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ジョン・ケージの4分33秒は音楽史に残る沈黙だ【楽譜あり】

シュルレアリスムは決して美術用語じゃなくて「無意識をアウトプットする」という、どっちかというと思想や哲学の一部だ。なのでシュルレアリストは美術家に限らず、映画監督や小説家、詩人、写真家なんかもいる。ただなぜか音楽家はめっちゃ少ない。

しかしその希少なシュルレアリスト音楽家の1人が「ジョン・ケージ」だ。なかでも「4分33秒」という彼の代表曲は、長い音楽史のなかで唯一無二といっていい曲である。

個人的な話で恐縮だけど、あまりの素晴らしさに私は個人的にここ数年、LINEの音楽を「4分33秒」に設定している。もう心底、惚れきっているんです。

ショパンにもモーツァルトにもこの曲は書けないだろう。桜井和寿にも草野マサムネにも到底無理だ。というか、常人であればとても書く気にならん。桜井さんが書いてたら「ミスチル終わったな」といわれてファンが離れまくるに違いない。

この曲は「音楽とは」という概念を問いかけた作品といってよい。ジョン・ケージは、完全に天才すぎた。音楽について考えに考えた結果「あれ? 無音ってこの世に存在するんか? というか、音楽がない時間って人間の生活にあるんか?」という結論に至ったわけだ。

では、どうしてケージはこのとんでも理論に至ったのだろう。今回はシュルレアリスム音楽家、ジョン・ケージの「4分33秒」について「いったい何がすごいの?」を解説していく。

ジョン・ケージを変えた「シュルレアリスム」と「無響室」

はじめに書いておこう。ジョン・ケージはちゃんと変態だ。しかし「オギャー」から変態だったわけではない。じっくりことこと変態化していった。

彼はもともと建築を学んでいたりする。以前、パウル・クレーがもともとバイオリニストだったという記事を書いたが、ジョン・ケージも10代後半まで「音楽の人」という感じじゃなかった。

そんなジョン・ケージがアカデミーで音楽を学び出すのは20歳を迎えてからだ。最初はまだ伝統的手法で、音楽を作っていた。

しかし精神的には尖りまくっていて、師匠から「センスがないわ。メロディとかリズムばっかり見てないで和声を知れ。壁にぶち当たるぞ」と言われた際には「頭突きで壁ぶっ壊しますわ」と答えたらしい。

ちなみにその師匠とは現代音楽の父ともいわれるシェーンベルクだ。イチローから「ボールをよく見て」とアドバイスされて「目ぇつぶっても筋肉あれば打てるわ!」と答えたようなものだ。若きジョン・ケージはやばい尖り方をしていた。しかし音楽はけっこう真っ当なものを作るという、なんか変なやつだった。

そんなケージが本格的にぶっ壊れるきっかけになったのが、オスカー・フィッシンガーとの出会いだ。オスカーから「音楽は作り手の精神が表に出たものだよ」と教えられ、より哲学的に音を追求し始める。

このころはグランドピアノの弦にゴムとか木材を突っ込んで、ピアノを打楽器として弾いていた時期もあった。とにかく曲がぶっ壊れすぎていて、五線譜上でおたまじゃくしが円を描いていたりする。見たことないよ、なんだこれ。

その後もリビングの小物を叩いて曲を作ったり、あえてピアノの蓋を閉めて伴奏をしたりと、すくすく変なやつになっていった。ジョン・ケージの名前は一気に広がり、シュルレアリストであるマックス・エルンストが興味を持ってコミュニティに呼び寄せたくらいだ。

さらにシュルレアリスムから「禅」に興味を持ち、アメリカのコロンビア大学で鈴木大拙から禅の教えを受けている。シュルレアリスムから禅に興味が移ったのは自然な流れだが、長くなるのでまた別の記事で書こう。

その後、ケージはハーバード大学で「無響室」に入った。無響室とは完全防音され、さらに全く音が反発しない部屋のことだ。その沈黙のなかでケージは鼓動や神経系の音を体内から聴き「完全な沈黙ってこの世に存在しないんじゃね?」と静寂に興味を持った。

無音の音楽・4分33秒の凄さとは

その後、ついにジョン・ケージは名曲「4分33秒」をつくる。とんでもなくいい曲だ。

4分33秒は三部構成になっており1部が「TACET(休み)」、2部が「TACET(休み)」、そして3部が「TACET(休み)」だ。そもそもの楽譜は以下の通りである。

