を変えた方が楽しそうだ。そうして店を後に、話した男性とも何となく手で挨拶をしてでていく。細い廊下の細い階段を、ゆっくりゆっくり、すこしくにゃくにゃした脚でくだってく。たしかに斜めになっている床を踏み外さないように。どうも、ささくれがひっかかるような心地をのこして。
 さ、と帰り道に酔った頭をさましながら散歩をしていて、その実はさらに酔いの果てへと、缶のお酒を飲みながらゆらりゆらりと歩いている。わたしはなにかを喋っているけれど喋っていることに何の意味も理由もない。何の意味も理由もあるような気もする。
 そういえば、飲んでいる酒の種類については何も言ってなかったけれど、ビールに始まり、焼酎、ウイスキーなどを飲んでいて、そう強いものではなくて、なにかで割ったものをえんえんと飲んだのだった。
 夜の中街灯にてろてろとてらされ、歩く道を見るともなく、見ている。前や後ろに歩く人やランナーはおらず、ときおり、車が一台や二台、過ぎ去っていく。歩いているそこの壁には誰かが描いた文字があって、いつも横目で眺めている。「Dive」とある。
 何らかのお知らせのようなそのサインを見ながら立ち止まり、ふと、すがすがしい顔をした園内さんと過ごした時を思い返している。
 あなたと別れたあとの街並みは妙にあっさりしていた。ずいぶん懐かしい感じのする大通りは大きくて、対岸に人がわらわらとしていて、その先の飲み屋が連なる通りから、賑やかな声がもれている。
―― じゃあね、ふうさん
 それはわたしのあだなだった。どこからそんな名前がつくのだったか。そんな挨拶をいう声は、どうもドライだった。そのあとに、つづく言葉はないみたいに。
 景色は、宵闇がフィルターのようになって、妙に静かな感じがする。対岸の通りは窓を隔てた潮騒のようで、喧騒がくぐもった音の塊のようになる。わら、わら、わらららら、そんな声が大人数からでているような。
 そう、激しく大きな音でも、静かに感じられることもある。ビートの効いたテクノであっても、酒に酔うた人たちが大声で喋り合ってても、うるさくて声が聞こえないから、関係ないから、逆に頭の中がクリアに内省的になったりする。
―― あ、ははは
 あなたはすがすがしく朗らかな顔をしていても、ときにわたしは踏み込めないような、憂いの横顔をしている。それは春風の生暖かさのせいもあったのだろうか。すがすがしいふりをしていただけだったのかも。
 いけない、こう酔うているのだから、あんまブルージーでも仕方ない、と感じて、ふとポケットからライターを出してシュッ、シュッ、と音を出してみる。それをしていた誰かを頭のうちに浮かべながら。炎はつかない。風が吹いているからだ。風が言う。
「Dive」
 それはさっき見た文字だった。金釘文字でスプレーで描いたのだろう、勢いがあるようなないような、いいとも悪いともつかない、ただそこに馴染んでいる文字だった。経年劣化で、壁と一緒になっている。
 カタ、カタ。

 Am8時半。
 帰ってきて、朝。陽が射しこんでふと目が覚めた。
 隣では妻さんがすうすう寝息をたてている。妻さんは、園内さんと以前は呼んでいた。園内さんは妻さんになったからといって人が変わったわけではないのだけど、そのように言い分けている。人はじっさい、日々新しくなっているから。
 かの女のお腹では、今も日々すいすいと、何かが動いて、鼓動をつづけている。
 すごい。
 さて、とわたしはむにゃむにゃした頭でバーでのその後の会話を内省するけれど、どうも中身はよく覚えていない。頭にもやがかかったようで、爆音でかかっていた音楽ばかりが思い出される。デジタルにリミックスされたカントリー、ブルースみたいな音がよかったけれど、口の中で思い出されるアルコールの味がどうも同じくらいよろしくない。歩きながら飲んだ何かの、あの、ケミカルな具合が残っている感じがするね、舌に。
 穏やかな時間で、窓の外を見ていても、静かなアンビエントミュージックみたいに陽がさす。木々が草が、虫が鳥が、静かな音を鳴らしている。大家さんが丹精している庭には、何か色んな樹木が育って独特な生態系をしている。さ、わさ、として先が見えない。
 大きな陶器の鉢には水がたたえられていて、メダカが泳いでいる。水盆といいたいような、いつもいい感じに水があって、その水にはわたしのみている鉢のように色々な光が映し出されるのだろう。
 たまにそのそばを猫が歩く。三毛猫でずぶとくボディが厚い。ときおり夜中ににゃあとないている。
 水にはきっと、思いもよらない感情などがストックされている、長年にわたって。
 大家さんの雑木林により生態系がすこし豊かなのか、街中であまり見かけない鳥が行ったり来たりしている。やろうと思ってすぐに忘れてしまう家事の事ごとみたいに。

 そう、園内さんといた本屋でなっていた、ギターのやわらかい音色。その話がどこかへいっていた。その音の抑揚は、本屋の道を行く人の様子をみながら調子を合わせたり、外したり、ときに無音で周囲を眺めてはギターの木製の腹を軽く叩いたり。水面にかすかにのぞく赤ちゃん魚ほどの音を、ぽたりぽたりと流している。空気と、静かな会話をするように、余韻が多い。
 そう、で、天井が高くて響きがよかった。わたしはそんな様子を斜め上のロフトになっているところで、そこの棚を眺めながら見つめていた。感じながら、棚を見ていた。
―― 何だったの
―― いや、あの音を、音楽を妨げたくないなと思って。とても気持ちよさそうだったから
―― ……そうねえ、いい音だったね
 店のギターに耳を傾けていたけれど傾けることによってこの場にきた気分がリセットされてしまって、けれどもその音が清らかだから邪魔をしたくなくて、本をみるのがためらわれて。棚を見ていたと思いきや、わたしは用事を思い出したみたいにすたすたと、脇目もふらずに出てしまった。あまりに高潔なものに出会った気になり、その距離とか近づき方を考えるのも億劫になるのだろう。しかしそんな環境にあれよあれよと慣れていったら、本屋自体の楽しみも増えるかもしれない。定点観測みたいな感じで。けれどそう考えてしまうところで、何かよそよそしいんだろう。
 人と人の関係でもそうだ。
 園内さんとはそうじゃなかった。ときに毎週のように会って、歩いたりしていた。というか大体歩いていた。歩き疲れたら酒を飲んで、園内さんは茶を飲んで、また歩いて別れた。園内さんは、本とお茶、音楽を好んでいた。本というのは詩集や、往年の読みやすいエッセイなどが好きだった。
―― カフェインレスコーヒー、フレットレスベース
―― なに。どういうこと?
―― なにだろうね。似ているもの
―― ・・・・・・とか?
 意味のあることはほとんど話していないし、だいたいしていない。
 そうやって歩いていると、うつむく園内さんの頭のつむじが、横に見える。そのあたまという鉢はななめ上からみると一番円く、サッカーボールくらいの大きさで、可愛らしく見える。いや、ハンドボールのボールくらいだろうか。そういうふうに見るということは、自分の頭もそういうふうに見てほしいという欲求があるのかもしれない。そういう、思考にならない思考がある。
園内さんの頭は、横からみるとゆるやかにぜっぺき気味で、そこを見るのもまたよかった。そのかたちは、きっと生まれたころからそう変わってないのだろう。
 そうして前を見たり横を見たり、相手が考えることを考えてみたり、自分が考えることを考えたり。どうもせわしないけれど、えんえんと歩いていると気にならなくなってくる。景色はガードレール越しに、小さな商店が並んでいずれ住宅街、小さな横断歩道をこして自販機、自販機の前で飲み物買う高校生の男女をみて青春かなと話す。自転車二人乗りで去りゆく二人。マラソンの伴走やダイビングのタッグ、何か飛行機の操縦士たちというのもそうなのか、いつしか呼吸や足取りをおぼえて、二人に合わせた調子が生まれてくる。と思えば、急に終わる。駅についたから。
―― じゃあ、また
―― またね

