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タモリの魅力を14個のキーワードで読解!若い頃の伝説・名言など

私は博多の出身だ。中学生のとき隣の南区のあたりを車で走っていると「そういえば、タモリは高宮中学校だよ」と母親から言われた。「へぇ」と答えた記憶がある。当時はそれほどまでに興味がなかったのだ。タモリといえば、学校をサボった日に見るいいとも!でなんかボソボソ喋ってるサングラスのおじさんという印象だった。

あれから15年、タモリをここまで好きになろうとは夢想だにしなかった。あやしい雰囲気、飄々とした生き方、物事を好きになる力、私はすべてにおいてタモリに憧れている。「好きなタレントは?」と聞かれると「タモリです」と音速で答える。ソニックブームがおきる。

タモリは間違いなく日本のサブカルチャーに大きな影響を与えた人物の1人だ。そして偉大なクリエイターでもある。

今回は美術やアニメ、マンガといったカテゴリではないが、ぜひともタモリという人物について語らせてほしい。

私が"タモリフリーク"になった理由

いきなり自分の話をするのも恐縮ですが、私は元来テレビっ子で、幼いころからブラウン管にかぶりついてきた。特にお笑いが大好きで、ネタ番組ごとにラベルをふって、VHSに録画してストックしていたほどだ。

すると、だんだん「シュールな笑いといわれるものが好きだ」と気づき始めるわけですな。高校生くらいからシュールな芸人ばかり観るようになる。平成10年代にシュールと言われていた芸人の代表格がさまぁ〜ずで、大竹の「悲しいダジャレシリーズ」なと買い揃えたりしていた。

それからラーメンズ、バナナマン、おぎやはぎ、バカリズムなどにスライドをしていき、関西では笑い飯に浸かり、遡っては板尾創路を追いかけ……と、お笑いシュール村をあちこち彷徨することになる。

そんな身の回りにシュールが溢れているなか、特に心を掴んで離さない人が「タモリ」その人なのである。タモリの笑いこそが、真のシュルレアリスムなのだと思っている。それがハマったきっかけ。

「日本一有名な人」と言ってもいいタモリ。しかしその素性を知っている人は少ないのではないか。そう、タモリはほとんど自分語りをしない。毎日テレビに出続けていたのに「タモリが一体どういう感性の人なのか」「どんな笑いをしていたのか」などはあまり知られていないのである。

14個のキーワードでタモリの魅力を完全読解する

さて今回はそんなタモリを14個のキーワードで読解していこう。知れば知るほど、タモリという人間のおもしろさに気づくはずだ。

そしていま生きづらさを感じている人は、よりタモリの生き方が響くに違いない。

ジャズとフラメンコ

タモリは終戦から1週間後の1945年8月22日に福岡市南区で生まれた。父は洋服の卸商、母はスポーツ用品店の接客業をしている、ごく普通の家庭で誕生する。

母はジャズ、父はフラメンコが趣味であり、タモリいわく「家ではずーっとフラメンコがかかっていた」とのことだ。幼いころから音楽に親しみながら生きてきた。

タモリは後年、早稲田大学のモダンジャズ研究会に属することになる。また芸能界に入るきっかけもジャズマンが関わっていたりする。この件については後述しよう。

ジャズといえば即興でのセッションが通常のもの。タモリにとってジャズはまさに「アドリブ力」を磨く礎になった。代名詞である当意即妙なアドリブ力は、楽譜(台本)のない世界で生きてきたからこそ磨かれたのだ。

右目の失明

タモリは小学3年生の際に、怪我をして右目を失明している。それが後年のアイパッチキャラやサングラスキャラにもつながった。

このことは意外と知られていない。タレントとして大きな事実なのに、知られていないのは、タモリ自身が話していないからだ。彼はそれほどまでに謙虚で、まったく自我のない人物なのである。

たった一年で早稲田大学を中退

早稲田大学に入ったタモリだったが、1年で学籍抹消となっている。その理由は「学費が支払えなかったから」だ。

といっても貧乏をしていたわけではない。仲間内で旅行を計画していた際に、仕送りがあるのがタモリしかいなかったので立て替えることになった。そのお金がとうとう戻ってこなかったから除籍となったわけだ。

そんな善人いないだろう。しかし本当にタモリがすごいのはこの後。その仲間たちとは、その後も何の変わりもなく仲良く遊んだというのだ。人生を変える大きなミスなのに、タモリはほとんど気にしていなかったのである。