つまり4分33秒の間、まったくの無音。こんなにたくさん大人を集めて、何にも演奏しないのだ。めちゃウケる。

4分33秒はただ遊びじゃない。無響室の例を見ればわかる通り、静寂のなかにも音楽はあるのだ。上の動画を見るとわかるが、もう客が沈黙に耐えれんくなって咳き込んでいる。その「ごほんごほん」すら音楽だ。小石を蹴る音も、車のクラクションも全て音楽なわけである。

では具体的にジョン・ケージはなぜこの曲を作るに至ったのか。ケージの人生のキーワードをあらためて見ていこう。4分33秒の背景には、先ほど説明したケージの体験が全部詰まっている。

4分33秒のシュルレアリスム的側面

まずはシュルレアリスムの話。先述した通り、ジョン・ケージはマックス・エルンストらシュルレアリストのコミュニティにいた。彼は「偶然性の音楽」という言葉を自ら提唱している。

これはダリの偏執的批判的手法にかなり近い創作方法だ。ダリについては以下の記事でかなり詳しく解説しているのでぜひ。

前提として、当時の西欧音楽は作者が緻密なまでに五線譜を描き、ちゃんと表現するという考えが主流だった。世の中が表現主義だったのだ。

そんななかジョン・ケージはまったく真逆の思考で音楽を作る。「何にも考えずに音楽を作ってみよ」と思ったわけだ。なのでインクを五線譜に適当に撒いて作曲したりコインで偶然的に音階を決めたりしていた。

この背景には「固定概念から解放される」というジョン・ケージの考えがある。例えば「ド・ミ」とくればもう次は「ソ」だ。しかし次の音をコインで決めれば「ラ#」になるかもしれない。「ド・ミ・ラ#」というさっきまで考えもしなかった発想が生まれる。

この発想の自由とは、まさにアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」にある言葉とまったく同じだ。ジョン・ケージは確実にシュルレアリストなのである。

4分33秒から感じる禅の「無」の側面

そして鈴木大拙仕込みの「禅の世界」の影響も濃〜く出ている。一言で言って「4分33秒」とは「無」だ。それこそが禅宗が目指す境地なわけである。禅宗は「一切皆空」という言葉が表す通り「いかに空っぽになれるか」を目指す思想だ。

なんかごちゃごちゃ詰まってっから、生きにくくなるわけで、その自我やプライドやキャラクターをもうぜんぶ捨てちゃえば楽だよ、という考えなのだ。

「私」なんてものが存在するから人は疲れてしまう。奈良美智はもう目つきの悪い女の子しか描けないし、村上隆はカラフルなお花しか描けないでしょ? キャラクターなんてものは、ただの足枷で存在しないんだよ。そんなもん全部解放しようぜ、というのが禅の根本だ。

先ほど「西洋音楽はとにかく緻密な楽譜を描き、表現することを目指していた」と書いたが、これはまさに禅の思想の真逆だった。ジョン・ケージはそこにファンファンと警鐘を鳴らしたわけである。「表現主義なんて捨てろよ」と。「私の作品!私の作品!ってもうなんかいやらしいぞ」と。

つまり4分33秒という時間は、単なる物理的な無ではなく、精神的な無なのだ。ここには20歳の時にフィッシンガーから受けた「音楽は精神が出るもの」という教えが色濃く反映されているに違いない。

ジョン・ケージは音楽家ではなく思想家

ジョン・ケージの「4分33秒」は、音楽史に残る発明だ。作られたメロディやリズム、和声がなくとも私たちは常に音楽のなかにいる、ということを自覚させられたわけだ。

お茶を飲む時の喉の音とか、パソコンのキーを叩く音とか、そのすべてが異様にドラマティックな音楽のように思えるだろう。

厳密に言うと「音楽」という言葉には「楽器」という意味も含まれている。ジョン・ケージは「『音楽』という呼び方を『音の組織』に変えたらどうか」と真剣に提案している。ここには「建築的」な視点も垣間見えるのもおもしろい。

ジョン・ケージのシュルレアリスム、また禅的な仕事は、もはや音楽家ではなく哲学家に近い。そういえば、ジョン・ケージは「アマチュアキノコ研究家」としても有名だった。なぜキノコを選んだのかというと辞書の「Music」の隣に「Mushroom」があったからである。

これぞシュルレアリスム・禅的な人生の選択の仕方だ。いやはやこんなふうに飄々と生きていきたいものである。

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