 二人が終わって一人になっても、その余韻やテンポを残している。先に話したことのいい受け答えや、歩く距離感や角度の面白さ、その話す話のつづきを考えたりしている、誰でもないリズムに立ち返って。

8 

 Am9時。
 さ、さて、
 と言いながら全然さてじゃない。よ、よいしょ、といいながら全然よいしょじゃない。
 思いの寄り道は終わって、またその朝方から時間は進まない。というか、また寄り道をするんじゃないか、まっすぐ歩いても、ななめななめに歩いても行き着く先は大体似ている。
 そうして二度寝をしようか、どうでしょう。寝て気持ちいいのだからまた寝たらもっと気持ちがいいはず。
 そう思いきやわたしは、ぱっと起き上がって寝床をでて、ななめに傾きながら、隣の部屋のキッチンへゆっくり歩いて、そこに携帯電話が置いてあるついでに、いつものごとく金魚鉢に映る件の映像を見つめてみる、数秒くらい。その画は上と下とで色が分かれていて、何とも言えない精緻な紋様が刻み込まれている。さわやかな、朝の陽と空が映っているらしい。あさいブルーのふもとの方にうっすらピンクがやどっている。流れる雲なども行き交っているらしい。そのハーモニーを美とするならば、えんえんと、流れる雲の景色をみ続けていられるだろう。 
 その中には、樹木のようなかたちがある。とがったかたちの葉っぱがそよそよとそよぐみたいに揺れている。薄緑色で、光をうけて色合いがかわる。幹のところに一つ、青と黄色の合間くらいの、丸い何かが揺れている。ほおずきみたいな、黄金めいた果実にも見える。けれど少し毛色の異なる葉っぱの一枚かもしれない。近くによったり、違う角度から眺めたら、また違った見え方をするのだろうけど、この位置からしか見えないから、それが実なのか何なのかはずっと分からないまま。あるいは誰か他の人からみたら分かるのか、もしくは、他の人からしたら樹木そのものも見えないのかもしれない。
 とそうして、しばらくの間そんな矩形を見つめている。
 それで這い出して、隣にある居間のソファに横になって、ふとつけたテレビからは、最近の今っぽいバンドの、うたが流れている。大人数のロック? みたいなバンドだ。ギターのイントロからはじまって、なんかうたう。で、節が何周かして、またギターソロ、ここで歌、ここで3秒くらいのドラムソロ、わくお客。のる歌い手。というのは、考えてみれば妙だ。それって、やはり決まった何かルールをみんなが前提にもっているから、誰かがきめたわけでもないけれど、それが自然になっている。
 共同幻想みたいなもので、みんなそれを聞いて過ごしてきているから、ヘンだとは何も思わない。でもそもそもヘンじゃないのか……? 拍子があることはまだ分かるけれど、音響が深まることは何なのだろうか。音響自体は分かるけれど、そこに言葉がのることが、今どうも分かりきらない。
 でも意味なんてなくてもいいよな。
 わたしはふと、ヘリコプターのゆっくり飛び立つときのような音楽をききたくなった。訥々と歩いて。ひとの息遣いが息づくような。
 同じ寝床の奥で寝ていた妻さんは先ほど目覚めて、トーストをオーブンで焼き牛乳とお茶などを飲んで、朝ごはんをささっと食べ自転車で出勤していく。

 pm9:00
 時計の針がぐるっとまわって
 あそこのうりばに12時間
 わたしはようやくひとりになった

 近所の、団地の一隅にあるそのスーパーは、Aという。全国チェーンらしいがほかでその店舗に出会ったことはない。急にひなびたエリアにあるみたいに、打ちっぱなしのコンクリートでだだっ広い。どうも来る客来る客、とてもクセがある。杖をついた、半身がおぼつかないお爺さん。妊婦を見かけると「ありがとう。ほんまありがとうな」とお腹に語りかけておやつをくれる大柄なおばちゃん。にこにこしている赤ちゃんを抱く若いお母さん。くちヒゲをたくわえた、わけありげでスマートな白髪長髪のオジサン。両肩に2リットルの麦茶を抱えてにこやかに歩くお爺さん。グミの棚の前で1時間はいったりきたりする少年。ひっきりなしに訪れては去る自転車。
 わたしはここで働いている、わけではない。見ているだけでも飽きないので、わたしはうりばの通路からそれをえんえんと眺めているのだ。心の糧を得るべく、そこに過ごす時間を自分に課しえんえんと観察をする、独自勤務を日々している。今日は切れ目がなかなかつかめず、まさか営業時間ぎりぎりの長丁場になってしまった。

 缶とは不思議でぷしゅと開けると
 旋律と音響がいれかわる
 わたしはその缶をひらくとき
 久しぶりに宇宙を思った

 といってそういう夢をみて夕方に目が覚めた。缶を開けたのが切り替わるきっかけになったのか。それは安い缶のウォッカ飲料だったんだろう。昼過ぎにおきてまただらだらとうすい酒をのんだもので、胃腸が疲れたみたいだ。なんかいやだ、味も思い出したくない。瓶にはいったあれは、料理酒だったんじゃないか。いい歳をして、どうしてそこまでして飲むのか。

 それで今日は妻さんは帰りが遅い日で、わたしはおやすみだったから、もう書斎の窓の先は真っ暗で、夜。
 少し先に街灯がひかっている。氷のキューブみたいなのにはいった昔からある外灯が照らすのは、小路。そこは駅のあたりからなんとなくななめにつづく小路で、通勤通学、酔ったあと、酔うまえの喫煙路として使う人が多い。喫煙路というのは喫煙のためにある道で、人とすれ違うことも少ない夜だから、街中でもうまく歩き煙草を楽しむことができる。すった煙草のゆくえは、携帯灰皿にすいこまれるのか、煙草のはこなどに入れられるのか、それとも気持ちよく路上に打ち棄てられるか、排水溝のようなところに吸い込まれるか、などとゆくえまでは知る由もない。
 けれど吸われるときに、前後周囲の人の気配を気にしてしまうのはこの都市ならではの慣習だろう、どうも落ち着きがない。誰ともすれちがいたくないし、誰もうしろを歩いていてほしくない、そうまで気にしてまで吸うのが、昨今の煙草の路のようだ。だから文字通りの遊歩道ではなくて、遊べそうで遊べない、遊ばない道。
 それで、うたがきこえる。大声でうたいながら自転車で駆けゆく人がいる。なぜかわたしが近隣のことを考えてしまって落ち着かない、それで起こされてしまった病人などもいるだろう。ああいうのは、何。そこに周りの音はなくて自分の音だけを聞いているのか、あるいはその人の按配としてはこれくらいただの日常音であるという認識なのか、そもそもその歌が素晴らしいから皆んな聞いてほしいと思っているのか……。
「あっっ」
 どうしたのか、シャウトしている。野太い声が裏返ったような奇妙な発声で、聞こえ方によっては、かわいい。だけれど、酔うたおじいちゃんのしゃっくりみたいでもある。その人は、なにかよく分からない服装をしていて、重厚な山車みたいになったママチャリに、両手ははなして水平にたもって流麗にはしり、煙草を優雅にくゆらせている。

「ちゃららん、ちゃららん」
 それは遠くで声をあげた、飲み屋で会う今田さん、かれは一人、帰り道で考えている。呼応している、していない。勝手な物言いはよしてほしいと思いながら、適当なことを頭にうかべている。
 