就職・結婚

タモリは中退後も東京でモダンジャズ研究会の司会としてお金を稼いでいたが、親から呼び戻されて朝日生命に入社している。タモリ自身は「使い物ならなかった」と謙遜するが、当時の同僚は「ナンバーワンの営業マンで、社内で表彰されていた」と振り返ると。

そして当時の同僚・春子さんと結婚をする。今でもその後、大分でボーリング場の支配人に。意外にも一回ちゃんと就職しているのだ。

タカクラホテルと山下洋輔トリオ

タモリがサラリーマンを辞めて芸能界に入るきっかけを作ったのが山下洋輔トリオだ。

タモリはある日サックス奏者・渡辺貞夫のライブを手伝っていた友人と、タカクラホテルで終電まで語らっていた。

さて、帰ろうとした際に別の部屋で山下洋輔トリオ(メンバーチェンジしながらまだ活動中)が呑んでおり、ドラムスの中村誠一がゴミ箱をかぶって、妙な言葉で歌舞伎を舞っていたらしい。

タモリは偶然その部屋の様子を見て「気が合うに違いない」と乱入し、中村と2人で場を盛り上げまくったのである。朝までどんちゃん騒ぎをして、最後に「で、あんたは誰なんだ」と聞かれたときに「私は森田と申します」とだけ答えた。

バー・ジャックの豆の木

タカクラホテルの一夜のあと、山下洋輔は「新宿のジャックの豆の木」という、芸を見ながら飲めるバーで赤塚不二夫や筒井康隆などの友人たちに「福岡の森田」の話をする。「そんなに面白いやつならこのバーで何かさせよう」となり、山下は新幹線に乗って呼び寄せにいく。

それでタモリは「ジャックの豆の木」で芸を披露することになる。ちなみに「ジャックの豆の木」は、奇人たちの集まりで有名だったので、ちょっとやそっとなことでは笑わない連中だ。

このときに赤塚不二夫に振られて咄嗟にしたのが「イグアナのモノマネ」だった。

結果的にタモリはジャックの豆の木でも爆笑をかっさらい、人気者になる。

赤塚不二夫

赤塚不二夫はタモリの才能をいち早く見抜いた。タモリを居候として自宅に住まわせ、自分は下落合の仕事場で寝泊まりするようになる。また当時の赤塚不二夫は漫画家だけでなくテレビタレントでもあったので、番組のコーディネートもやった。

タモリは「空飛ぶモンティ・パイソン」でデビューを飾り、あっという間にお茶の間の人気者になる。その背景には常に赤塚不二夫がいた。まさに赤塚不二夫なくしてタモリの成功はなかったのである。

形態模写とハナモゲラ語

タモリがテレビで最初にしていたのが、先述した「イグアナの真似」をはじめとした形態模写系の芸だ。また、寺山修司のモノマネなどもしていた。

特に「4ヶ国語麻雀」など外国語の模写は、タモリの代名詞となる。

特に黒柳徹子がこのモノマネにハマっており、もはや準レギュラーと化した「徹子の部屋」では、毎回のように黒柳徹子からのリクエストがある。

そして毎回同じ熱量で黒柳徹子が爆笑する。徹子の部屋の代名詞「無茶振り」はタモリのアドリブ力だと難なくこなせるのだ。

このデタラメな海外の言葉を逆転させたのがハナモゲラ語だ。つまり外国人目線で日本語を聞いたらどうなるのか、ということ。これは山下洋輔トリオでも活躍した坂田明氏が発明して、タモリが世に広めた。

この外国語へのサブカル的な目線は、タモリ倶楽部の名物企画「空耳アワー」へと引き継がれることになる。

ソバヤ

「ソバヤ」はタモリが作詞した曲だ。歌詞は動物の鳴き声で、アフリカ音楽がベースとなっており「ソバヤ!ソバーヤ!」と言い続ける。

タモリいわく「半永久的に延ばせる曲」であり、オールナイトニッポンで2時間歌い続けたこともあるくらいだ。

つぎはぎニュース

こちらもオールナイトニッポンの企画で、タモリはリスナーから送られる「NHKニュースの音声を断片的に録音してカセットに吹き込んだもの」を流していた。音のコラージュだ。

もちろん文意は支離滅裂になるが、それがたまらなく楽しい。NHKの真面目な男性アナウンサーが読むのが、またたまらん。例文はこんな感じ。

今日午前10時半ごろ、川崎市高津区野川の道路でライトバンは道路脇のコンクリートの電柱にぶつかった上、更にその弾みで反対車線に突っ込み、大根を売ったり、おでんを試食したり、年に一度のお祭りを楽しむ一幕も見られました。