 かれが頭にうかべた適当なことは言葉にもならず、ほんとうに適当だった。けれど言葉があるなんて、人のようなふりをしたわたしたちの、思い上がりなんじゃないか。
 いつからかもう、広い道路にでるとひたむきに、真っ直ぐ前だけをみてチャリをこいでいる。
 かれはまん丸なメガネをして目もまん丸い。鳥の巣みたいな頭をしていて、それにも結果的に丸みがある。髪の脂は少なめでからりとしていた。やや地肌がみえていて、地肌は生白く際立つ。それは日々洗っていないというわけではなくて、シャンプーをつかわない調髪をこころがけているのだという。その方が地肌の水分を保ち、毛根にとってもよりよい。趣味は蟻の巣のほかに、都心での野草掘りと、それを天ぷらなどに調理して人に食わせること。心をこめた調理をこころがけている。ついている土は食べるが、虫とかは外して、食べない。菜食主義なのだろうか。
 歳のほどはよく分からない。わたしと同じくらい三〇代か四〇代のどこかにも思えるし、一回り二回り上でも不思議はない。もしかしたら、大分下だったりするかもしれない。目線は落ち着かず、何を考えているのか、何も考えていないのかよく分からなかったが、何だか思いぶかげな風情があった。
 奇声をあげることも、今田さんとしては奇声のつもりではない。彼による、音楽の練習だという。なるほど独特な自転車で走ること、そのテンポや音響にあわせて口を台形型にして声をあげることが、かれにとって音楽になる。そういうことはあるかもしれない。人に聞かせるとかじゃない、彼のためだけの彼自身の音楽。
 景色はあいかわらず、マンガのようにコマ割りの中に、線描で区切られて見えているんだろう。
 もう少し彼について思いたいと思うけれど、彼はななめのかたちをしたビルに帰っていく。先の、Mのバーとはまた違うななめのビルで、この町にはななめになったものがまだ沢山ある。そうして今田さん、そそくさと自分の部屋に入ってしまう。そこで何をしているかは、よく分からない。ただものぐさそうに、だらりだらりと寝そべっては、時にセロリを煮るなどかんたんな自炊をし、焼酎などで晩酌をして悠々過ごしていると思われた。

9 

 Am9時過ぎ。
 さて、妻さんは職場へ最近歩いて通っているという。お家の外の階段をくだってから、だいたい30分くらいの道のりで、ちょうどいい運動になるのだと。
 妻さんは明るい笑顔でそういう。歯を見せて目を開いて。もともとはっきりした顔立ちなのだけれど、わかりやすく人を元気にさせるような顔だ。そういうふうに見えるように練習をしたことがあったんだろうか。聞こうと思ったけれど聞いたことはない。
 ふと天気のよい空だから、ふと目覚めてしまったわたしも、歩いていきたくなった。いやさすがに電車で30分の距離はむずかしいから、少し早めに家を出ようか。それがいい。

 わたしが勤めている雑誌社は小さな、十人もいないくらいの企業で、だいたい朝9時半くらいにわらわらと出てきて、夜は9時か10時には帰っている。人たちはだいたい12時間くらい、毎日そこで過ごしているのか。そこで本を作ったり雑誌を作ったり、それを売ったりしている。雑誌というのは、面倒くさい。構成があって、本文が流れていく。本文が流れるわきに写真や、写真にそえる小さい文字や、タイトルや小見出しが入っていって、さらに、読む人の視線や認識上のインパクトなんかを考えながら、デザイナーが苦慮して配置していく。パターンはいくつか決まっているけれど、内容や、バランスに合わせて、誌面上を毎回構成していく。
 そうまでやってもきっと、読む人は少ない。百万人に一人くらいなのじゃないかな。
 だから言葉がなにかを発信したり変えたりするというのは、だいたいが虚脱した幻想にすぎない。見出しだけは……もしかしたらリアルだ。それを読んで内容を察する人が多いから。読んでいる人の頭の中と印刷物の内容が響き合うということもあるだろう。ひょっとしたら。
 ところでどんな雑誌かというと、「無職」の業界誌。くわしいことは省くが、無職もまた言葉の一種。誰かがそういって意味が広がって、いいように扱われて。異なるかたちで、一枚の画面の中に折り重なって収まっている。無職というものを描いた人の手の動きやその素材という物質、作品にかかる光だったり、その空間の空気感とかもふくめて、言葉となって伝わってくる。さらにその作品を色々な眺め方をして、色々な意味や空気があらわれてる。
 無職や絵画にしかできないことはある。言葉にはならない、なにかわからないものをとどめている。無職も絵画も、文字ではないから、まだ自分にとっての意味を求めることができる。それで……それを読むときの自分を端から見てみると、また意味なのだろうか。
 ああ、それでオフィスには言葉を信じた幽霊たちが残っているらしく、遅い時間になっても、まだ人たちは何となくいる。一方でその人たちは、日記のようなものだったり、自分の創作なんかを、日々なんとなく紡いでいるらしい。そこに描かれているかもしれないのは、きっとそこで繰り返される雑な会話。仕事にひもづくだらだら話、ぼやき。おやすみの日に最近ふれた作品の話。料理の記録。家族の話や、浮いた話。
 わたしが出た後の部屋はまた、酒盛りが始まって楽しそうにしている。
 まあ、いいか。

10 

 pm9時。
 帰宅してぼんやりとしていると、なにか忘れていたことがある気がする。
 あ。無意識にみていた、ホログラム。あの、金魚鉢に映った矩形の。ひさしぶりに……、1日半ぶりくらいに眺めてみている。
「おかえり」
 妻さんがそういう。帰ってきたから、言ってくれた。
「あー、ただいま、ね」
「何か見えてるの」
「別に……。ただ空なのか、青かったり、ピンクがかっていたり、光彩というのか、色もいくつか見えていて」
「夜空なのかな。月がでてて、明るかったね」
「旅先でいつか見たような感じもする。暑くて、素朴な国で。横断歩道で待ってる人がみんななんかお喋りしてた」
「わたしも、もう少し旅を続けたかったな。もっとインドにいったり、ヨーロッパにいったり……したいな」
 どうだろう。勝手なことをいってはいないか。話が微妙に、ずらされていないだろうか。そんなことを感じながら、話は何となく続く。わたしも大したことを言っているわけではないから。
「旅先の光というのは、色々あるね」
 とても内容のないことを言ってしまう。
「湿度とかで光の感じも違うし。写真をみると面白いよね。アルバムつくりたいな……」
 妻さんがどこかアジアの国で撮った写真がトイレに飾られていて、いつも何となく眺めている。そうだなあれは、言われてみると光が違うしからっとしている。
「旅って、旅をしないから旅したくなるんよ」
「うん」
「気づくと全然ちがうところにいるというのが、いい。出る時は本当に面倒だし、出てからもどうして出たんだろうとか思うけど……」
「どんな景色がいい、旅先でみるのなら」
 話をてきとうに続けながら、ホログラムを見つめている。ホログラムにも奥行きがあって、その先にまた違うホログラムがある。いろいろな光が、想像される。その分の、陰や闇も。そのまま奥に合わせ鏡みたいに突き抜けていくことはあるだろうか。だけど平面は平面で、どこまでいってもただ平面がもぞもぞするだけとも考えられる。
 でもその画面の奥に小魚が泳いでいてゆらゆらしている。小魚への食事は、多い時では日に二回。平均して一回あげているのだけど、二週間あげなくても大丈夫だそうだ。それと冬は眠るので、ほとんどあげなくてもよいと。
「山かなあ。奥地の奥地の……奥の奥の方で。さらにそこから一山二山こえたあたりの景色。でも山は、けっこう飽きちゃうよね、前も話したけど。水の方が、眺めていて飽きない。なんでだろ。だから山に川なんてあるといいんじゃないかなあ」
「そうだね。山と水ね……」
 気づけば、ホログラムの矩形の中に立っている樹木のかたちが、ななめになっているように思える。それは以前からずっと、立っていたのだけど。真っ直ぐすくっと立っていたのが、強い風にあおられているようにななめに。わたしのみる角度がかわったのか、それとも、季節がかわって光の調子がかわったのか。もしくはたつ樹木そのものがかわったのだろうか。そこについている果実のような球体は、そのままついていた。違う角度から見ても球体にみえるからきっと球体なんだろう。まだあるけれどどうも萎れがちで、今にも落ちそうにみえるけれど、まだ落ちていない。
 時間によってその光は部屋の壁などに照らされ、影、うごく魚や草の影が大きく引き伸ばされて壁に映る。そこに人の影が行き交う。今は夜だから、とくに映されてはいない。

10.1 

 というか、水に映る矩形のこと、いつからかわたしはホログラムと言っている。本来は、立体的に色々な光を映す印刷技術らしい。だけど水は光を映すし、水自体もどこにでも映る。水の動きが映る。お風呂とか、天気のいい日の河の側面、水たまりの天井。それはちゃぷちゃぷと動いて、楽しい。
 思うにわたしたちの身体でも、光をあてれば反射するところはあるでしょう。あと内部どこかで波紋が起きるとそれが映って、何かあったのだと判ずる。気づかぬふりをしていても、動いているものは動いている。
 そんなことを考えてしまうぐらい、どこかでわたしはうんざりしているかもしれない。どうもいつだって誰かへの返事ばかり書いていて、書くとまた続くもので。それを眺めて遊んでいるところは、あるのだけれど。

 園内さんとわたしもそうして、どこかでうんざりしながら歩きながら、なかみのあることは話さないで、似たようなことを考えては、たまに言葉にしていた。足を進めるスピードとか、間、視線の運びなんかを感じながら、歩いて。ここで一呼吸をおいて、話す。
―― あ
―― いまいたね
 そうその時は、コウモリの話になって、そこにちょうど現れたコウモリを目で追っていた。園内さんはすこし戸惑ったような顔をしたあと、にやにやと微笑んでいた。午前1時もまわって、うんざりしたようなことはもうどうでもよくなってた。
 闇に、明るみじゃないくらみの方に目がいって、そんなところで動くものを、心なしかおっている。くらみから何かぴゅんと出てくるようで気持ちいいから。
 街中をすこし離れた住宅街で、ちょうど小高い坂になったそこには、坂のうえに電柱、その先に空、その間にコウモリが飛んでいた。宵闇にふと視界にあらわれて、ぴゅんぴゅんとせわしなく飛び回る。その軌道を目で追うけれど途中でわからなくなる。そのコウモリの手前にあなたの頭があった。どうしてか、そのまま坂にねそべってしばらく過ごした。これ、土手、というのだろうか。
―― あの本屋でながれていたギターがここで流れていたらいいな、ぬけのいいところでやるのが、いい気がする
―― いまいたね
―― ?
―― あ、寝てた……

10.2 

 本棚とか身の回りのものを収める棚がよくある。いくつもいくつも、折にふれ買い求めた結果、自分でも忘れていた小さい棚が姿をあらわす。引っ越してきた時などに思うのは、これはどこに置いていたのだったか。
 ひとつの棚を見ていると、外側の側面に、小さな穴がたくさん。画鋲であけた穴なのか。家をかえるとそんな家具にあいた音楽が気になる、気に留まる。何を留めていたのだろう。カレンダーとか、ポストカードとかだろうか。それか、気か。

―― あ
―― いまいたね
―― ね、意外と小さいし、思ってたより全然速い

 本棚の中には、本屋と同じように本が並んでいる。それは年代物の変わった棚で、本を表紙がみえるようにたてかけたり、背をだして並べたりできる。本には、色々なかたちと色があって、そこの背に文字が書いてある。それを何となく眺めることができる。古いものもあるし新しいものもある。
 その手前にはたまに、絵が飾ってある。そこにあったのは、いくつかあるけれど、何か骸骨のヒトを描いた小さな絵と目があう。緑色の空間にたつ骸骨は、サイケデリックで、寝違えたんだろうか、なんか首をかしげながら歩いてきていて、そういうヒトってたまにいる気がする。

―― いまいたね
―― 同じルートを……円の周りをずっとまわってるみたい
―― 速い
―― なんかすこし、空明るいね
―― らせんを描いているのかな
―― らせん……

 その絵はたしか、小さくて、展示会場に沢山描かれていた。ひきの画がインスタレーションになるみたいに、色々な色彩や呼吸の中に、こちらに向かってポーズをとったり歩いてきたりする骸骨が多く描かれている。骸骨というのはつまり目が虚な穴で、鼻も口もうつろなのだけれど、どことなくかわいらしく、キャラクターがある。その身振り手振り角度で、表情があるみたいにも。
 だいたい人のことを思い返すときもそういうふうに見えるだろう。雰囲気だけで、何となく……。

 飾り棚、飾り絵。
 ここで窓の外では、ざあと雨がふってくる。
 飾り窓、というのもある。
―― ねえ、パパる? 
 窓の人は、そう通りがかる人に声をかけるらしい。
 この部屋の窓は今はひとつの窓だけれど、わたしはふと片肘ついて窓の外をみている。それが映る矩形というのが気になっている。頭の中には色々なイメージがあって、それは矩形の画面に、窓に映っているんだろうか? いろいろと見えてくる気がする。窓というよりもっと、多声の、画面……というよりもっと川面のようなところに、人や声がもやっと行き交っている感じがする。
 立てかけて本の表紙を見せてくれる棚には、誰かが描いた小さな絵が、ひとつ、ふたつ、みっつ、いくつか点々としてかざってある。水彩でポタポタと抽象的な、明るい自然の風景のような趣がある。頭のなかを投影するようにそんなシーンが、ぽつり、ぽつりと並んでいる。
 あなたは自分の棚に、なにか人や出来事をためている。誰かと歩いた時間とか話した呼吸とかを。人によっては、飲んだ水を分類したり眺めたりするために使ったりもする。水源や鮮度、色味や飲んだ時間、飲んだ後の体調など。陳列画面に、片ひじついて、目線をかえずに、見入っている。クリックすると、そこから先へいくけれど、先へいってもただ、粒子の位置や色合いがかわっただけ。
 見入っているうちに背中がすこし、痛くなる。
 あと組んでいた脚なども。心を遊ばせているうちに家事などをする時間になり、そのまま何となく過ぎ去る日。けれどそれに生かされている日。

―― いま、いまいた
―― …………あ、あの仕切りの陰に
―― 仕切り……?

 そうしたことを、思っているときに何かを思い出す。もう一枚の絵。モノクロームで太い鉛筆で描いたようなドローイング。描かれているのは樹木と、その前に立つ少女? それに向かい合わせに、立つ少女。二人が横から描かれていて、出会えたような二人の様が、好きだった。薄暗くもあり、薄明るくもあって……それは昔どこかの画廊でかっていまは居間の、物置になっている座り机に置かれている。奥行きのある額装のなかにそれはあって、見てみようと、ふと、見ると、そこに銀箔の矩形が貼られている。絵画の中のレイヤーとは違う、不思議な効果で、それが絵であることを表現するような鏡。鏡には光が反映している。そのときは、天井の白熱灯が映っている。あるいはわたしを見ているのか? 
 矩形の奥に描かれた太い樹木はずっと生きていて、その前にたまたま、ふたりが待ち合わせたみたいだ。
 その画を見つけて見入っているわたしというのは、ぼさっとしていて、判然としない。どうして惹かれたのかを、思い出そうとしている。

 わたしが過ごしていたその部屋の窓の外には、対岸のアパートの廊下がある。そこに二人の人がきて、歩いている。ひとりはギャルっぽい金髪の人で、小柄で華奢だ。もうひとりは少し地味というか硬派な感じで、髪の毛は青く、細い黒縁のメガネをしている。青というのは黒が青っぽく煌めいているというわけではなくて、真っ青に染め上げられている。人によっては金髪よりも激しいというだろう。一度脱色しないと、ああきれいに青はのらない。けれどもメガネのせいか、何となく、派手ではなく落ち着いた印象がある。ここも田中。いや、棚か……。そんな二人が窓越しの対岸の部屋に、帰っていく。
 床にブックエンドを置いて並べてもいいかもしれない。だけども床に置くのは抵抗がある。本は暗い玩具であると、むかし誰かが書いた。