訳がわからんが、それがおもしろいのである。そういえば「お笑いスター誕生」でタモリはとんねるずのネタを見て「何やってるかわかんないが、それがおもしろい」と言ったそうだ。

これはタモリ自身が「何やってるか分かんないけどおもしろいネタ」をし続けてきたからだろう。こうしたネタは「ヨルタモリ」でも披露されており、かなり最近までタモリはこうした不条理なギャグをしていた。

シュルレアリスムと禅

タモリは以前ある番組で「30分かけて何か話してほしい」といわれ、仏教(特に禅宗)の話をしている。自我を捨て去ること、欲を捨てること、諦めることなどを説いた。

これを見て「やはりタモリは仏教に興味があったのか」と思ったのは私だけではないはずだ。元来、シュルレアリスムのような「何も考えない創作活動」をしている人には「禅」に興味がある人も多い。

「自分を表現すること」も素晴らしいが、それよりもっと無駄でバカらしくてナンセンスなことが好きなのだ。だからこそ「"自分"なんて存在しない」という結論に行き着く。すると、人は怒ることや悲しむことがなくなっていく。このことは後述しよう。

笑っていいとも!

タモリは1982年(昭和57年)10月4日から2014年(平成26年)3月31日まで、8054回にわたって「笑っていいとも!」の司会を務めた。この数は単独の司会者の番組としてはギネス記録だ。

いいともを続けていくなかでタモリはさまざまな名言を残している。どれも先述した「禅」にかなり近い言葉だ。

例えば「反省するな。向上心はいらない」。反省や向上心とは「未来」を考えたうえの言葉である。そうではなく「今を生きる」。これは禅語でいう「而今」だ。タモリの座右の銘は「現状維持」である。

また「やる気のあるものは去れ」も、ものすごく禅的だ。力を抜き諦めることで、周りが見えるようになる。諦めるとはもともと梵語で「明らかにすること」である。

いいともが長く続いた理由は「今だけに集中したこと」と「がんばらないこと」の2つがあったのだろう。またもう1つ挙げるとするならば「普通」を貫いたこともあった。

ミュージカル嫌い

タモリは「ミュージカル嫌い」としても有名だ。急に踊ったり歌ったりする様に「見てるこっちが恥ずかしくなる」のだという。

このミュージカル嫌いに通ずるエピソードとして「テレビの過度な演出を嫌った」という話がある。Mステやいいとも!でスタッフが演出をしようとすると「普通でいいんだよ」と直したそうだ。

往々にして「派手なコンテンツ」というものは、一発屋になりやすいものだ。おもしろいと騒がしいは、決してイコールではない。きちんと毎日「普通」であり続けることが、長く愛されるために重要なのだろう。

怒らない人

笑っていいとも!の最終回は、今でもうちのハードディスクに全編入っていて、毎年5、6回くらい見直している。この放送では最後にメンバーからタモリに向けたスピーチがあるのだが、みな口々に「怒らない」と言う。

鶴瓶だけが「僕は怒られた」と言っていたが……。

「怒る」とは「認めない」ということだ。すべてを認めて受け入れると、人は怒らなくなる。まさにタモリのシュルレアリスム、また禅的な部分が分かるエピソードだ。

また怒らないだけじゃない。人との距離も縮まるのだ。鶴瓶は「さんまもたけしも緊張するが、タモリは普通に喋れるんだよ」と言う。

またおぎやはぎの矢作兼はラジオで「タモさんは人の悪口言っても怒らないのよ。ずーっと自然でいられるの」と言う。良いことも悪いことも、すべて受け入れるからこそ、相手も肩の力を抜いて喋れるのだ。

タモリ三原則を知ると生きやすくなるぞ

生粋のタモリフリークであり、編集者・作家などの顔も持つ松岡正剛「タモリ三原則」として「仕込まない、批判しない、力まない」を挙げている。

まさにこの通りだと思う。ジャズの即興、テレビでのアドリブ、そして演出をしない……これは「仕込まないこと」。決して怒らない……相手を認める……これは「批判しないこと」。無理にやる気を出さない、諦める……これは「力まないこと」。

タモリ三原則は、なんと飄々として「楽」なことだろう。私はタモリのシュルレアリスム的な笑いが好きなのはもちろん、本当に好きなのは生き方なのだ。

人は生きている限り、人とコミュケーションを取りながら暮らしていく。ましてや現代はSNSが次々に流行って、過剰なほど他人の声が聞こえてくる、少し窮屈な時代だ。だからこそ私はタモリの気張らない生き方を提唱したい。

タモリは赤塚不二夫の弔辞で「私もあなたの作品の一つです」と言ったが、私はタモリの作品の一つなのである。

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