10.3 

―― 竹林を見ながら過ごしたいと思って、この部屋にしたんだよね。竹って面白くて、根っこはぜんぶ一緒なんだって
―― 同じ根っこから
―― 集落をつくるんじゃないかな
―― おもしろい
 それはいつか西のまちの竹林をバックにした家のこと。そのときも不思議と静かで、竹林がさやさやとそよいでいた。頭の中の音響は、それも反響しているのかもしれない。そうした友人の家は、風通しがよかった。よすぎた。近くには、昔からある、いわれのずいぶん多い沼があった。
 あの朝はとても澄んでいて光が、清らかだった。
 その家では当たり前のように歯磨きを、ナスの焦がしたカスのようなのと、詩をまぜたものを使っていた。ナスの葉の部分の断片と、こまかく刻まれた想いやオブジェのような文字をブラシにとって、歯を磨く。手作りなものだからたまにひっかかるような趣もあり、そういうものは流しに戻す、「ば」とか書いてある。そんな歯磨きをしながら窓の外の竹林を眺めた。 
 竹林はそのまま身体の部分部分みたいに伝達しあって、棲みかの丘も自分で作り上げたんじゃないだろうか。なぜだかわたしたちは始終おちついて景色を見つめた。劣化したフローリングの床、風のふく室。竹林をながめながらすったタバコと空気の印象が同時にある。
 それと、身重の彼の妻。かの女が横たわった、電気ストーブに囲まれた部屋は、あたたかく、穏やかだけれどどこか張り詰めた、笑顔をしていた。枕元には、カバーのはずれた文庫本が転がっている。たしか、山界隈の著述家のエッセイ。やや気難しそうな、しっとりした雰囲気の。
 わたしはその家のようすをボンヤリと眺めていた。竹林はさわさわと音を立てている。竹のそばへいくと、竹はたての筋目があって、それをよく見ると、深くなったり浅くなったりしている。色味も徐々にかわっていって、薄い黄色から、だんだんと青みが増していって、時にはグリーンになる。節くれがある。
 さわさわとほのかに、冷たい雨がふっている。その水をうけて、竹はさわさわと呼吸している。
―― よし、切ろ
 にわかに友人はのこぎりで竹を切り始めた。爆竹というものがあるように、この竹を燃やしたら節くれごとに爆ぜてたいそう面白いのだという。彼から、手伝いを求められる。切った竹持っててくれ。骨張った無骨な手で、軽やかな声でそう言う。

 寝しなに雨音を聞きながら、どうもわたしはボンヤリしている。妻さんの身体では、そんな竹の音もしているのだろうか。今きみは、色々な記憶や歴史を身をもって再生しているのだという。きっと覚えてないだろうけど。

10.4 

 Am9時。
 消せるボールペンの背中についている専用の消しゴムと、わたしが好きだった小ぶりなハードグミは、サイズもかたさもなにか似ている。
 そう思いながら、そこにきた。
「おはようございます」
「…………」
 挨拶は、したりしなかったり、返事はあったりなかったり。それは、出社という。たまにそうやってきて、ふだん会わない人と会う。ふだん、やりとりは多いけれど、顔を合わせるのは時折しかない人たち。コンクリートの部屋。昼間に来ると印象が異なる。久しぶりに訪れたそこはだだっ広いなかで数人がとつとつとパソコンをいじって何かを生産している。ごつごつした壁にたいし妙にフラットな窓から、とっぽい光がさしこみ、スピーカーから小さな、邪魔にならないかんじのゆるやかな、音楽が流れている。あれはアンビエントなクラシックなのだろう。
「元気ですか」
 久しぶりにきた人として、そう軽やかに言おうと思ったけれど、思いつきが先行したことにより口調は堅くなり、どうも面白くなかった。軽やかというかしれっとして貧困、歯切れも悪く空気に溶けていくようだった。初めて違う言葉を話してみたように。返事もはかばかしくない。
「こんにちは」
 かたことみたいにそう言われては、
「おつかれっす!」
 そう挨拶みたいに、自動音声みたいに、元気に答えてくれる人はいる。ハキハキと、笑みを絶やさない人。
 けれどそんな気遣いもさせずに、お互いにだるくも軽やかにやりとりする、そういう行き交いが好ましい。しかしそうならないのは、わたしの表現力の乏しさなのだろう。
 わたしは居場所がない感じがして、すたすたとその場を後にして、また外で仕事をするようになる。

 Pm9時。
 仕事もほどほどに家にいる。
 ここらへんは妙なアパートがたがいちがいに密集した、集落のような感じもある。それでわたしは勝手口からでたところでタバコをすっていたら、ちょうどトントンと階段をのぼって、対岸の部屋にギャルの人が帰ってきた。こないだ言った、似た境遇にある別の部屋。大きな荷物は何かがはみだしていて、洗濯してきた服だろうか。それか、衣装か何かか。その人は華奢な女性でボブカットを金髪に染めていて、顔は中南米の少年のような顔立ち。低く大きな鼻に、ぱっと花開くような大きな目。小柄で、心地いい悪文みたいに素敵な顔をしている。
 すこしすると青髪メガネの同居人と一緒に家をでてきて、
「あ、ねえ」
「なに」
「忘れちゃった、あの青いのつけるの……ごめんドア、開けて?」
「どっちでもいいじゃないのどっちでもそんなの……」
 相方はそういいながらも鍵を出してドアを開けて、彼女は部屋に靴のまますこしあがって何かをもってくる。二人の間では青というのがテーマになってるんだろうか。だけどメガネの方はあまり気にしてないから、特に理由はないのか。「青いのつけるの」というのが、アクセサリーの類なのか、それか部屋の中の青い何か電化製品などをつけることなのかは、分からない。
 ギャルはすまなさそうにしながら、二人は廊下を歩いて、階段をくだって、街にでていく。
 というのは一瞬横顔が見えたところから想像してみたまでで、また会うと違うのだろう。たぶん道端などで会っても誰だか分からないし、あちらも何も意識していない、おそらく。何なら背丈というものがあるから対面するとずいぶん印象は異なる。
 そんなことを眺めながら、ぼんやりとホログラムを眺めに部屋にもどる。ドアを開いたら、そこは部屋の中で、そこの鉢の表面に、世界が映っているような気がする。それは水のように、動いている。
 とはいえ、ぼんやりしているだけでも落ち着かない。それはぼんやりしていないということだろうか、あるいは充分ぼんやりしたのか……。時計の針が止まっているようにも感じられる。動いているのか、止まっているのか。
 時間と呼ばれる何かというのはあるのだろう。

 それでわたしを雨音がたたく。
 しとり、しとり。ざあ、ざざあ。なんかいい。カーテンが降りるみたいに、大きな換気扇みたいに音が空気をとざしている。雨音というのは、何かを思い出させる。
 さあ、さあ、ばたどた、ばったたた…………雨音だけではなくて、物音もあった。鳥だろうか、いいえ人、妻さんみたいだ。お腹のすこし大きくなってきた彼女は、今日は遅めの勤めを終えて、さらに友人と飯を食ってきたところで、だいたいわたしが寝そうな頃にふらりふらりと帰ってくる。遅い寄り道というのもまた楽しいもの。
「どこを歩いてきたの」
「あ、雨だよ」
「濡れなかった」
「まだそんなに。傘あったし。小さな川が、流れているよね。両岸が遊歩道になっていて。家ばかりをながめて、楽しいなって思いながら……」
 家やそこに過ごす人たちをながめるのはわたしも妻さんも好きなことで、窓に明かりなどがついていると、つい好ましく、食い入ってみてしまう。この住んでいるところの、文化だろう。文化というのは畑の土の中身みたいなもので、見かけるとわくわくしてしまう。むきだしに見えるから、もれだす妙味がある。
「川沿いというのはきっと人目がすくないから、あけ広げにしている人が多くて」
「やましいオッサンが見れたらいいけれど」
「あ、どこかで見かけたね。わたしは見なくていいけれど、でも庭で酒を飲んでる人たちがいてね、テラス用の木のテーブルと、アウトドアのイスがあって、4人くらいで」
「欧米みたい……」
「ああいうイスは、部屋の中でもつかったらよさそう。わたしもうすいビールを飲んで、楽しかった」
「一緒に飲んだの?」
「近くのコンビニで買って、歩きながら、川をみていて」
 そういって家人は、「〇・五%」とある中身の空いた缶を台所で流し、そこのゴミ箱に収める。ゴミ箱の中には五%、六%、七%、とんで十一%といった缶からがある。大理石風の表面をしたその実プラスチックのゴミ箱は割といい値段がして、妻さんのこだわりのプロダクトストアで買い求めたものだ。そのほかのゴミ箱にはペットボトル、生ゴミ、燃えるゴミ、燃えないゴミ、それと捨てようか、考えておくためのスペースが整然としている。十五%、とあるみりんのビンが置いてある。空き瓶は床置きらしい。
 妻さんはひまを見つけては、そこのゴミ箱の配置や、スペースにあるゴミ候補を戻したり、あるいは、それまでゴミではなかったものをゴミとして成立させたりしている。それは中間領域。枯れかけの植木だったり、古びたけれど磨いたりするのに使える歯ブラシなどがそれにあたる。
「ちょっとくらい、飲もうかなと。川に黒い魚がたくさんいて、それはスマホのライトで照らすと見えるのだけどすぐ逃げてしまって。ねえ。鯉なんじゃないかな。大きかった」
「今度、散歩しにいこう」
「そうだね」

10.5 

―― 香りがするね、しゃばっとした、お香みたいな
 いつだったか、セロリのスープを作るのが好きだった。鍋にごま油をうすくしいて、にんにく、玉ねぎを弱火でじっくり炒める。唐辛子をいれる。そこにセロリの茎の部分をいれてすこし炒める。水をお碗2、3杯ほどいれて、セロリの葉もちぎって入れる。鶏がらスープを少々。塩。そうしていると、徐々に香りがたってくる。セロリの香りというのは巧妙で、やはりセロリじゃないといけない感じがする。薄く油がまざった、するようなしないような、さくっとした緑色がするような香り。歯応えもいい。
 それは園内さんと暮らしだしてから何となくはじめた自炊のはじめだった。そう、スープはとても好きなものだから、自分でつくってみたら楽しいように思えて。
―― おいしい。葉っぱの部分がいい
―― そうだね、わりとうまくいった感じ
―― この組み合わせでパスタにしてもよさそう
―― そうだね
 そうして翌日の晩にはパスタをつくった。セロリは二本買っていたから、そのもう一本と、ベーコンも加えて。
 そのうちに、わたしと園内さんは一緒に暮らさなくなった。わたしの不実による。
 公園にいって、その公園はわたしたちのとても好きなところだったから、見ているうちにわたしは涙が止まらなくなってしまって、なんか演出じみてるなんて心のうちで思いながらも、やっぱり止まらなかった。あなたはそれを見ていた。公園の樹木も見ていた。公園の沼の手前の階段の途中で立ち止まる二人の様子は、樹木にとってはありふれた様子だった。中途半端なところで止まっている二人というのは、なにか、自然な感じもする。
―― この川は
―― うん
―― よくきたね
―― うん
―― あそこで転んだね
―― うん
―― …………
―― うん
 人に聞かせるようなものじゃない受け答えをした。
 そうしていつしか、また二人は元に戻って一緒になっていた。だから今こうしている。
 わたしはあなたを、見ていたいと思った。それはまた、見ていてほしいという気持ちが裏側に貼り付いている。缶詰のシールみたいに。
 その缶詰もまた、飾り棚に飾られてたまにみられているのか。あなたの棚では、どうだろ。整理されているのか、行き場のないままに、そこらに置かれているのだろうか。

10.6

 今日のニュースの見出しはこうだ。

 この先1週間、秋にしては寒すぎる
 シュノーケリング88年枯れない
 西高円寺駅大混雑のデジャヴ
 カコが50mバタタ7位、感極まって笑

『季刊無職オンライン』では、そうしたメジャーなメディアの見出しをなぞって適当に見出しを考えて、見出しに合わせて記事をでっちあげる。
 この先勤労週間、ふところ寒いが心はヌクい。パチゴロ1000人に聞いた「出る」台、大集合!
 これがいい見出しかは分からないけれど、媒体のトーンとしては間違っていない。冒頭のフレーズを変えてみるだけで、話は違うものに見えてくる。むしろ、人はそこの印象でパクリとそうでないものを感じるため、冒頭を変えるのは鉄則だ。天気というのは好ましい話題だけれど、それは一般誌だからこそ成り立つもの。専門誌としては、より何かに特化したテーマがほしい。勤労週間というのは無職の妙味を感じる時。ですから、その妙味をより立てるためにパチンコのテクニックを聞いてみようと考えている。
 そういった感じで、適当に見出しを立ててみる。それで、何かある。何かというのは、ネタの在庫がある。つまり何となく話の合う手持ちの記事を組み合わせてみる。無職の民たちが、時間があれば注目し拡散してくれる。まあ、あたることなんて年に一回、あるかなしか。あたったところで、売り上げはたかがしれている、そこにさいた人件費がカバーされるくらいだろうか。なおわたしは、パチンコをやったことはない。
 しかし無職のそんな本をつくるわたしたちが雇用され無職ではないわけだから、どうも誠実ではない。誠実ではない仕事は世の中に多いけれど、大きな矛盾ではないだろうか。しかし無職になったとて、この本をつくりだした途端、明白な無職とは味わいが異なる。

 それは存在自体が文学みたいなもので、そんな文学と、言葉を信じる幽霊たちをわきにおいて、わたしは自分の机に向かって、窓に映る矩形のホログラムやスマートホンなどをながめて、支払いだったり原稿の出し戻しだったり、言葉のやりとりをしている。
 その一方で心を遊ばせることには今晩Mで飲もう、などと。そういえばわたしは又寝の店についても文学みたいだと思っていた。つまり文学にはさまれてわたしは暮らしていると。そこに何とか、求められてもらっているんだろうか。

10.7 

 さて、さてじゃない。
 よし、よしじゃない。あれ、これ前にも言ったかな? 
 ところで、ところで寄り道っていい。
 わたしは、仕事の帰り道に駅までの道を歩いては、わたしの寄り道のことを色々と思い出している。思えばわたしは寄り道が好きなのだけど、それはいつからか自意識も適当な頃に、電車を乗り継いで遠くに通うようになってからの習慣なのだろうか。
 広めの、空いているカフェがよかった。冷たいビールに、お惣菜。ホットドッグ。そうしたものをついばみながら、好きな作家の単行本を読みふける。広めの窓は角が丸くて、そこから見える横断歩道を人が渡って見るのがそこそこ面白かった。どうしてかユウセンの音楽が球体をしたスピーカーから流れていて音のまわり方がよかった。
 そうしているうちに。飲み屋に通っては、決まった店のイスにこしかけ、決まったものを飲んでいる。

「開けようかな」
 ふと飲み屋にもどりたくなったわたしが、おやすみと貼り紙のある又寝の店の前で缶ビールを飲んでいると、そうこつこつと階段を降りてきた又寝が言った。貼り紙に十月までとあるがそうだな、もう十一月になったところだから、そろそろ開けようかと。
 狭い店の壁には、所狭しと棚があった。合板を組み合わせたそれは、壁に合わせて組み上げたのだろう。ところどころ傷や落書きがあって、埃をかぶったぬいぐるみなどが置いてある。
 その棚は本でぎっしり埋まっている。「文学系」とたまに言われるから、新旧の単行本や、文庫にすこしの新書と美術書など詰まっている。店主の又寝はちっとも読んでいる気配がないし、たまに本の話などをしても「どうして」「なにそれ」といって続かない。
 そう思っていたけれど、今日のその棚には、酒瓶がぎっしり詰まっている。棚のない壁には箴言めいた引用文が書かれていたような気がしたが、なんか、酒のメニューが所狭しと書いてある。あれ、そうだったっけ?
「そうなんよ、文学系とか書き込まれてるけど……なんでなんだろうな。それでくるお客がいるから放っといてるけど。本なんて5年くらい読んでない」
 唐辛子をつかったウォッカカクテルなどもある。書き文字が酒の味になっている。
 さて前にわたしは本棚を見つめていたような気はする。とするともっと小さい本棚だったのが、本をよして酒だけにしたのか。
「ちょっと片づけたかもな。本なんて面倒くさいし。下手だよ、おれはそういうの」
 この店は、店そのものが文学なのかもしれない。そこで主語は又寝という私で、私の場にうぞうむぞうが集まって、何ひとつ覚えていることはせずに酒をあおり帰りゆく。
 その日は客はいつだかわたしをライターといった件の客とわたしだけで、件の客はよく話した。又寝に話したいことがあったみたいだ。聞いていると、最近みたテレビ番組のこと。一般人を相手にしたドキュメンタリー。
「あのディレクターが曲者だよね。というか奥さんに露骨に『後悔してない?』なんてきいてて、よくないよね。どうかしてる!」
「ま、テレビだからな……」
 そうした会話がえんえんと続いてわたしはたまに相槌をうって……、タバコを吸っては酒を頼む。
 又寝はへんぽんとした顔をして、そこに立っている。時折酒のおかわりがないと見ると、身近な客のいる席にいって、ぐだぐだと何か会話している。この人のかざりのなさはいい。こんな街中に、こんな何にもない谷のような場があることがいい。そこで人たちは、何気ないやりとりしかしないから。だけども本当はそれだけでいい気もする。
 わたしは爆音のテクノをききながら、壁にある酒瓶を一本一本眺めてみて、そのかたちや手触りを考えてみる。ストレート型、とっくり型、不定形、キャラもの…………。瓶の中身のことは、よく知らない。音があいだの空気を埋める。
 そうするときのわたしたちは、誰でもない。散歩をしている二人のように。
「どうも、でした。また」
 流行するニュースや売れる番組はどうして不幸なものが多いのだろうと思いながら、家路を歩いた。それはたまに思うのだけどどうしてなのだろう。噂話や悪口が面白いのと一緒なのか。
10.8 

 そういえば、寄り道の話だった。
 前もそう言ったかもしれないけど園内さんとも、よくそうやって飲み屋なんかに寄り道をしていた。園内さんとわたしは、えんえんと歩いていたから。
 いつも会うとそうやって、この町のこの通りから、次の駅まで歩いては、道草をしては歩く。あの古本屋だったり、チェーンの町中華。知り合いがすすめていた喫茶店。出たり入ったり、ゆるやかに歩いて、そのリズムに足をゆだねてみる。
 あるいは、知人に会って一緒に酒を囲んだり、あるいは、そこで別れて二人でまたどこかへ歩いたり。電車に乗ったり、どこかへ。船にのったこともあった。船はいい。
 そうやっていつも見ていると、園内さんはからりと笑みをしながらも、どうしたって帰り道にこちらをとても見つめている時がある。わたしのうごきが面白いのだという。ただ見ている。それで別れ際にも、ただわたしを見ている。わたしがどこか見えなくなるところまで見て、わたしもわたしで見えなくなるところまで、あなたを見ている。あなたの視線は面白いから。そうエスカレーターのある程度、高いところとか。
―― またね
 そういって、二人はまた会う。
―― こんばんは
―― いつもそう言うね、昼なのに
―― そういう冗談なんだ
―― そう、こんにちは
 そうして、歩いていると時に、世界観こじれた人やお店に出会う。居抜きの喫茶店などで。それは誰かというか町の意思が、こじらせている。けれど天井が高くて音のまわりかたが気持ちよかった。

 寄り道のことを考えてみようとしたけれど、考えている最中にもそう、寄り道をしていてたどりつかない。歩く足も、考える頭も、なにかをながめる目も、選ぶ手も、ことごとくあてずっぽうに寄り道している。だからただ歩く。それは何かへの反抗かもしれない。
 でも、どれが寄り道でどれが本道なのか? なかなか思い出せないし、誰に決められることでもない。あなたが歩いているその道はどうだろう? 
 スモール、ミュージック。
 そこにあるのが、静かな音楽? 小さな音楽だったか? タバコの箱は気づけばすぐに減ってひしゃげてしまう。まだ少し入っているのだけど手元でいじっているうちに。
 そのうちにあなたはあなたの小さな画面に見入っていて、わたしもまた自分の小さな画面に見入っている。あのぽけもんとったのか。このへんにいるけど。
 いつからか、そうなっている。わたしたちが自分の視界という画面に見入っているのはずっとそうだから、そう変わらないのかもしれない。

10.9 

 Am5時。
 鳥の声がたくさんしている。
 チチュチチュというのが一番近く、左手の方から。すこし遠くの、カァというのがたまに混ざる。これはカラスだろう。あと色々としている。
 窓の外には、黄緑色の花をつける桜があって、もう葉桜になっている。風がいい。
 と思ったら風がやんだ。すると鳥の声もやむ。
 葉桜のとなりには棕梠、というのかなぜだかこの敷地にずいぶん植っている高い木がある。その右にはねじねじとした、たくましい感じの木。また棕梠。部屋の中にも植木がいくつかあって、外の木を見たり、中の木を見たりしている。
 その中間に画面があり、その画面に文字を打ち込んでいる。打ち込んだ文字を眺めている時間の方が多いかもしれない。あとはそこにある紙の本だったり、インターネット上の文字をよく眺めている。文章というのは、状況によって、見るともいうし、読む、とか、楽しむ……とかいう。絵みたいに見つめるということもある。
 画面のなかでは、
―― こんにちは
―― あ、ども。暑いすね
―― 暑すぎて、きついですね
 ベランダの隣同士で、そんな会話をしているらしい。一つ離れたベランダで、二人は時折交信をしている。お互いに出している音楽や流す映画の趣味が近しい。けれど出てくるタイミングが異なるものだから、何か馴染み深い気配を感じながらも、めぐり合うことはそれまでなかった。
 けれどあの、流行り病で世の中が閉ざされた日々でいつしか、しぜんと会話が生まれるようになった。といってもお互いにおしゃべりではない方だから、半年もたっても、それくらいしか話さない。
 とはいえ、お互いにうっすらとした好意はあるらしい。それは時と場合によっては、恋とそう違わない。けれども持続性はなくて、どうも、気づいたら日の光に色あせて、なかったことになっている。
―― あ、どうですか。冷たいコーヒーでも一杯、よかったら
 お一人が、氷をザクザクにいれたコーヒーをさしだしてきた。それは好みの喫茶店で買った豆を挽いて、氷をザクザクにいれてこしらえたもの。
―― いいですね

 Pm7時。
 頭の中に浮かんできたのは、あの新しい街に作られた新しい橋。ブルーの中くらいのサイズの、人だけがわたるには大きな橋で、そこを赤い道が走っていてそれは自転車なんかが走りやすい柔らかめのアスファルトのような路だった。やわらかい色調だったけど赤だったものだから、なんだか速く走れ! と言われている感じがした。小さい頃のわたしはそこを速く走るのが好きだった気がする、自分の足でだったか自転車だったか、分からないけど。速く速く、走って走って、ある日はげしく転んだか、人の自転車にぶつかったか。あるいはミラーワールドからやってきた自分にぶつかったか。ゴッチン、といって口の中に鉄の味がしたのを、覚えている。ゴッチン、というのは人の名前などではなくて、ぶつかったときの印象をあらわす。大きめの道路をわたる陸橋だからゆるい坂道になっているから……降りるときにスピードがすごくでるから。
 けれど走っているとき、わたしは誰でもなかったような気がしていた。
 そうしたことを話し始めると、妻さんは自分の身近に最近起きたことを話し始める。
「うちもこないだ、自転車用の道を走ってて、転んだんよ。ほんとゆっくり漕いでるから、軽くやったけど、ヒザ擦りむいて痛かった」
「それは危なかったね。よかった、軽くて」
「転んで、たいへんになった人もいるから……、子どもも、あまり放っておくと疲れちゃって、変な走り方をしたりするよね。右足と右手が一緒にでて、バランスをくずして転ぶ、事故もあるし、それがこじれて神経系の病気になるといった話もききます」
 うん、それはそれで大切な話だとは思うのだけど、そうするとそちらの話題が盛り上がってしまって、わたしの小さい頃の話というのが、どこかへ行ってしまう。その話をしているうちにそう。
 ただどうも、そうした話がしたい、とむしかえして主張するほどの話題でもない。それは全ての自転車の話であって、わたしの自転車の話ではない、と。
 あるいは、はじめから、そうしたテーマをそれとなく前置きするのがいいのか? でも、どうしたって話というのは大体横へ横へとスライドしていく。横へ、横へ。縦とか奥行きというのは、そうなるときとならないときがある。わたしの場合、大抵は、ならない。どうだろう。
 そんなことを誰かに話そうと相手のことばかり気にして話しても、なかなか気持ちは伝わらない。
 それは、あなたとのやりとりにおける凸と凹で考えると凹のところで、意外と、凹のところを人は共有して馴染んでいるのかもしれない。そこでいい。凹のところであなたはぼんやりと口を開けて何か考えたり、スマートホンを眺めたりしている。そういえばあのぽけもん、もうつかまえたのか? 
「ふうさんはそうやって、ずっと何かあけすけで、ぼんやりしてるんだね」
「否定しているの」
「肯定だよ」

 ところでわたしと妻さんがいたそこは中華のテーブルで、わたしたちは野菜や餃子、麺類などを食べ終えて、終わったあとの飲み物をちんたら飲んでいるところだった。妻さんはアイスを待っていた。
 すこし離れた席ではママ会がされていた。ママ、というのはわたしのいる業界における言葉。原稿のやり取りをする際の記号の一種で、何もしないでいいただそのままでいて、それは間違いじゃない、という意味が込められた、ある種祈りのような符号。そんなママに日々かかわる人たちによる会合らしく、あれはママでよかったんだよ。しかしママにした結果、オンライン上でひたすら苦言が流れていた……ニュースの見出しにもなったよ、コメント欄荒れたし。でもそのおかげでピーブイ数が……あちょっとまって! それは新種のぽけもんか? ……といった話題がされていた。アップテンポな話が、同じトーンで始終続いていて、口をはさむすきはない。
 妙齢の男女たちは、このあともう一軒いくのだろう。そこで手渡されるのはどういうカラオケのリモコンなのか。歌うのは布施明? それとも何か。アンビエントミュージックだろうか。
 すると、
「なんでもこう、まとめるよね。まとめて、何かいい感じのように流していく」
「ああ、まあ……」
「しかも、リュックでいいって言ったのに、この袋にするんだね。これ、古すぎない……」
 また一方の後ろのいすで、そんな声がしている。そう入ってくる声というのも、また言葉で、会話だ、無防備で素朴な。お婆の荷物を、その息子くらいのオジサンが持っていて、袋の重さにぶつぶつと何かをいっている。荷物は運びやすい方がいいと思うけど、それはわたしの勝手な嗜好でありあなたに何かを言えるものでもない。
 そうしてお婆は何か、知らんわ―― といった意味のことを口の中でもさもさ言って、聞いてなかったかのように、袋のなかみを出して、また入れて、それをしながら餃子をむしゃむしゃ、口に運ぶ。

10.10

 この先1週間、秋にしては寒すぎる
 シュノーケリング88年枯れない
 西高円寺駅大混雑のデジャヴ
 カコが50mバタタ7位、感極まって笑

 またニュース記事を眺めている。画面に並ぶその並びを、ぼんやり見ていると、それは棚に並ぶ絵のようだな。それは見慣れたカタログを選ぶみたいに瞬時に決めて見る。
―― 遠くからみたら、何を選んでも一緒だし、みんな同じ行動をしているみたいに見える
―― そうだねえ
―― だけどそれを選ぶその人の目や身体の動きというのは、軌跡の延長でもある
―― そうなの? もっと動物的……なんじゃないの
―― 動物みたいなげっぷをくりかえして、軌跡ができているんじゃないかな
―― げっぷは仕方ないね
―― グフッ
 いつかどこかで何かをみながら、園内さんと話した。
 二人でみたそれは棚というか、展示活動というのか。インテリアショップにいくと、壁にいくつも、プリントされた絵が並んでいる。ちょっと高いのもある。紙自体の風合いや、印刷の手触り具合も微妙に異なる。そこで人は、肌におぼえのあるものを何となく選んで買い求める、そういった人が訪れる。買ったそれを部屋の壁やどこかに架けて、時折ながめては何かを思い出す。紙は、徐々に日に焼けたりカビが巣食ったりして、劣化していく。その手前でまた何か、人の行き交いが生まれる。
 その中に一枚、また何かある。
 画面なのか、印刷された写真なのか分からないが、記念写真のような男というかオジサンの二人がいる。一人は高らかに笑っていてもう一人はそうでもない、というか顔もよく覚えていない。
 さばっとした画面の中で、無表情で戯れる二人の顔は、白塗りだ。白塗りで頬が赤く彩られていて、呆けたように上の方に目線をやっている。画面では、そこにある二人の顔の下方を男の指が、白い絵具で徐々に埋めている途中。砂場で、砂の山を積み上げていくみたいに、ゆっくり、ゆっくりと。一人の顔はすこしわたしに似ている。髪型に親近感のある隣人みたいに。
 これは写真のようだけど、見ているとどんどん、奥行きができていく。山、を模しているような絵肌が感じられる。それをみているうちに何だ、砂浜でおどける人みたいに、彼らは顔だけ出ている白い山のようになっているみたいだ。目線はぼくもきみも、真っ直ぐ上を向いたまま。新しいオブジェのようで、淡々とあほみたいになっている。かれらに何か言うことはあるのか、いや、ないだろう。ただ空いている上に向かって「あ」といいながら呼吸するだけ。
 写真なのか絵なのか、分からないけれど、そういう画もある。

 10時10分。
 さいきん、静かな音楽はきこえてこない。
 季節がかわって、そうだ、もっと静かな音楽が流れているから、そこに夢中になってしまう。ほのかな灯りのように、あたたかそうなもの。あるいは、そのなかにいるのかも。
 気づくとホログラムの中の樹影も、姿がうっすらしている。代わりにそこに宿っていた果実がひとつ、地面に転がっているみたいだ。葉っぱじゃなくて、果実だったらしい。緑色をして丸い。その現実を見つめる、人のような影がある。頭身はすくなくて、キャラものなのか、妖怪なのか。近寄って拾おうか、それとも手をださずにおくか、迷っているよう。そこに、やってくるなにかの? なにか影はある。
 それは正方形の画面。その景色の斜め上に、不思議に鏡のようにひらめく、矩形が浮かんでいる。それはホログラムのなかにあるのかわたしの視界に勝手にあるのか、よく分からない。緑内障では、ないだろう。
 その奥に描かれた太い樹木はずっと生きていて、その前にたまたま、ふたりが待ち合わせたみたいだ。


photo ryudai abe 

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